12/25/2013

氷の鏡 第1章

「えっ−−−、1ヶ月?!」

夕食を終え、食後のお茶の準備をしようと椅子から立ち上がっていたノリコは、イザークから次の仕事の期間を聞かされて、思わず声をあげた。

あんぐりと口を開けたまま、食卓からこちらを見上げているイザークを見て、繰り返す。

「1ヶ月...」

「−−−ああ。ここからザーゴまでは翼竜を使うが、ザーゴからタルメンソンまでは船で向かうことになる。片道だけで10日はかかるし、向こうでの用件がどれぐらいかかるのか不明確だから、最低でもひと月にはなるだろう」

対するイザークは、事の重大さがわかっていないかのように、ショックを隠せないノリコを見上げたまま、やけに事務的な口調で続けた。

「出発は3日後の朝。一旦ザーゴ首都へ向かい、使節団本隊と合流してから、タルメンソン首都へ向けて出発する予定だ」

「急だね....」

「年中気候が穏やかなこの辺りとは違って、北のタルメンソンは、冬になると大量の雪が降り、港も流氷に覆われて国外へ出るのが難しくなるからな。来春まで待つわけにもいかないから、秋(いま)のうちに訪問したいのだろう」

「そ、そっか....」

イザークの言葉に一応頷いてみたものの、ノリコはどうしても動揺を隠せない。
無理に笑おうと頬の筋肉に力を入れてみたが、うまく笑顔になれないまま、再びすとん、と力なく椅子に腰を下ろしてしまった。

「ずいぶん長期のお仕事なんだね。ザーゴから使者が来たって聞いたから、なにか重大な用件なんだろうなっては思ってたけど....」

「ああ...」


−−−−春の終わりに婚礼を済ませたふたりは、以来、ノリコにとっては母親代わりとも言えるガーヤがいるセレナグゼナの、やや郊外にある一軒家に居を構えて落ち着いていた。

その類い稀なる能力を是非に、とグゼナ国王からは軍への入隊を要請されていたが、軍隊レベルの仕事はできるだけしたくないイザークは頑なにそれを拒み、より民間レベルの「何でも屋」的な仕事を、ふたりに倣ってグゼナに落ち着いたアゴル・バラゴと共に始めていた。

今朝は、ドニヤ国境近くの町から依頼されていた、町の自衛団とドニヤからの移民グループとのイザコザを収束させるためにバラゴとふたりで出発するところだったのを、グゼナ国王からの急な要請を受けて、イザークは城へと出かけていった。

イザークの外出中、城下町で雑貨屋を開いたガーヤの手伝いに行っていたノリコは、ガーヤから、今朝早くザーゴ国から数名の使者が翼竜で到着した、という話を聞いていたので、夕方になってやっとイザークが城から帰ってきた際には、なんとなく嫌な予感がしていた。

いつものように、ふたりでの夕食。
ノリコの手料理を食べながら、イザークは、ザーゴの使者が伝えてきたパロイ国王からの依頼の内容を少しずつ説明してくれた。

−−−−領土のほとんどが一年中氷土となっている、北大陸のタルメンソン。隣国のアンジモ、タザシーナ、コンチャイルとは、標高の高い山々で隔てられているため、貿易以外の目的では、他国との交流もあまりない。

そのタルメンソンから、先日ザーゴ国に使者が訪れ、タルメンソンの王女とパロイ国王の子息との婚姻を申し込んできたというのだ。ザーゴ国の世継ぎとなる第一王子は既に決まった相手がいるそうなので、今回の対象となっているのは年頃の第二王子で、先方の王女とも同い年らしい。

「でも、それって政略結婚ってことでしょ?王族ともなると色々あるんだろうけど...あのパロイ国王が、自分の息子さんに意に染まない結婚を強制するなんて、ちょっとビックリ」

話を聞いて目を丸くするノリコに、イザークも軽く頷いた。

「ああ。だからこそ、今回の親善訪問ということになったんだろう。他国王族からの申し込みを無下に断ることはできんし、国同士の友好関係を強めるという意味では、王族同士の結婚は悪い話ではない。かといって、国王の性格を考えると、息子の意思に反する結婚を強制するとは思えないから、まずは王子にタルメンソンを訪問させ、先方の王女と直に会わせて様子をみるところからスタートしよう、という意図だろう」

