「.....」
かすかな雨音に、長い睫毛がふっと揺れ、自分の左腕を枕にして休んでいた端正な顔立ちの青年が、ゆっくりと瞼を開けた。
横になったまま頭だけをわずかに動かし、まだ薄暗い窓の向こうに目をやると、しとしとと静かに雨が降っているのが見えた。すぐには止みそうにない。
(−−−−−今日は無理か...)
自分だけであれば、これぐらいの雨で出発を延期したりすることはまずありえないが、今は、ひとりではない。
いつ、どこから追っ手がかかるかわからない身で、同じ場所に何日も留まるのは本意ではないが、この季節の雨は、たとえ小雨でも体に障る可能性がある。愛しい少女に、風邪を引かせるわけにはいかない。
−−−−ふと。
すぐそばに、ふわりとした温かい気配を感じ、姿勢は変えないまま、頭をもたげ、そっと右肩越しに背後を振り返る。
「......」
それまで無表情だった青年が、目を細め、ゆっくりと、これ以上はないというほどやわらかな笑顔を浮かべた。
(ノリコ....)
青年の視線の先には、明るい栗色の髪の少女。
逞しい広い背中に息がかかるほどの位置に、わずかにうずくまるように体を丸めた状態で、少女が静かに寝息を立てていた。髪が顔にかかり、よく見えない。
「−−−−−−−」
少女を起こさないようにと細心の注意を払いながら、イザークは、ゆっくりと体を反転させて、少女と向き合った。頭を自分の右腕に乗せながら、少し位置をずらし、少し丸まった体勢になっている少女を横から包むような姿勢になる。
****
『えええっ?!お、同じベッドなのぉ?!』
宿の主人としては、粋なはからないをしたつもりだったのだろう。
通された部屋の中央にベッドがひとつしかないのを見た途端、動揺しまくり、ひっくり返った声を上げていた少女を思い出し、イザークはフッと軽く笑った。
これまでも、ベッドこそ違え、宿に泊まる際にはいつも同じ部屋だったし、野宿する際には、さらにすぐそばで眠ることがほとんどだったのに、同じベッドで一夜を過ごす、というのはやはり衝撃的だったのか、ノリコは顔を真っ赤にしたまま、口をぱくぱくさせていた。
もちろん、イザークのほうも心中はいささかなく動揺していたものの、それを表に出せばお互いにかなり居心地が悪くなることがわかっていたので、あえて平静を装っていた。自分から先にベッドに歩み寄り、右側のベッドサイドに腰掛けて、荷物を床に降ろす。
『−−−俺はこちらの端で寝るから、ノリコはそちら側を使え』
大人3人が並んで眠れそうなぐらい大きな寝台だ。端と端で眠っても、十分なスペースがある。
荷物から着替えを取り出し、また立ち上がると、イザークは、まだドアの近くで立ち尽くしたままになっているノリコに近づき、その頭を、軽くぽんぽんと叩いた。
『−−−先に風呂を使ってくる。お前はゆっくりしていろ』
言って、部屋を後にする。
『う、うん....』
ドアを閉める際、ノリコの返事が聞こえた。
その声は、ホッとしたようでもあり、どこかがっかりしたような声でもあったと思ったのは、イザークの気のせいだろうか?
が、自分自身、動揺を押し隠していた状態のイザークには、それを確かめるために振り返ってノリコの表情を確認する余裕はなかった。
−−−いつもより長めの風呂に入ってイザークが部屋に戻ってきた時には、部屋の灯りは薄暗く落とされ、ノリコは既にベッドの一番左端にもぐりこんでいた。
横向きで、口元まで深く毛布を被っているが、まだ眠ってはいない。薄暗い中でも、耳まで赤いのが見て取れる。息を詰めて、こちらの様子を伺っている。
『.....』
何か声をかけてやるべきかどうか、一瞬悩んだものの、諦める。
安堵、なのか、落胆、なのか。
複雑な思いのまま、イザークも黙って右側からベッドに潜りこんだ。
(−−−−長い夜になりそうだな....)
