3/29/2015

約束

アイビスクとモーズクの国境に沿うように幅広く広がった森。そのちょうどなかほどを貫くような形で、両国を結ぶ細い街道がある。

首都と首都を結ぶ大きな街道が少し離れた別の場所にある上、こちらは山道になっているため、それほど往来は盛んではない。が、最近になって、この寂れた街道沿いで、モーズクから国境を越えてくる商隊を狙うタチの悪い山賊グループがいる、と耳にしたクレアジータから依頼を受け、イザークとバラゴは、その近辺の地理に詳しいというウェイ、ダンジェルと共に調査に向かった。

そして案の定、街道付近に張り込んでほんの数日もしないうちに、国境を越えてやってきた幌馬車に群がる山賊どもをみつけ、あっさりとお縄にしてしまった。


「かーっ!たまにはもうちょっと骨のある奴らを相手にしてみてぇなあ!」

捕まえた山賊の一団を、同行してきたアイビスクの兵士達に引き渡す。その手続きをすべてイザークに任せて、バラゴがストレッチしながら物足りなそうにひとりごちた。

それを見て、なぜか今日も女装姿のウェイが女らしい仕草で口元に手をやりながら、うんうんと頷く。

「そうね、今日あの幌馬車が現れなかったら、あたしが無力な旅人を装って襲われるっていうシチュエーションも作れたはずなのに、ちょっとタイミングよすぎたわよね」

「おお。囮作戦か。良い案じゃねえか」

「ウェイ、お前さんな....」

このふたり、実はなかなか気が合うのかもしれない。

やれやれ、と杖にもたれながらダンジェルが呆れ顔で溜息をついたところに、もう少しで山賊達の餌食になるはずだった幌馬車の乗員10人ほどが、恐る恐るといった体で降りてきた。

その質素な風体から察するに、どうやら商隊というよりは、旅芸人の一座のようだ。

「あー、どう見ても金目のもの持ってるって感じじゃねえな」

幌馬車のすぐ横にかたまり、縛られて罪人護送用の馬車に追い立てられていく賊の様子を見遣りながら、彼等は安堵の表情を見せている。そんな彼等を少し離れた位置から眺めながら、バラゴは無表情のままで軽く息をついた。

「あの山賊ども、どっちにしても稼ぎにはならなかったってことだ」

イザーク達の活躍で『元凶』が消えたあと、各国に蔓延っていた悪徳政治家や有力商人達は、クレアジータやジェイダ左大公のように志を同じくする皆の力でほぼ一掃できたとはいえ、世界中から『魔の種』を抱えた人間が完全に消滅したわけではない。

どこの国でも、町のチンピラや盗賊など、国政を動かすレベルまではいかなくとも、私利私欲のために悪事に手を染める人間にはまだまだ事欠かない。今回の山賊も、相手が金目のものを持たない旅芸人だったからといって、ああそうですか、と何事もなくそのまま見逃してくれるほどお人好しではなかっただろう。

踊り子らしい若い娘達も数人含まれているようなので、大事に至る前に解決できて良かった。

「お」

頭の後ろで腕を組み、何気なく旅人達を眺めていたバラゴが、幌馬車から最後に降りてきた、一際目立つ美しい女性を見て思わず声をあげた。

「まあ...」

「こりゃまた目の保養になるの」

そばにいたダンジェルとウェイも、感嘆の呟きを漏らす。

背に波打つ長い黒髪に、健康的で日に焼けた浅黒い肌。長い睫毛に縁取られた大きな茶色の瞳と、ぷっくりとしたふくよかな赤い唇−−−。

二十代後半に見えるその女性は、3人がそう反応するに相応しい、色気に溢れた美女だった。−−−−−と。

「ああっ!!」

山賊達の引き渡しの手続きのために兵士隊長らしき人物と会話していたイザークの横顔を、しばしの間じーーっとみつめていたかと思うと、その女性は、突如、イザークを指差して大声を上げた。