つまりは、親善訪問という名目の、王族同士の見合いのようなものだ。

交流のあまりない北の国からの突然の婚姻の申込みなど、眉唾ものなのは間違いないし、大切な自国の王子を異国に送ることになるので、万一の事を考えて警備は万端にしておきたいところだが、「使節団」という名目上、あまり大規模な警備隊を同行させるわけにもいかない。そこで、生半可な軍隊よりもよっぽど力のあるイザークに白羽の矢が立った、ということらしい。

使節団にイザークが同行すれば、警備隊のサイズは最小限にできるので見た目も悪くないし、且つ王子の安全は確保できる。それに、パロイ国王直々の依頼とあっては、イザークもこの仕事を断るわけにはいかないだろう。

−−−−それにしても。


「1ヶ月かぁ....」

もう一度呆然と呟いて、ノリコは力なく椅子から立ち上がった。食事で使った皿を重ねて両手で持ち、ふらふらとした足取りで台所へ向かう。

(...と、とにかく、お茶を...)

もう決まってしまったことなのだから、諦めるしかない。
落ち着かなくては。

皿を洗い場に置き、棚からケトルを取り出す。台所の隅にある水桶からケトルに水を入れながら、ノリコは、それでもガッカリと肩を落とさずにはいられなかった。思わず小さく溜息が漏れる。

−−−−結婚してからまだ半年。

それまでは、流浪の民のように各地を転々としてきたノリコ達だったが、セレナグゼナに居を構えてからは、以前のように何ヶ月もかけてどこかへ旅をすることはなくなった。

イザークがバラゴ達と仕事で少し遠出することはたまにあったが、家を空けるのは長くても数日から1週間のことだった。

なのに、この仕事でタルメンソンへ出発してしまったら、ノリコは、最低でも1ヶ月はイザークに会えないことになってしまう。

(も、もしかして、これって、出会ってから最長期間かも....)

樹海で出会って半年足らずの頃に、『天上鬼』であるイザークが、『目覚め』のノリコから離れようと、当時はザーゴにいたガーヤの元にノリコを置いていったことがあった。
が、永遠の別離のように感じたあの時でさえ、4・5日のうちにふたりは再会を果たしていた。

以来、山あり谷ありのふたりの生活だったが、1ヶ月もの間、お互いにまったく会えないということはこれまでなかったのに。

「......」

その事実に思い当たった途端、ノリコの顔から、サーッと血の気が引いた。

水が溢れるほど入ったケトルを流し台の上に置き、両手で頬を押さえて青くなる。

(−−−−ど、どうしよう、あたし....)

「−−−ノリコ?」

なかなか居間へ戻ってこないノリコを追って台所へ入ってきたイザークが、声をかける。
ノリコはハッと我に返り、ぶんぶん、と頭を振ってから、イザークを振り返った。

「あ、ごめん!なんでもないの!−−−そ、そうよね。お仕事なんだし、1ヶ月ぐらい、我慢しなくっちゃ!イザークの留守中、しっかり家を守るのも、つ−−−妻の役目よねっ!」

半年経ってもまだ慣れない『妻』という言葉に思わずつっかかりながら、ノリコはカラ元気でぐっと両の拳を握りしめ、ガッツポーズを取ってみせた。

「そ、そうよ!1ヶ月ぐらい、なんってことないのよねっ!あっという間、よねっ!」

「−−−最低ひと月、だからな」

なんとかポジティブになろうとするノリコを知ってか知らずか、追い討ちをかけるように、イザークが念を押す。

「今回の件について、王子が直接王女に会ってなんらかの決断を出すまでは、帰国することは適わない。場合によっては、戻ってくるまでひと月以上かかることも考えられる。最悪の場合、冬が到来して湾が凍ってしまったら、来春まで戻れない可能性も−−−−−−」

「え−−−−」

当のイザークからこれでもかというほどのダメ押しを食らい、ノリコのガッツポーズからひゅるひゅると力が抜ける。

なんとも情けない顔になったノリコに、それまで彼女を無表情に見つめていたイザークが、軽く握った右手を口元にあて、ブッと思わず吹き出してしまった。

「−−−−−!!!」

それを見て、ノリコが大きく目を見開く。

「イザークっ!まさかっ!」

「−−−す、すまん。少し悪ふざけが過ぎたな」

「なっ−−−−?!ま、まさか、これ全部冗談だったの?!」

1ヶ月も会えなくなることに、こっちはこの世の終わりかと思うほど落ち込んでいたのに、最初から、あんまりにも淡々としていたイザークの態度は、よくよく考えてみればどうもおかしい。

