1/07/2014

氷の鏡 第2章

「−−−ノリコ」

コンコン、と軽くドアをノックして、イザークが船室に入ってきた。手には、温かいスープとパンが乗ったトレイを持っている。

部屋の奥のベッドに横になっていたノリコが、頭だけ動かしてこちらを見た。まだ少し顔色が悪いが、イザークの姿を見て、笑顔になる。

「イザーク....」

「スープをもらってきた。食べれそうか?」

「うん...がんばってみる」

身体を起こし、枕を背にして座ったノリコの膝の上にトレイを置き、イザークは、部屋の隅にあった椅子を持ってきてベッド脇に座った。野菜ベースのスープを少しずつ口に運ぶノリコの様子を見ながら、足を組む。

「−−−大丈夫か?」

「うん、もう平気。ごめんね、心配かけて」

「気にするな。だが、珍しいな。これで何回目だ?」

「だよね。これまで何度も船に乗ってきたけど、船酔いしたことなんてなかったのに」

確かに珍しい。しかも、ここ数日少しでも揺れがひどいと、吐くほどではなかったが、ノリコは気分が悪くなって横にならなければならなかった。

「特にいつもより天候が悪くて揺れがひどかったわけでもないと思うんだけど...北に向かってると潮流の関係で酔いやすかったりとかするのかな?」

「どうかな。だが、もう一刻半もすれば到着だ。陸沿いに進んでいるから、ここからは揺れも少なくなるはずだ」

「わあ、もう到着なんだ。いよいよだね」

「ああ。もう少ししたら、みんな上に出てくるだろう。ノリコも行ってみるか?」

「うん!」

旅の終わりが近づいていることがわかり、ノリコの声にもさらに元気が出てきた。
イザークも微笑む。


****

「−−−あっ、ノリコ!」

甲板に出てきたノリコをいち早くみつけたバーナダムが、大きく手を振った。
応えてひらひらと小さく手を振りつつ、ノリコはバーナダム達が立つ甲板の端へと歩いていった。

「もう平気かい?」

「うん。もうほとんど揺れないし、気分も良くなったの。ありがと」

「良かった、良かった。この旅の間、何度も気分が悪くなってたから、心配してたんだ」

嬉しそうに笑うバーナダムに、ノリコも笑顔を返す。

バーナダムのすぐ横には、バラゴ、アゴル、そしてジーナ。
ジーナは、ノリコの声を聞くと、アゴルから手を離し、てててっと駆けてきて嬉しそうにノリコの腰に抱きついた。

「おねえちゃん♡」

「ジーナ!」

10歳になったジーナは、同じ年齢の子供達に比べると少し小柄なほうだったが、以前よりずいぶんと背が伸びた。髪も長くなり、最近では、すっかり少女らしくなっている。

一緒に旅を続けている頃からノリコのことを慕ってはいたが、お互いにセレナグゼナに落ち着いてからは、イザークとアゴルが一緒に出かける時などには共に過ごす事も多く、以前よりも親しさが増し、本当の姉妹のようなふたりになっていた。

「元気になったのね、おねえちゃん」

「うん、もう平気。あとでまた一緒に遊ぼうね」

「うん!」

ふたり、嬉しそうに笑いあい。

それから、ノリコはジーナから身体を離し、船の手すりに歩み寄って、皆と同じように船の進行方向に目をやった。

「−−−わあ。本当にもうすぐ到着だね」

船は、すでに陸地に沿って風を切って進んでいる。そう遠くない進行方向の先には、うっすらと蜃気楼のように町らしきものが見え始めていた。

左手に見える陸地は切り立った険しい崖ばかりで、人が降りれそうな海岸はない。その崖の向こう側にそびえる山々には、深い緑の針葉樹が生い茂っていた。

これまでに見てきた、ザーゴやアイビスクの海岸線とはだいぶ違った風景に、ノリコは、手すりに両手をついて身を乗り出しながら、興味深そうに見入った。

空気から、違う。吹き抜ける風も、やけに冴えていて、刺すように冷たい。

「寒...」

思わず呟いて、ノリコが両手で自分の肩を抱いた途端、ふわり、とその頭から肩にかけて、厚手のショールがかけられた。と同時に、ノリコの右側に人影が立ち、ふっと風が遮られる。