「イザーク!あんた、イザークじゃないの?!」

その声に、イザークがぎょっとした面持ちで女性のほうを振り返る。

「...??」

「あー!やっぱりそうだっ!イザーク!あたしだよ、あ・た・し!憶えてないの?!」

その容姿にはある意味不似合いな、がさつな物言い。

言いながら、大股でずかずかと歩み寄ってくるその姿を何事かと目を丸くして見ていたイザークは、彼女が目の前に立つと、ほんのわずかに眉をひそめた。

まるで、自分の記憶を辿っているかのように。

そして。

「....アミーナ?」

やや自信なさげに呟かれた名に、女が、にんまりと笑う。

そしてその満足そうな笑顔をみつめながら、イザークは、バラゴ達でさえあまりお目にかかったことのない、非常に複雑な面持ちになっていた。


**********


街道から国境に一番近い、小さな山間の町。

旅芸人達の幌馬車と、捕まえた山賊達を乗せた罪人用の馬車の二台が、アイビスクの兵士達に護送されて町の門をくぐる。旅芸人達に付き添うように、イザークとバラゴの馬がその左側を並んで進んでいるが、そのふたりに向かって、幌馬車の脇に肘をついて身を乗り出したアミーナが、ぺちゃくちゃと飽きもせず話し続けていた。

といっても、実際にアミーナの他愛もない雑談の相手をしているのはバラゴで、イザークは、まるでふたりの会話が一切耳に入っていないかのようにそっぽを向いたままだ。

が、馬が町の門をくぐった途端、不意に顔を上げたかと思うと、馬の腹部を軽く蹴り、馬車を追い抜いて駆け出した。

お愛想笑いをしながらアミーナの話を聞いていたバラゴも、「お」と顔を上げる。



「−−−−アゴル!」

自分の名を呼ぶ声と、近づいてくる馬の蹄の音に、町医者のところから出てきたばかりのアゴルが顔を上げた。その腕には、足首に包帯を巻いたジーナが抱きかかえられている。

「おお、イザーク。早かったな。もう片付いたのか?」

「ノリコは?」

ふわりと優雅な動きで馬を降りたイザークが、笑いかけるアゴルに畳み掛けるように問いかける。

「今日は一緒に木苺摘みに行くと言っていただろう。ノリコは?」

その、真剣そのものの顔に、アゴルはジーナを抱きかかえたまま、くすりと軽く笑う。

「ああ、ついさっきまで一緒だったよ。でも、ジーナが坂でコケて足を挫いてしまったんでね。医者に診せたくて一足先に戻ってきたんだ」

「ノリコをひとりで置いてきたのか?」

「まさか。一緒に行ってた町の青年団と一緒だから大丈夫−−−−って、おい....!」

アゴルの言葉を皆まで聞かず、馬をその場に置き去りにして、イザークが駆け出す。

おそらく、ノリコの気配を追っていくのだろう。その後ろ姿をぽかんと口を開けたまま見送り、アゴルはやや呆れ気味に肩をすくめた。

見慣れた光景とはいえ、いやはや。

「おにいちゃんって、ほんっと過保護だよねー」

アゴルの腕の中で、ジーナもおかしそうにクスクスと笑った。



「....なに、あれ?」

幌馬車の枠に両手をついて大きく身を乗り出し、その様子を遠くから伺っていたアミーナが、啞然とした様子で呟いた。距離があるのでイザークとアゴルの会話は聞き取れなかったものの、イザークが血相変えていたのだけは分かる。

「ああ、いつものことだ」

こちらも会話は聞こえなかったものの、その様子から大体の内容がわかったバラゴが、右手の人差し指で広いおでこをコリコリと軽く掻きながら答える。

「っとに、ノリコのこととなると、あいつは人が変わるからなぁ」

「ノリコ?」

森からの道中であっという間に仲良くなったバラゴにバッと顔を向け、アミーナが尋ねる。真剣そのもののその顔をみつめ返しながら、なんだか面白いことになりそうだなあ、と心中でバラゴが呟いたかどうか。

