6/19/2016

迷い子 終章

ゆるやかな丘を、旅装束のふたつの人影が登ってくる。

周囲に人影はなく、おだやかな春風が、低い草の生えた地面を撫ぜるように吹いている音だけが聞こえる。

丘の上に立つ、世界を覆うように大きく四方に枝を伸ばした大樹の根元までくると、人影のひとつ−−−ノリコが、大樹の幹に確かめるようにそっと右手を添え、顔を上げた。

頭上には、まだまだ満開の薄紅色の大輪の花が、豪勢に咲き誇っている。
なんて見事な眺めだろう。

「ユッグ」

甘い花の香りに鼻腔をくすぐられながら、ノリコが静かに呼びかける。

「そこにいるんでしょ?」

サアーッと軽く風が吹き、余すところなく満開の花をつけた枝々が、ノリコ達の頭上でかすかに撓った。

「.....」

頭上を見上げて呼びかけるノリコのすぐ後ろで、やや不機嫌な顔のイザークが、静かに腕を組んでいる。

「ユッグ、お願い」

ノリコの再度の呼びかけにやっと観念したのか、大樹の頂きから、ふわり、と重力を感じさせない軽い動きで、少年の姿をした精霊が降りてきた。

「ユッグ」

ノリコが、にこりと笑う。

その笑顔に、ユッグと呼ばれた精霊も、やや照れたように口角を少しだけ緩めた。

「−−−もう出発したのかと思ってたのに」

「ユッグに挨拶せずに発ったりしないよー」

「だ、だけどさ...」

明るいノリコの声とは裏腹に、その背後に立つ鋭い視線のイザークに目をやったユッグは、びくびくと怯えた様子でわずかに後ずさった。

「ま、まさかと思うけど、また僕を根っこから倒しにきたとかじゃないよね」

もう充分反省したんだから、許してくれよー。

そう言わんばかりに怯えたユッグの姿に、ノリコがけらけらと明るく笑う。
ノリコの記憶が戻らないことに苛立ったイザークが、桃忘花の木を押し倒そうと脅迫したことがあるなど、ノリコはもちろん知らない。

「まさかー」

けらけら。

明るいその笑顔をまだ信じきれず、ユッグは、その向こうにある、笑っていない漆黒の瞳の青年を上目遣いに見た。

「−−−−−−−」

じぃーっと疑いの目を向けてくるその姿は10歳そこそこにしか見えず、そしてその中身も、下手すれば幼い子供と同じような無邪気な残酷さを持っていることを充分その身を以て知っているイザークは、ムスッとした表情のままでユッグを見返した。

本音を言えば、彼がノリコにした仕打ちを、完全に水に流せたわけではないのだ。

幸運にもノリコの記憶は戻ったものの、下手をすれば、自分は永遠に眠らされたままあの森の中で朽ち果て、ノリコもまた、自分のことを思いだせないまま、ユッグの掌中に収められていたかもしれないのだから。

(......)

思い出しただけで、また少し腹が立ってきた。

だが。

「イザーク?」

なかなか返事をしないイザークを不思議に思ったのか、くるりと振り返ったノリコが、小首を傾げた。

「イザークも、もう怒ってない...よね?」

まっすぐに、みつめてくる瞳。

いつも、どんな時でも、自分が決して道を踏み外すことのないよう、正しい方向を示してくれる、揺るぎのない瞳。

(−−−−−−−−)

その瞳にみつめられたら、いつまでも腹を立てていることなど、できるわけがないではないか。

「ああ」

ふう、と軽く息をつき、イザークは観念したように目を伏せた。

「もう何もしない」

怒ってはいない、と嘘でも言えないところがイザークらしい。

(嘘だー、嘘だー)