ショールの端を引き寄せてくるまりながら、人影を仰ぎ、ノリコがうふっと笑った。

「ありがと、イザーク」

嬉しそうなノリコの笑顔に、軽く頷き、イザークも手すりに両肘をついて景色に目をやった。漆黒の長い髪が、風に吹かれて揺れる。

「−−−−君もタルメンソンは初めてか?」

そばに立つアゴルが、片手をジーナの肩に置き、もう一方の手を手すりにかけながら、ふたりと同じように海岸線に目をやった。

「いや...。だいぶ以前に、同行していた隊商と一緒にアンジモ側から国境を越えたことはある。が、首都は今回が初めてだ」

「そうか。この国は、他国とはずいぶん雰囲気が違うからな。初めてなら、違和感があるかもしれん」

「あたしのお母さんは、タルメンソンの出身なんだよ」

どこか自慢げに、ジーナハースがにこり、と笑った。

「え、そうなんだ」

「といっても、コンチャイルとの国境近くの小さな山間部の出身、だがな」

ジーナの頭に手を置いてぽんぽんと軽く叩きながら、アゴルが肩をすくめて補足した。

「俺も、実際に首都に行ったことはないんだ。だが、彼女から色々な話を聞いた」

言って、アゴルは少しずつ後ろへ移動していくタルメンソンの海岸線へ目をやった。

「−−−鉱山が多く、金や宝石の貿易で知られる豊かな国だ。ただ、最近ではもう随分と変わってきているらしいが、百年ほど前までは非常に閉鎖的な国で、特に首都近郊では、よそ者を受け付けない風習があったらしい」

「みーんな金髪碧眼ばっかだってのは、そのせいかぁ?」

バラゴが頭をコリコリ掻きながら聞いてきた。

「よそ者ってぇより、自分達とは違った見かけの人間を毛嫌いするって聞いたことがあるぜ、俺は」

「違う...見かけ?」

「ああ。特に黒髪・黒眼は忌み嫌われるって話だ。なあ?」

首を傾げるノリコに、自分の黒髪を摘んでみせながら、バラゴはふん、と鼻を鳴らした。
それを見て、アゴルが少し困ったように肩をすくめる。

「確かに、タルメンソンの民は肌が陶器のように白く、金髪碧眼の者が多い、とは言うな。他国との交流を避けてきたのは、自分達の血を守るためだとかなんとか...。まあ、それも随分昔の話で、最近ではだいぶ貿易以外での外交関係にも力を入れているし、移民も積極的に受け入れているらしいから、金髪碧眼ばかりというわけではないだろうが、それでも、黒髪の人間はあまり見かけないというような噂もある、な」

「あら、お父さん、でも、あのお話には黒髪のお姫様が出てくるでしょ?」

つんつん、とアゴルの上着の裾を引っ張りながら、ジーナが首を傾げる。
意外な展開にイザークと顔を見合わせていたノリコも、これには興味を引かれてジーナを見た。

「黒髪のお姫様?」

「うん。お父さんが教えてくれた、タルメンソンにあるおとぎ話なの。それに黒髪のお姫様が出てくるんだよ。だから、みんな金髪だっていうのは嘘だと思うの、あたし」

「ジーナ、あれはおとぎ話じゃなくて叙事なんだよ」

ずいぶんと昔に、ジーナを寝かせつける時に話してやったことのある物語のひとつ。よく憶えていたものだ、と少し関心しながら、アゴルがぽん、とジーナの頭を軽く叩いた。

「俺も妻から聞いた話なんで、詳しくは憶えていないんだが...。随分と昔、タルメンソンの王家に生まれた双子の王女のひとりが、黒髪・黒眼だったそうなんだ。非常に美しい姫だったそうだが、その容姿のためにずっと城に軟禁状態になっていた。が、年頃になると占者としての類い稀なる力を発揮し始め、首都のすぐ背後にある山に神殿を築いてもらい、そこの巫女として住まい、国の発展のために尽力した...とかなんとか」

「自分のために神殿まで築いてもらったってことは、本当に能力のある人だったのね」

やっぱり王女様だとスケールが違うなあ、と感心するノリコ。
そこに、それまで黙って皆の会話を聞いていたバーナダムが口を挟んだ。

「−−−俺も、その黒髪の姫君の話は聞いたことがあるよ。でも、それって悲恋の物語じゃなかったかい?」

「ああ、そうだったな」

『悲恋』という言葉に、ノリコは知らず眉をひそめた。
バーナダムの言葉に、話の続きを思い出したアゴルが続ける。

「そうそう。その姫は、山の神殿で静かに暮らしていたそうなんだが、その神殿の警備をしていた兵士のひとりと恋に落ちたらしいんだ。だが身分違いの上に、自分の黒髪・黒眼の容姿ではこの国で幸せになることは無理と判断し、タザシーナへ駆け落ちしようとしたが、国王にバレて、逃げる途中で恋人は足を踏み外して谷底へ落ちてしまい、嘆き悲しんだ姫は、神殿の入口を封印し、そのまま中で永遠の眠りについた...と」

「そんな...」

話を聞きながら、ノリコは、無意識のうちにイザークの腕にしがみついていた。眉を歪めて哀しげな顔になったノリコの手に、イザークは無言でそっと手を添える。

「お父さん、前はそんなこと言ってなかったよ」

「うーん...あの頃はジーナはまだ小さかったから、お父さん、言えなかったんだよ」

ごめんな、と小さく呟いたアゴルに、ジーナは少し不満げに口をへの字に曲げた。

「じゃあ、やっぱり、黒髪の人ってタルメンソンでは忌み嫌われちゃうの?」

ジーナの言葉に、ノリコはふっと傍らのイザークに目をやった。

闇を閉じ込めたかのような、漆黒の、髪−−−−。

イザークの左腕に回していた両手に、知らず力がこもった。不安げに眉を寄せる愛しい妻の顔を覗き込み、イザークがふっと笑顔になる。心配するな、と言いかけて−−−。

「いやあ、ということは、俺、ここではかなり目立っちまうなー。まさかこんなとこで、俺の黒髪に注目が集まるとは思ってなかったぜ」

がはははは、と大口を開けて、バラゴが笑った。

「でも、ま、黒髪がどうのこうのって言われてたのは、百年も昔の話だろ?どうせ今じゃその辺にゴロゴロいるんだろうぜ、きっと。まっ、たまには人ごみを歩いてるだけで目立ってみるってのも悪くねーよな」