「ああ−−−ノリコは、イザークの女だよ。まあ、夫婦も同然だな。いつも仕事の時はアゴル達親子と一緒に首都に置いてくるんだが、今回はだいぶ離れた場所だったし、解決まで時間がかかるかもしれねーってんで、ここまで一緒に連れてきてんだよ。とにかく少しでも離れてんのが寂しくってしょうがねえんだろ、どうせ。あの無愛想な野郎が、ちょっとの傷でもつけまいと過保護しまくりだ。ったく、こーんな小さな町で、何があるんだっつーの」

気配でわかるくせによ、とぼやきつつ、バラゴはそのままパカパカと馬を歩ませた。そのすぐ後ろを、ウェイとダンジェルが続く。

「まあ、危険にも色々あるからの」

「この村の青年団って、確かみんなお嫁さん募集中でしたわよね」

面白がっているとしか思えない、明るい口調。
前がつかえて止まったままの馬車をそのままに、3人は馬を進めて町の中へ進んでいく。

「ふう〜ん....」

再び馬車の荷台に座り込んで枠に両肘をつき、アミーナは、もうとっくに見えなくなったイザークが駆けていった方向をみつめたまま呟いた。


********

(ノリコ....)

彼女の気配を辿って大通りを抜け、丘に続く緩やかな坂道を駆けはじめると、すぐ上の小道から、話し声とともに数人の人影が現れた。

顔をあげたイザークの目に映ったのは、篭いっぱいの木苺を両腕で抱えたノリコと、その両脇を囲むように歩いてくる、この町の青年達。なにやら楽しそうに話しながら、坂道をこちらに向かって下ってくる。

「−−−−−−」

そこまで駆け足だったにもかかわらず、イザークは無表情のまま静かに立ち止まった。
こちらから声をかけるまでもなく、ノリコがその姿に気づいて顔を向ける。

「−−−−イザーク!」

ぱっと花が咲いたような笑みが、ノリコの満面に浮かんだ。

「おかえりなさい!早かったのね」

なんとも嬉しそうに顔をほころばせながら、てけてけと駆け寄ってきたノリコに、イザークも思わず口の端が緩む。すぐ目の前に立ったノリコの頬にそっと手を伸ばし、指先で触れた。