まったく信用していない顔つきで、ユッグがさらに後ろに飛びすさる。
それとほぼ同時に、イザークがゆっくりと目を上げた。

「だが....」

やわらかな笑みを漆黒の眼差しが、すぐ目の前にいるノリコを捉える。
その視線に気づき、ノリコもにこりと微笑み返す。

その、笑顔が今そこにあることが、どれほど幸福なことか−−−−−。

「...お前のおかげで、救われたのも事実だ」

独り言のように、ぽつりと。

この世界に来たばかりの頃のノリコに、優しくできなかった。

自分を立たせておくことだけに精一杯で−−−言葉もわからず、孤独で、心細かった少女が必死にすがりついてきた手を、何度も払いのけてしまった。

そのことを、心の何処かでずっと後悔していた。

罪滅ぼし−−−とは行かないまでも、『あの頃』を少しだけでもやり直す機会をくれたのは、確かにユッグなのだ。

「それだけは、感謝している」

ノリコをみつめたままで、フッと微笑む。

その言葉に嘘がないことを知り、ユッグもやっと安堵に胸を撫で下ろした。

「仲直りできたみたいだね」

ふわり、とユッグのそばに。

「イルク!」

銀の髪に菫色の瞳の少年をみつけて、ノリコの笑顔がさらにぱあっと明るくなった。

「僕のこともちゃんとわかるようになったんだね、ノリコ」

「もちろん!ごめんね、イルクのことまで忘れちゃってて...」

「いや、ノリコのせいじゃないし−−−」

「わーっ!もういい加減にしてくれ−−−!」

また蒸し返されそうになって、両手で大袈裟に頭を抱えてユッグが音を上げる。その姿を見て、ノリコとイルクがおかしそうにクスクスと笑った。イザークも、かすかに口元に笑みを浮かべている。

「−−−でね、ユッグ」

笑いが収まると、ノリコが改めて紅い瞳の精霊を見上げた。

「イザークとも相談したんだけど、ユッグの枝を少し分けてもらえないかな?」

ノリコの意外な申し出に、ユッグが大きく目を見張った。思わず身を乗り出す。

「僕の...枝?」

「そう。挿し木をね、やってみようと思って」

「挿し木...」

「うん。この間の雨でこの森の地面も充分な水分を含んでいるし、ユッグの小枝を少しもらって、それで日当りの良い場所に挿し木をしてみたら、根が張るんじゃないかなって」

「ノリコ....」

「家族が、できるかもしれないでしょ?」

にっこりと、花のような笑顔で。
ノリコが続ける。

「家族ができれば、ユッグも寂しくなくなるよ」

ノリコの言葉に、精霊が、ハッと息を飲んだ。

「ノリコ....」

この、娘は。

自分の記憶を奪い、自分の夫を窮地に陥れた相手を赦すだけでなく、その相手が孤独から解放される方法をみつけようとしてくれている。

数百年を生きてきてもなお、ずっと満たされなかった心が、一瞬にして潤う。

ノリコが与えた『ユッグ』という名が、真に自分の名となった瞬間を、精霊は全身で感じ取った。

「ありがとう....」

心からの、言葉。

ふふふ、と照れくさそうに頬を染めて笑うノリコの肩を、イザークが誇らしげにそっと抱いた。


********


「じゃあ、またね」

ユッグの桃忘花の木がある丘の周りに、イザークとふたりで複数の挿し木を丁寧に行ったあと、ノリコが中央の大樹を見上げた。

幹の中心部分から浮き上がるように、ユッグが再び姿を見せる。
ふわりとノリコとイザークの前に舞い降りてきた精霊は、満面の笑みを浮かべていた。

「うん」

「また、旅の帰り道に寄るからね。その時には、ちゃんと挿し木が根を生やしているかどうか確認しようね」

「僕も、たまには様子を見に来るようにするよ」

ユッグよりも高い位置に浮かんだイルクツーレも、微笑んだ。

「お前は来なくていいってば!」

「まあまあ、そう言わずにさー。僕だって仲間が増えるのは嬉しいことだし」

「うるさいっ!」

悪態をつきながらも、ユッグも嬉しそうだ。
精霊ふたりがじゃれあう姿を、ノリコとイザークも微笑ましげに見上げていた。


******

「−−−さあ、次はどこかなー?」

桃忘花の木がある丘を後にしつつ、ノリコが大きく背伸びをしながら言った。

「知らない土地へ旅するのって、なんだかワクワクするねっ!」

未知の土地で、これから出会うだろう色々な人達。初めて体験すること。
考えるだけでドキドキするし、なにより、イザークとふたりだけでこうして目的もなく旅をできることが嬉しくてならない様子のノリコは、つい数日前まで記憶を失っていたことなどすっかり忘れてしまったかのようだ。

