夏が近づいてきているとはいえ、やはり夜はまだ少し冷える。肩にゆるくかけていたショールを引き寄せたノリコの瞳は、息を飲むような見事な満天の星空の下、目の前に広がる草原に向けられていた。
ザーゴとの国境からそう遠くない、グゼナ領内の小さな田舎町。
数年前、ジェイダ左大公一行と共に白霧の森を通って逃亡してきた際、重傷を負ったノリコが、治療のために数週間を過ごした場所だ。
滞在中、ずっと寝てばかりだったノリコの久しぶりの外出先に、とイザークに連れてきてもらった草原に、ノリコは今、ひとりで腰を下ろしていた。
草原を埋め尽くす色とりどりの花々は、今は星々と満月の光に照らし出され、青白く神秘的な色に輝いている。
「......」
町からも少し離れた場所にあるこの草原には、人影ひとつない。
昼間のように明るい月明かりに、音自体が吸収されてしまったかのように。その心地よい静寂に身を委ね、ノリコはもうずいぶんと長い間、そこにそうして座っていた。
ふと。
後方から、静かに高台を登ってくる人影が目の端に入り、ノリコは振り返った。
そして、満面の笑みを浮かべる。
「−−−−イザーク」
名を呼ばれ、青年もまた微笑む。
「ノリコ」
すらりとした長身の青年は、物腰も優雅で、ただ歩くだけの姿も絵になる。
いつもより少しゆっくりとした歩調で近づいてきたイザークは、見上げるノリコのすぐ隣に立ち、草原を見渡した。
「−−−こんな時間にひとりで来るなんて」
ほんの少しだけ、揶揄する口調。
が、特に怒った様子でもない青年に、ノリコはわずかに肩をすくめて応えた。
「だって、眠れなくって...」
その言葉に、イザークも仕方なさそうに口の端で笑ったあと、静かにノリコの横に腰を下ろした。すらりと長い足を伸ばし、膝を立てた右足の上に腕を置く。
ノリコは嬉しそうにふふっと笑い、座る位置をずらして、イザークの右肩にそっと寄り添った。
「宴会、もう終わったの?」
ガーヤ達が寝静まってから、こっそりと家を抜け出してきたノリコ。この草原に行くことは、誰にも伝えていなかった。
それでも、どうしてここにいるのがわかったの?とは訊かない。
互いに、相手の気配を遠くからでも辿れるふたりにとって、その質問はずいぶんと昔に不要なものになっていた。
「−−−いや...。ただ、バーナダムがひどく酔ってしまったので、コーリキ達が先に宿へ連れて帰ろうと一苦労していた。その隙にちょっと抜け出してきた」
小さく、苦笑。
イザークの口からバーナダムの名前が出て、ノリコも、微笑みながら、一瞬だけ、表情を翳らせた。
(バーナダム....)
まっすぐすぎるぐらいまっすぐな性格の、元灰鳥一族の青年。
イザークがノリコの気持ちを受け入れてくれた後も、婚約した後も、変わらずノリコに想いを寄せ続け、今に至っている。
「バーナダムに...早く、誰かいい人見つかると良いね」
「...そうだな」
それ以上は、触れることができなくて。
ふたりとも、しばらく言葉をつながなかった。
「明日、か...」
しばらくして、目前の草原に目を移し、イザークが静かに呟いた。
「−−−本当に良かったのか?ここで」
「え?」
「もっと...華々しい場所のほうが良かったんじゃないのか?せっかくの機会なのに」
「ああ...」
言われて、ノリコはくすり、と笑った。
樹海に寄り道した後、イザークと共にセレナグゼナへ戻ったノリコは、こちらの世界では母親代わりのように慕っているガーヤに、まず最初に婚約のことを知らせた。ガーヤは、『本当の娘を嫁に出すようだよ』と涙ぐんで喜んでくれた...。
そしてふたりの婚約の報せは、あっという間にグゼナだけでなく、ザーゴ国の仲間達の元にも届くことに。『元凶』を倒して世界を救ったふたりの結婚とあって、左大公達だけでなく、ふたりの正体を知らされていたパロイ国王までが賛同しての一大イベントにされかけたが、その申し出を、ノリコは丁重に断っていた。