「...ああ。運が良かったんだ。今日の巡回を始めてすぐに、旅芸人の一行を襲っているところに出くわした」

「そっか。じゃ、もうこの街道も安心だね」

イザークに触れられ、少し照れたように頬を染めながら、ノリコも嬉しそうに答えた。

そんなふたりの横を、先程の青年達が少し残念そうに笑いながら通り過ぎていく。
中には、ノリコの名を呼んで、通り過ぎざまにヒラヒラと手を振る者もいた。

「.....」

イザークは、敢えて彼等のほうを振り向くことなく、目の前のノリコの顔だけをみつめていたが、ノリコは、彼等に軽く会釈をして木苺狩りに連れていってくれたお礼を言った。

「−−−−たくさん採れたみたいだな」

チラチラとふたりを振り返りながら歩み去っていく青年達のざわめきと気配が遠のいてから、イザークは、ノリコの両腕に抱えられた篭いっぱいの熟れた木苺に目を遣った。

「うん!すごいでしょ?これ、ジーナとアゴルさんの分も入ってるの」

少し得意げに、ノリコが篭を軽く持ち上げて見せる。

「木苺ってレベルじゃないよね、このサイズ!一口じゃ食べられないぐらい大きいんだもん。この町の特産品なんだって。すっごく甘いのよ、ほら!」

取っ手のついた篭を片腕に持ちかえて、ノリコは、山盛りの木苺の中でも特に大粒のひとつを指先で摘んでイザークに差し出した。

「これ!イザークにあげようと思って取っておいたの。一番大きいやつ」

ふふふ、とほくほく顔のノリコ。

「......」

その無邪気な笑顔をじっとみつめていたイザークは、伸ばされたノリコの右の掌を自分の左手で包み込むようにして、その手ごと、木苺を自分の口元に運んだ。

見上げてくるノリコの瞳をみつめたまま、大粒の木苺をノリコの指先から直接一口でまるごと頬張り、そのまま、ノリコの指先に口づけた。

「イ、イイイイイイイイイザーク?!」

予想外のイザークの行動に、ノリコの顔がぼんっと真っ赤に染まる。

「−−−−本当だ。甘いな」

思わず引っ込めようとしたノリコの手を逃すまいとしっかりと掴んだまま、イザークは、口に含んだ木苺をゆっくりと噛みくだしつつ、静かに目を伏せた。そして、ノリコの人差し指と−−−中指を順に口に含むと、舌で指の関節部分から指先に向かってゆっくりと舐めあげていく。

「や.やだ...イザーク....」

心臓がバクバクとうるさいほどに高鳴りはじめる。イザークの舌の動きに合わせ、ゾクゾクと背筋に電流が走ったようになり、身体の芯から熱が生まれていく。

イザークの舌が−−−唇の熱さが、否が応でも、毎夜のように身体中に刻まれるイザークの愛撫を鮮明に思い出させる。

「.....」

ノリコの人差し指と中指を口に含んだまま、イザークが、ゆっくりと目を上げた。

漆黒の、熱のこもった切れ長の瞳がノリコを捉える。

「あ..ぁ...」

腰がくだけてふらついたノリコを、イザークが木苺の篭ごと素早く抱きとめた。

「−−−続きはまたあとで」

やや笑みを含んだ声で、ノリコの耳元に囁く。

その言葉に、羞恥と悔しさでいっぱいになった真っ赤な顔をあげ、ノリコが、自由になる左手でぽかっと思いきりイザークの胸を叩いた。

「もお−−−っ!!いっつもクールなくせに、時々こういうズルいことするんだからっ!!」

やや涙目になりながら心底悔しげに声をあげるノリコに、捉まえていた右手を解放し、イザークはどこか自嘲気味に口の端で笑った。

ノリコが笑顔を向けた青年達に嫉妬したのだ、とは決して口にはできないまま、今度は、細いその肩に回した腕にそっと力を込める。

とんだ独占欲だ。

できることなら、ほかのどんな男の目にも触れさせたくはない。

−−−−と。


「イザーク!」

不意に背後から女の声がして、イザークは弾かれたようにノリコから腕をほどき、振り返った。

聞き慣れないその声に目を丸くしながら、ノリコも声のしたほうに顔を向ける。

「ねえ、イザークってば!」

坂道を小走りに駆けてくるのは、ウェーブのかかった豊かな黒髪に褐色の肌をした、とてもセクシーな美人。自分達よりもいくらか年上に見える。見覚えはない。

第一印象は、大輪の真っ赤な薔薇。

「...誰?」

隣でどこか嫌そうな顔をしているイザークの袖口を掴みながら、ノリコはきょとん、と小首を傾げた。


********

「あたし、アミーナっていうの。よろしくね」

ニッコリと笑って自己紹介してくれた女性は、元の世界でいうならジプシーのようなイメージだろうか。

太陽のように明るいだけでなく、どこか有無をいわさぬ強引さのあるこの女性は、食事屋も兼ねた宿屋での夕食時にも、仲間達のいるテーブルではなく、イザークとバラゴの間に無理矢理割り込んできて、ノリコ達の食事に加わっていた。

どうやら、イザークとは随分前からの知りあいらしい。いや、イザークの言葉にすれば、「仕事でしばらく一緒に旅をしただけ」、の人物らしいが。

「−−−−で、あたしはその頃別の一座にいたわけなんだけど、その時も、今回みたいにどこだったかの森で盗賊に襲われちゃってさ。貧乏一座で用心棒なんかもちろんいなかったし、まあどうなることかと皆が縮こまってたところに、タイミングよく、どこからともなく颯爽と現れたのが、このイザークだったってわけ」