その楽しそうな横顔をみつめながら、対するイザークは、はあっと軽く溜息をついた。

ノリコと一緒に旅をしていて、平穏で何事もなかったことなど、そういえばなかった。

まだ旅を始めたばかりで、すでにノリコは記憶喪失になり、自分は森の中で死にかけた。これから先、一体どんなアクシデントに遭遇することやら。

(この先、思いやられるな....)

「?」

ひとりごちたイザークに、立ち止まり、きょとんとした顔でノリコが首を傾げる。

「イザーク?」

曇りのない、瞳。

「...なんでもない」

その笑顔を見返し、同時に自分もふっと笑顔になって、イザークはノリコに右手を伸ばした。

「行こう」

ぱっと花が咲いたような笑顔になって、ノリコがその手を取る。

しっかりと手をつなぎ、ふたりは、同時に足を踏み出した。


どこへでも行ける。

何が起こっても大丈夫。

ふたり。

一緒ならば。



****************

<あとがき>

皆様、こんにちは。迷い子、遂に終わりました。長くなってしまって申し訳ない。おかしいなー、こんな予定じゃなかったのにwww スミマセン。

実は、桃忘花のモデルになったのは、↓のような木なんです。もちろん世界樹と比べられるような立派なサイズではないんですけど、春になると、木全体が花を咲かせたみたいになってとっても綺麗なんです。名前も知らないんですけどねー。
















で、この木を世界樹みたいに大きくしたら、イルクツーレみたいに精霊がいてもおかしくないな、と。そこから始まった今回のお話でした。

次はどんなお話にしましょうか。一回完結型のちょっとしたふたりのエピソードなど書ければいいな、と思っています。これからもよろしくお願いいたします。

5 件のコメント:

  1. 完結お疲れさまでした。
    とても楽しませて頂きました。
    優しくて強くノリコが好きです。色んな意味で男らしいイザークも素敵です!
    今後も楽しみにしております!

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    1. こんにちは!コメントありがとうございます。
      本当は短編にするはずだったのに、なんだかダラダラと長くなってしまいましたが、なんとか最後まで書くことができました。お付き合いいただきありがとうございます!
      これからもよろしくお願いしますね。

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  2. はじめまして!つい最近「彼方から」を好きになった新参者です。こちらで描かれるノリコもイザークも、もちろん話の展開も大好きです!素敵な連載に出会えたことを感謝します。ありがとうございました!

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    1. こんにちは!随分と長い間、このサイトを放っておいたため、今日初めてこのコメントを見ました。
      ありがとうございます。彼方からは、私にとっても特別な作品で、新しいファンの方が訪れてくださったこと、とても嬉しく思っています。ラップトップが古くなってなかなか新しいものを書くチャンスがなかったのですが、新しくラップトップも購入し、今後はまた書いていきたいと思っています。またぜひ読みにきてください。感想お聞かせいただければ幸いです。

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  3. こんばんは~
    イソジンです。

    『迷い子』
    緩急の落差がすばらしく激しく、読み応えのある素敵な作品だと思います。
    も~な~んてカッコイイんだろう!

    7章の激しいシーンは、いつからか脳内で音楽が流れるようになりました。
    二人の声が聞こえないくらいの爆音で、音の隙間のところどころで漏れ聞こえるカンジ。
       :
    どこぞの映画で見たシーンなのかもしれませんが、いいトシして脳内妄想が激しくていかんデス…(笑)

    新しいお話も始まったんですね。
    そちらも楽しみにしておりまっす。
    ではでは…

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