こんな状態で、眠れるわけがない。
背中を向け合ったふたりの間の空間が、やけに広く感じる。
左腕に頭を置いて横になりつつ、イザークはノリコに気づかれないようにそっと小さく溜息をついた。いつの間にか眠りに落ちたのは、それからだいぶ経ったあと、ノリコの呼吸が寝息に変わった、さらにその後だった。
****
「......」
朝方からだいぶ冷え込んでいた。きっと、ノリコは無意識のうちにイザークの体温を求めて移動してきてしまったのだろう。
右手で頭を支え、静かな寝息を立てている愛しい少女をじっとみつめたまま、イザークは、そおっと壊れ物を触るように、左手の指で少女の顔にかかった髪の一房を、その頬を指先でなぞるような動きで耳の後ろへ動かした。
安心しきった寝顔。
ゆっくりと上下する胸と、細い肩。
少女の顔の近くに置かれた右の手のひらに、自分の左手を重ねる。
そのまま抱き寄せてしまいたい衝動を、イザークはじっと堪えた。
(イザークが好き)
(ずっとそばにいてね)
(もう絶対、置いていったりしないでね...)
あの夜の、少女の言葉が呪文のように脳裏で繰り返される。
(ノリコ....)
−−−−欲しい、と思わないわけではない。
その身も心も自分のものにしたい。自分だけのものにしてしまいたい。
そんな衝動に駆られたのは、一度や二度のことではない。
愛しい。
こんなに狂おしいほど、誰かを愛しいと思う日が来るなんて。
女を抱いたことがないわけではない。
ノリコに出会う前の、まだ暗闇の中をただもがいてばかりいた、あの頃。
自分を支えるのだけに精一杯だったあの頃。あの症状が出て動けないでいた時、誤って人の命を奪ってしまった時−−−その端正な顔立ちだけが目的で言い寄ってきた、名前さえ知らない女達を、どうにでもなれ、という思いのままに、流れに任せ、抱いてしまったことが幾度かある。
−−−−だが。
(ノリコ....)
まだ、戦いは終わっていない。
まだ、「天上鬼」と「目覚め」としての自分達の運命を変える術を見つけた訳ではない。
まだ、自分がこの少女を傷つけずにいられる、という確証がない。
ノリコの安全は、まだ、保証されていない。
(まだ、ダメだ....)
自分に言い聞かせるように心中で呟き、イザークは、少女の手を包むように重ねた自分の手に、少しだけ、力を込めた。
「ノリコ...」
想いが、言葉になって溢れた。
その呟きに応えるように、ノリコが、すうっと目を開けた。
寝ぼけまなこで何度かゆっくりと瞬きしたあと、すぐ目の前に青年の漆黒の瞳があることに気づき、ふっとこぼれるような笑みを浮かべた。
「...イザーク...」
この状況にパニクらないのは、やはりまだ寝ぼけているせいだろう。
完全に目が覚めた瞬間の、少女の動揺ぶりが今から目に浮かぶ。
「−−−おはよう」
少女の右手の指に自分の左手の指をしっかりとからめつつ、イザークは、身を乗り出し、少女の額に軽く、しかしいつもよりも長く、キスを落とした。
(いつか....)
**********
<あとがき>
セレナグゼナでの出来事の後、心が通じ合い、再びふたりだけで旅に出ていた、あの3ヶ月の間の出来事、という設定です。(7巻と8巻の間?)でも、アイビスクの村では、なんの抵抗もなく真横で寝てたよね....
いやー、イザークだって人間だもんね。若いし。煩悩がない訳じゃないだろうし。
でも、たぶん、すべてが落ち着くまでは、彼だったら我慢するんじゃないかなー、とか、思ってしまいました。
イザーク、はじめてぢゃないんだ、うふふ。
返信削除「いつか」の時はしっかりとリードしてくれますね!!