隣で黙々と食事を続けているイザークの肘を軽く小突いて、アミーナは明るく笑った。

「で、あっという間にたったひとりで賊を追っ払ってあたし達を助けてくれたんだけど、別に行く宛もなくて仕事を探してるって言うから、座長にそのまま用心棒として雇われて、10日間ぐらい一緒に旅してたのよ。ね?」

「−−−−−」

問いかけられても、頷きもしない。
いつもに輪をかけて無愛想な感がするのは、アゴル達の気のせいではないはずだ。

「じゃあそれって、おばさんと一緒の商隊での仕事が終わってから、ってことだよね?」

そんな不穏な空気を知ってか知らずか、自分の知らないイザークの昔話に、ノリコは目を輝かせている。4年ほど前のことだというから、きっと以前ガーヤから聞いた商隊でのエピソードのあとに違いない。その頃には、もう18歳にはなっていただろうか?

自分の知らない、少年のイザーク...。

「もしかして、渡り戦士になっての初仕事だった、とか??」

「いやー、どうかなー。にしては結構肝が据わった顔してたわよね、今みたいに」

食事をするのも忘れて、ノリコは、ワクワク顔で向かいに座るイザークを見た。

が、複雑な表情で無言のまま酒の盃を口に運ぶイザークに、テーブルに両肘をついたまま、アミーナが呆れ顔で大袈裟に溜息をつく。

「あの頃からほんっと愛想なかったよね、あんたって。今よりだいぶ若かったけどさ、なんせこの顔でしょ?一座の女の子達もこぞって猛アタックしてるのに、ぜーんぜんなびかないどころか、ろくに口さえきかなかったわよね」

その頃の様子を思い出しているのか、アミーナがクスクスと可笑しそうに笑った。

「あんたとまともに話ができてたのは、仲が良かったあたしぐらいのものじゃない?」

「−−−−あんたが一番しつこかっただけだろう。仲が良かったわけじゃない」

やっと口を開いたイザークが、淡々とした口調で切り捨てる。

「今日と同じで、あんたを助けたのは偶然にすぎん。その後も、仕事として一座を次の町まで警備していただけのことだ。俺のことをさも知っているような物言いは迷惑だ」

「おーコワ!なによ、彼女が一緒だからってそんなに邪険にしなくったっていいじゃない。昔のことなんだから、ノリコちゃんだって気にしないわよ。ねえ?」

「あ、はい...」

イザークの昔話が聞けると喜んでいたノリコは、なによりもイザークの不機嫌そのもののアミーナへの対応に面食らっていた。

調子に乗りすぎていたかも、と思い、知らず萎縮して肩をすぼめながら、やや俯いてパンをかじる。

「.....」

その姿に、今度はイザークのほうがややバツの悪そうな表情になり、まだ食事の途中であるにも関わらず、食器と盃を片付けて立ち上がった。

「−−−−バラゴ、明日の打ち合わせをするぞ」

「お、おお」

そのまま、少し離れたテーブルで食事をしているダンジェルとウェイのところへ向かって歩き出すイザークを追って、バラゴも慌てて立ち上がった。

残されたノリコ、アゴル、ジーナは、横一列に並んで座ったまま、気まずーーい思いにお互い目を合わせることさえ躊躇われ、そのままわずかに俯き加減で食事を続けた。その姿がどこか滑稽に見えていたのは、きっと、3人の正面に座っていたアミーナだけだろう。

黙々と黙って食事を続けるノリコ達を、アミーナは、テーブルに両肘をついて顎を乗せた行儀の悪い姿勢のままでみつめている−−−正確には、やや斜め前に座っているノリコを観察するような視線で。

しばらくして。

「−−−どうしたの、その指?」

「え...?」

不意に問われて、ふと自分の右手に視線を落としたノリコが、ハッと顔を赤らめる。

鮮やかな赤色に染まった、人差し指と中指の指先。
食事の前に何度手を洗っても落ちなかったそれは、紛れもなく木苺の色−−−−−。

(うきゃああああああああ!)