ちょっとした事にもすぐに一喜一憂する自分の反応を見てイザークが面白がることはよくあるが、さすがに今回は、すべて冗談でした、では悪趣味すぎる。

ま、まさか。

怒るべきか安堵するべきかわからないまま、真っ赤になってわなわなと肩を震わせて、ノリコは、イザークをキッと睨みつけた。

「イザークっ!!」

「すまん...。なかなか言い出すきっかけが見つからなかったんだ」

笑顔で言いながら、イザークは流し台の前で仁王立ちになっているノリコに歩み寄り、腕を引いて抱き寄せた。まだ納得がいかないノリコは、両腕を自分の腕の前に寄せたまま、固くなっている。どう反応していいのかわからない。でも、回答次第では−−−−。

「−−−−タルメンソン行き自体は、嘘じゃない。三日後に出発する」

「え....」

イザークの悪ふざけに完全に怒れなかったのは、自分自身、心の何処かで、この会話自体が冗談だったらいいのに、と思っていたせいかもしれない。だが、イザークから旅のことを肯定され、ノリコの身体からまたシュンと力が抜けた。

「ただし−−−−」

自分の腕の中で、あからさまにうなだれるノリコ。その華奢な身体を抱きしめる腕に愛おしげにギュッと力を入れながら、笑みの混じった声でイザークが続ける。

「−−−俺ひとりでは行かない。ノリコも一緒だ」

「えっ?!」

我が耳を疑い、ノリコがバッと勢いよく顔を上げた。
真上には、これ以上はないというほど優しげな、イザークの笑顔。

「俺が、ノリコからひと月も離れて平気でいられるはずがないだろう。そんな仕事なら、最初から受けはしない」

「で、でも−−−。公務なんでしょ?私なんか一緒に行っても大丈夫なの?」

「心配するな。既にジェイダ左大公からも口添えがあったらしいし、ノリコを連れていけないのなら俺が引き受けないだろうことは、先方も最初から承知の上だったようだ」

「ホント−−−?!」

「使節団の主要メンバーも、俺達の気が知れた仲間ばかりだ。バラゴやアゴルはもちろん、ザーゴ側からは、ロンタルナやコーリキ、バーナダムも同行することになっている。さすがに、アレフはジェイダ左大公の側を離れるわけにはいかんらしいが」

「ジーナも?」

「ああ。アゴルも、ジーナハースをひと月も置いていくことは承知しないはずだからな」

「わぁ...!まるで昔みたいにみんな一緒だね!」

見る間に、ノリコの顔が輝いてくる。

「もちろん、先方に到着してからの公務の中には、ノリコやジーナは参加できないものもあるとは思うが」

「うん!」

胸元に引き寄せていた両腕を伸ばし、ノリコも、イザークの腰に力いっぱい抱きつきながら、元気よく頷いた。

「それは全然かまわないよ!だって、少なくともイザークと1ヶ月も離ればなれにならなくてもいいんだもの」

あー、良かった!と安堵の溜息を漏らしたノリコに、イザークは少しすまなさそうな顔になり、自分の胸に顔を押しつけてくるノリコの頭上に、そっとキスを落とした。

「−−−余計な心配をさせて、悪かった」

その言葉に、ふふふ、とくすぐったそうに笑い、ノリコが顔をあげる。

「ちょっとびっくりしたけど...でも、今はすっごく嬉しいから、許してあげる」

昔とまったく変わらない、こぼれるような笑顔。

この笑顔をひと月以上も見られない仕事など、受けるわけがない。受けられるはずがない。この笑顔を守るためだけに生きている、自分にとっては。

「.....」

ノリコの背に回していた腕を解き、イザークは、両手でノリコの頬を包んだ。
照れたように頬を赤くするノリコの顔を上向かせ、キス−−−−。

「イザーク....」

目を閉じ、軽く開かれた唇の間に押し入るように舌を滑り込ませる。絡めとる。

言葉もなく、徐々に激しさを増していくイザークの口づけに、ノリコの膝が力を失っていく。イザークは、自分で立っていられなくなったノリコの背に片腕を回しつつ少し歩を進め、ノリコの腰を流し台に押しつける形で支えながら、再びその両頬を掌で包み、口づけを繰り返した。

「イ、イザーク−−−お、お茶....」

熱い口づけの合間に、真っ白になっていく頭の中で、ノリコが、必死に最後の抵抗。

口づけの角度を変えつつ、うっすらと目を開けたイザークは、片腕をノリコの肩に回し、もう一方の腕をノリコの膝裏に入れて、ノリコの身体をふわりと抱き上げた。

「こっちのほうが欲しい」

ノリコの答えを待たず、キス−−−−−−。

0 件のコメント:

コメントを投稿