あっけらかんとしたバラゴの口調に、みんなの間に少しずつ広がってきていた重い空気がさっと解けた。まずい話題を持ち出してしまったかな、と思い始めていたアゴルとバーナダムも、バラゴの能天気さに救われて、目を見合わせて笑顔になる。

「−−−バラゴの言う通りだ。そんな偏見が実際あったとしても、もうずいぶんと昔の話だからな。今では、多少物珍しがられることはあるとしても、忌み嫌われるなんてことはないはずだよ」

「そうだよ、そうだよ。それに、それで言ったら、うちの王子だって黒髪だぜ。そのことは先方だって最初から承知だったわけだから、それが問題になるんだったら、最初から婚姻の申し込みなんかしてこないさ」

「あ、そっか!」

バーナダムの指摘に、ノリコは、思わずイザークの腕を離し、ぽん、と手を打った。

「バーナダム、えらいっ!グッドポイント!うん、そうよね、その通りよね」

うんうん、と頷くノリコの顔には、ほっとしたように満面の笑みが浮かんでいる。
彼女が何を考えていたのかは一目瞭然で、その笑顔に、イザークもつい苦笑めいた笑みを口の端に浮かべた。

「.....」

−−−−異端視されることには、正直、慣れていた。

『お前はいつか天上鬼になるんだ』と言われて育ち、子供の頃から、腫れ物に触るように扱われてきたイザークにとって、仕事で訪れた国で、黒髪だからという理由だけで忌み嫌われることがあったとしても、取り立てて気が重くなる理由にもなり得なかった。

逆に、それが理由で周囲が自分のことを放っておいてくれるのであれば、警護の仕事に専念しやすいだろうし、願ったり叶ったりだ、と考えていたぐらいだ。

(不思議だな....)

それでも、正直、子供の頃は、そうやって異端視されることが辛かった。誰もが自分から離れていくことに深く心を傷つけられた。

が、時間が経ち−−−人から距離を置くこと、独りでいることに慣れてからは、逆にそのほうが楽に感じられるようになった。そう、思い込もうとしていた。

ノリコを、得るまでは。

『何があっても、何が起こっても、あたしだけは絶対にそばにいるよ−−−』

あの日の約束のままに、ノリコは常に自分の傍らにいてくれた。

ノリコを得て−−−孤独を癒され、もう独りではないと実感し。

彼女以外の誰に何を言われようとも、疎まれようとも、もう辛いとは思わなくなった。独りのほうが気楽だと、自分に言い聞かせる必要もなくなった。

何があろうとも、自分は独りではないとわかっているから−−−−。

「.....」

またしても、実感させられる−−−−ノリコの存在の大きさを。

自分の腕にそっと両手を添えたまま、バラゴやバーナダム達と談笑している傍らのノリコをみつめ、イザークはふっと微笑んだ。その視線に気づき、ノリコがふと視線を上げる。

「イザーク?」

「いや、なんでもない....」

船の手すりに肘をつけたままの姿勢で、イザークは、空いている右手でぽんぽん、とノリコの頭を叩いた。ノリコが、少し照れたように頬を染めてふふふ、と笑う。

「−−−おっ!とかなんとか言ってるうちに、ご到着のようだぜ」

右手を額にかざして、バラゴが軽く口笛を吹いた。
それを合図に、その場にいた全員が、一斉に船の進行方向に顔を向ける。

「わぁ...」

いつの間にか、船は港の目前まで着ていた。
今までに見た港の中で最も大きく開けた景色に、ノリコが思わず感嘆の声をあげた。

「すごぉい....」

港から長く突き出した埠頭が、左右に大きく2本伸びている。その至る所に、大小の貿易船が停泊していて、たくさんの船夫達や商人達が、荷の積み降ろしや談話している姿が見えた。ノリコ達が乗ったザーゴの官船は、その中央に用意された停泊ポイントに向けて、ゆっくりと進んでいく。

かなり活気のある港の埠頭の向こう側には、左右に大きく広がった街並み。網の目のように縦横に走る路地には、たくさんの人が行き交う姿が見える。

そしてそのさらに向こう側には、そびえ立つ山肌を背にして立つ、岩壁を切り出して作り出したような、巨大な白い城−−−−タルメンソン首都、だ。

「いよいよ、だな−−−−」

手すりに左手をつき、目前に広がる街をまっすぐに見つめながら、バラゴが呟く。

イザークも、傍らに立つノリコの肩を抱きながら、軽く頷いた。

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