あの瞬間のイザークの熱のこもった視線を思い出し、ノリコは両手で顔を覆った。
顔から火が出そうだ。

「あ、あの、なんでもないです、いえ....」

その慌てぶりだけで大体のところは想像できたのか、両肘をついたままで、アミーナがにっと意味深な笑みを浮かべた。

そして椅子から腰を浮かし、テーブルの上に身を乗り出して、赤面して顔を伏せているノリコの耳元に、こそっと囁く。

「−−−−彼、上手いでしょ?」

さらり、と。

何を言われたのか一瞬わからず、ふと動きを止め、顔を上げたノリコの目に入ったのは、すぐそばにある、大きな茶色の瞳。

その、どこか挑戦的な鋭い視線に、ノリコは我に返った。
アミーナをみつめ返すその顔から、不意に表情が消える。

「...え?」

すぐ隣で聞き耳を立てているアゴルとジーナに聞かれないように、行儀悪くテーブルの上に身を乗り出した姿勢のまま、ノリコに耳打ちしてアミーナが続ける。

「口づけも−−−−女の抱き方だって、上手いでしょ?夢中にさせられちゃってる感じよね、あなた」

「え、あの....」

いきなりの立ち入った質問に面食らい、口ごもるノリコにはお構いなしで、アミーナがにやりと笑った。

「−−−実はね、彼の初めてはあたしなの」

「....!!」

しらっと何でもないことのように言われた言葉に、ノリコは無言で目を見張った。

(イザークの...初めての人....)

「まーだ何も知らなかった彼に、女の悦ばせ方を手取り足取り教えてあげたのも、あ・た・し。だから、ま、彼の『技術』は、あたしが手ほどきしてあげたようなものかしら」

感謝してね、と最後に言い残して、またテーブルの向こう側に腰を下ろす。

そのまま、何事もなかったように平然とした態度で食事に戻ったアミーナを、ノリコは返す言葉もなく、ただ、呆然とみつめていた。


********


「−−−−彼女に何か言われたのか?」

食事のあと、皆より先に二階の自分達の部屋に入ったイザークは、後ろ手に扉を閉めながら、先に部屋に入ったノリコの背中に向かって声をかけた。

明日の打ち合わせを言い訳に席を外したのは、間違いだっただろうか。食事の後、宿屋には宿泊せず町外れの広場で野宿するというアミーナ達一座は退席したのだが、以降、ノリコの口数が急に減ったように感じる。