「そりゃグローシア達は、なんだかやけに盛り上がってたけど...。あたしは、盛大なお祝いとかそういうの、別に欲しくないもの」
この、涙が出そうなほど綺麗な草原で。
イザークと、ふたりだけでも構わない−−−−。
本当は、そう思っていたのだけれど。
「−−−でも、結局みんなにお祝いしてもらうことになっちゃったね」
イザークを見て、ノリコは、ふふふ、とくすぐったそうに笑った。
ノリコのたっての希望により、首都セレナグゼナからはだいぶ離れたこの田舎町の、さらに外れの草原で『ひっそり』行われることになった、ふたりの婚礼。
さすがに国務のあるパロイ国王は参加できなくなったものの、バラゴやガーヤはもちろんのこと、『元凶』との戦いで直接イザーク達と苦楽を共にしたジェイダ左大公一家、アレフやバーナダム、ゼーナ達、親しい仲間達はみんな式に出席することになってしまった。
「イザークこそ、あんまり騒がしいのは苦手でしょ?ごめんね、なんだか思ってたより大ごとになっちゃって...」
「いや...。俺は、おまえさえ満足する形でやってもらえれば、それでいい」
式前日の今日、この町にそれぞれ到着したグゼナとザーゴからの一行は、男性陣は皆、町に一軒だけの宿屋にほぼ貸し切り状態で泊まり、女性陣は、ノリコと一緒に、以前使っていたのと同じ町外れの空き家を借りて、翌日の式に備えることになっていた。
元々、盛大な式にしたいと張り切っていたアニタやロッテリーナ、グローシア達は、式自体に関しては、できるだけシンプルに内々に行いたいというノリコの意思を(不本意ながら)尊重することにしたが、『婚礼衣装だけは任せて!』と、派手ではないが、見事な刺繍の入った婚礼装束を皆でふたりのために用意してくれた。
数週間前、セレナグゼナでの仮縫いの際にその美しい婚礼衣装を初めて見たノリコは、みんなの暖かい心が嬉しくて、思わず涙がこぼれた。
「−−−ドレス、とっても綺麗なの。イザークに早く見てもらいたいな」
少し照れたように、頬を赤くしてノリコが笑う。
その嬉しそうな笑顔を見ているだけで、イザークも心が暖かくなった。
「ああ。楽しみにしている」
「イザークの衣装も、きっと素敵だろうなぁ...」
今から、とても楽しみ。
呟き、ノリコはまた、イザークの肩に寄り添って、目の前の草原に目をやった。
「−−−ここにして、良かった...」
イザークに結婚を申し込まれる前から、一生をこの世界で過ごすことは心に決めていた。
ずっとずっと、イザークが望む限り、彼のそばにいたいと思っていたから。彼のそばにいることしか、望まなかったから。
普通の女の子は、自分の結婚式について色々な夢があるかもしれないが、ノリコは、そういうところは普通とは少し違っていたかもしれない。
きらびやかなドレスも、盛大な結婚式も、少しも欲しいとは思わなかった。
ただ、この人の隣に立ち、永遠の愛を誓える。彼の『妻』になれる−−−。
それだけで、苦しいほど胸が幸せな気持ちでいっぱいになった。
「イザークに初めてここに連れてきてもらった時−−−この場所があんまり綺麗で、言葉が出なかったの。まるで絵のように現実離れしてて...」
イザークに抱きかかえられて丘を登り、初めてこの場所に座らせてもらった時のことを思い出す。そこかしこに群生して咲き乱れた、色とりどりの花々。思わず息を飲んだ。
「結婚式をどこでするか...って話になった時、真っ先に頭に浮かんだのがこの場所だったもの」
ふふふ、と笑い、ノリコは、イザークの右腕に自分の両手を回してぎゅっと抱きついた。
「ありがと、イザーク。あたしの希望を叶えてくれて」
「ノリコ...」
答える代わりに、イザークは、ノリコの額に軽くキスをした。
(感謝するべきなのは、俺のほうだ....)