「あ、うん...大丈夫」

どこか上の空だったノリコが、振り返って笑う。
が、その笑顔には、いつものような屈託さはない。

「ちょっと食べ過ぎちゃったかも」

「.....」

言葉にしなくても、彼女の心に何か重い霧がかかったようになっていることは、イザークにも感じられた。

「彼女とは....本当になにもない」

背後からノリコに寄り添い、左手でノリコの長い栗色の髪を左肩に流す。
露になった白い首筋に、イザークはそっと優しくキスを落とした。

「俺には、ノリコだけだ」

後ろから、抱きしめる。

うなじから、ゆっくりと首に沿って鎖骨まで繰り返し口づける合間に、イザークの熱い呟きが耳元で響く。

「ノリコだけが、俺を熱くする。ノリコしか、欲しくない」

それだけで、ノリコも思わず吐息を漏らした。

が。

心の奥には、まだ、小さな棘が刺さったままのような感覚。

だがそれを悟られまいと、ノリコは、肩越しにイザークの漆黒の瞳を見上げて、にっこりと微笑んだ。

「うん」
「知ってる」

いつもより、強気な回答になったのは、自分に言い聞かせるため。

包むように腰に回されたイザークの腕に自分の手を添え、珍しく、自分から口づけを求めて顔を上げた。

「あたしにも、イザークだけだよ」

目を閉じ、軽く唇を合わせ−−−顔を離す。ただ、それだけで。

ゆっくりと瞼を開けると、不思議なほどに心が落ち着いていた。

「ノリコ...」

見返してくるのは、熱の点った漆黒の瞳。

ああ、とノリコは思う。

過去が気になるのは、「今」に確信が持てない時だけ。
けれど、自分の足元を揺るがすものは何もないのだと、最初から知っていたはずだ。

この瞳は、自分だけしか見ていない。自分だけしか、映していない。

身体ごとイザークに向き直り、ノリコは、イザークに求められるままに、再び唇を合わせた。深く、息もつけないほどに深く、お互いの唇を−−−舌を貪る。

身体中が熱くなり、熱の発散を求めて疼きはじめる。

「−−−−昼間の続き」

思う存分にノリコの唇を堪能し、舌でその唇を軽く舐めたあと、顔を離す。
ポツリと呟き、イザークは、ノリコの両肩から服をずらして落とした。


***


「ふ....」

寝台の端に腰掛けたイザークの膝の上に抱きかかえられ、喉元を、イザークの唇が這いのぼっていく。同時に、熱くたぎったイザーク自身が、ゆっくりと肉を割って侵入してくる感覚に、ノリコは思わず吐息を漏らした。

「イザ....」

肩甲骨に添えられていた手が、細い背の曲線をなぞって降りてきて、腰を押さえる。決して強引ではないのに、ぐっと指先に力が入り、さらに奥深くまで征服される。ノリコは声を上げる代わりに、夢中でイザークの首にしがみついた。

ゆっくりと、だが確実にノリコの感じる部分を擦り上げて、律動が徐々に激しさを増していく。ノリコに頭を抱きかかえられたまま、イザークはそのふくよかな胸に顔を寄せ、右の乳首に吸いついた。

「あ.あ...」

今度は、思わず声が漏れた。

その啼き声が、イザークの男をさらに刺激する。

舌で愛撫を続けながら、ピンクの突起に軽く歯を立てる。ぴくんと反応して身をよじろうとするノリコの腰を両手でしっかりと固定させたまま、イザークは深く、激しくノリコを突き上げた。

「ノリコ...」

熱い、吐息。
見上げてくる、漆黒の瞳。

身体のつながりだけではない。
心と心が溶けてひとつになってしまったような一体感に、お互いに酔いしれる。

どこを、疑う余地があるだろう?

ここまで深く自分を愛してくれている人を。
この腕も、唇も、自分だけしか見てない。自分だけにしか触れない。

たとえ、過去にどんな人が彼の腕の中にいたとしても。

今、この時に、彼の心を占めているのは自分だけだ。

そして、きっとこの先もずっと−−−−−。

「イザーク....!」

力強い腕でしっかりと抱きしめられたまま、ノリコは声をあげ、意識を手放した。


********

翌朝早々、アイビスクの兵士達は、山賊達を連行して一足先に首都へと旅立った。

念のため、とダンジェル、ウェイ、バラゴの3人は、彼等の警護で一緒に出発したが、馬での移動とはいえ、足を挫いたジーナに無理をさせないようにと、イザークとノリコは、アゴルと一緒にもう一日町に残ることに決めていた。

宿屋でゆっくりしていたイザーク達を、これからアイビスクを抜けてタラハンへ向かうというアミーナが、挨拶に尋ねてきたのが昼過ぎ。


「あんたには二度も借りを作っちゃったね」

宿屋の前でノリコと並んで立つイザークを見て、アミーナが軽く肩をすくめた。

「ま、なんかいつのまにか立派になっちゃったみたいだけどさ。あたしみたいな旅芸人でも役に立てることがあったら、遠慮なく連絡してよ。どこからだって駆けつけて、手を貸すからさ」

冗談めかしに言うアミーナに、イザークも、昨夜よりは随分穏やかな表情で応える。

「ああ...」

ふたりとも、分かっている。
今回逢えたのも、あくまでも偶然。三度目はありえない。

「−−−元気で」

「あんたも。その仏頂面に笑顔で付き合ってくれる彼女なんて、そうそういるもんじゃないんだからさ。ノリコちゃんのこと、せいぜい大事にしてあげなさいよね」

「.....」

その言葉に、またイザークが少しむっとした顔になる。

「だーかーらー、せっかく良い男なんだからさー、そういう顔はやめなってば」

そんなイザークの肩をバンッと勢いよく叩いてけらけらと笑うアミーナの姿に、ノリコは、4年前のふたりの関係も、きっとこういうサバサバしたものだったのだろう、とぼんやりと考えていた。

たとえ、彼女がイザークの初めての人だったとしても、そこには果たして、恋愛感情があったのだろうか?