首を傾げ、ノリコの頭に自分のこめかみを当てる。イザークは、言葉にならない想いに、そっと目を閉じた。
***
「−−−それにしても」
しばらくして、ノリコが急にイザークの右腕から手を離し、掌を口元に当てて、思い出したようにぷぷぷ、と笑い出した。
「ふたりともここにいることがバレたら、きっと叱られるね」
結婚式前夜のしきたりとして、花嫁・花婿は、それぞれ別の屋根の下で眠り、式の直前までお互いを見てはいけないことになっている。
女性陣は、明日に備えてみんな古家で既に休んでしまったが、男性陣は、独身最後の夜の恒例行事として、花婿を囲んで深夜まで飲み明かすのが通例だ。その宴会の主役であるイザークが、こうしてこっそり抜け出してノリコに会いに来ていることがバレたら。
「言わないよぉー。でも、おばさんよりも、グローシアのほうがカンカンに怒りそうだけど」
悪戯っぽくふふふ、と笑うノリコに、イザークは小さく苦笑を返した。
しきたりなど、元々あまり気にするほうではない。が、愛しいノリコとの婚礼であり、これまでに世話になった人々の手前もあり、イザークとしても、儀に反することはできるだけしたくないと思っていたのだが。
それでも...我慢できないほど、恋い焦がれてしまう。
「−−−おまえがそばにいないと、眠れない」
手を伸ばし、ノリコの頬に指先で触れて。
イザークは、小さく呟いていた。
「イザーク....」
その彼の右手の甲に自分の左手を添え、ノリコはそっと目を閉じた。
「それは...あたしだって...」
『元凶』を倒してから、既に2年近くが経っている。各地を回り、光の力をわける任務を果たしながら、どこへ行くにも常に一緒だった。眠りにつく時、いつも、お互いの姿がすぐそばにあった。吐息を、体温を、肌で感じていた。
なのに。
ほんの一日とはいえ、今朝町に到着してからずっとほぼ強制的に引き離されて、会えずに寂しい想いをしていたのは、ノリコも同じだ。眠れずにいたのは、明日の式のことを考えて興奮してしまったせいもあるが、それ以上に−−−−。
「イザークに会えなくて、寂しくて...」
−−−ここに、来てしまった。
明日、ここでまた、イザークに会える瞬間が、あまりにも待ち遠しくて。
「イザークがそばにいないと、ダメなの、あたし...」
「ノリコ...」
呟いたノリコの頬に当てていた右手を、イザークは素早く彼女の頭に回し、引き寄せて、唇を合わせた。
そのまま、ふわりとノリコの身体に左手も回して抱きかかえ、花が咲き乱れる草の寝床に横たえる。
(−−−−ノリコ....)
月明かりに青白く輝く花々の中にふたりとも身体ごと埋もれながら、イザークは、ノリコの唇を貪欲に欲し続けた。
むせかえるような、花の香り。
頭が真っ白になり、身体の芯が、熱くなっていく−−−−−。
(イザーク....)
熱い口づけを交わし続けながら、イザークの右手が、ノリコの上着の胸紐にかかる。
そのまま紐を引いて解こうとして−−−−。
「......」
イザークは、ぴたり、と動きを止めた。
唇を離し、身体を起こしながら、深く息をついて呼吸を整える。
「イザー...ク?」
乱れた服を無意識に整えながら、ノリコも、少し怪訝な表情で身体を起こした。
「どう...したの?」
「−−−−我慢する」
「え?」
「一晩だけのことだからな。今夜は、我慢する」
「イザーク....」
「ただ−−−−」
イザークのこの急な態度の変化に戸惑い、複雑な表情を見せるノリコの右肩を抱き寄せ、耳元に、口づける。
そして、ぼそりと一言−−−−−。
「−−−明日の晩は、寝かせるつもりはないから覚悟しておけ」
(〜〜〜〜〜〜〜!!!)
ノリコの顔が、月明かりの中でもはっきりそうと分かるほどに、瞬時に真っ赤になった。
座ったまま、返す言葉もなく耳まで赤くして口をぱくぱくさせるノリコに、イザークは、クスリと笑いながら立ち上がった。
ノリコを振り返り、手を差し出す。
「−−−やめるなら、今のうちだぞ」
「え?」
イザークの手を借りてよいしょ、と立ち上がりながら、ノリコは、イザークの顔を下から覗き込んで首を傾げた。
「?...どういうこと?」
「−−−明日、この場所で誓いを交わしたら、もう後戻りはできないぞ」
怪訝そうなノリコの瞳を見つめ返しながら、イザークは、口の端に笑みを浮かべ、同時に、真剣なままの瞳で続けた。
「もう、俺から手を離すことはできなくなる。それでも−−−いいか?」
「イザーク...」
愛する青年の言葉に、ノリコは、一瞬目を見開いたものの、すぐに、こぼれるような笑顔を満面に浮かべた。
「−−−−うん!」
身体ごと、イザークの腕の中に飛び込んで。
「離さないでね。もう二度と−−−−」
答える代わりに、イザークは、ノリコの細い身体を折れそうなくらいきつく、しっかりと抱きしめた。
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