そんなことを考えて視線を泳がせていたノリコは、じっとこちらを見ているアミーナの視線に気づいてハッと我に返った。

「あ...」

「−−−−まずは、ごめんなさい、だね」

「え?」

いきなりの言葉に面食らうノリコに構わず、アミーナが続ける。

「昨日言ったこと、あれ、全部嘘だから」

「−−−−え」

思考が、一時停止。

呆然として立ちつくすノリコに、アミーナはけらけらと笑いながら近づき、その頬に軽くキスした。

「意地悪してごめんなさいね」

ぴくりと眉を上げたイザークを無視して、軽くウィンク。

「せっかくの再会なのに、あんたに心配かけまいと頑な態度取ってるコイツを見てたら、なーんか悔しくってさー。しかもなんか、あんたにべた惚れの様子だし。ちょっと意地悪してみたくなっちゃったんだ」

「え?え?え?」

「−−−−安心してよ。確かに、一緒に旅してた間、何度もしつこく誘ったのは事実だけどさ、このカタブツ、一度もあたしの誘いには乗ってこなかったよ」

ま、でも、そんなに上手いんだったら、どこかで誰かに教わったのは間違いないだろうけど。

最期の一言は、やっぱりちょっとした意地悪だったかもしれない。

「否定しなかったってことは、やっぱり上手なんだろうね。ちょっと羨ましい」

ノリコにだけ聞こえるようにこそっと耳打ちし、イザークに何事かと咎められる前に、アミーナは軽やかな足取りで踵を返した。

後方で、出発の準備を整えて待っている一座の幌馬車に向かって、駆け出す。

「あたしだけかもしれないけど、また会えて嬉しかったよ!せいぜい仲良くやりな。またどこかで、ね!」

最後の囁きのせいで耳まで真っ赤になりながら、まるで台風一過だね、とノリコは思わずひとりごちた。もう気にしていないつもりだったとはいえ、彼女の言葉にホッと安堵したことは否めない。

「さよなら!」

一新した晴れやかな気持ちで、ノリコは大きく手を振った。




「....知りたいか?」

幌馬車に飛び乗り、去って行くアミーナ達一行を並んで見送りながら、前を向いたままで
イザークがポツリと言った。

女関係のことだけではない。

本当は、自分の出生さえ定かではないこと。日に日におかしくなっていく義母のため、よかれと思って家を出たのに、結局はそれが原因で彼等を死に至らしめてしまったこと。

嘘をついてまで隠すつもりはない。が、自分自身、思い出すことさえ疎まれる過去のことは、誰にも話したことはない。

だが。

もし、いずれ誰かに自分のすべてをさらけ出す必要があるとしたら、それはやはり、ノリコ以外には考えられない。ノリコが望むのであれば、とうの昔に記憶の奥底に封印してしまった暗い過去も、話すこともやむを得ないのだろう。

「.....」

それだけの決心がこもった一言であることを、ノリコが気づいたかどうかはわからない。

硬い表情のイザークの横顔を、ゆっくりと見上げる。
無言のままで、ノリコは腕を伸ばし、イザークの左手をそっと握った。

「ううん」

ハッと振り返ったイザークの目に映ったのは、いつもと変わらない、おひさまのようなノリコの笑顔。

「いいの。過去は、過去のままで」

「ノリコ....」

「そりゃ、イザークのこと、もっともっと知りたいって思うよ。彼女のことだって...気にならなかったって言ったら嘘になるし。でも、誰にだって、触れられたくない過去ってあるだろうし」

言って、ノリコはイザークの手を握る右手にそっと力を込めた。

「だけど−−−どんな辛い過去も、後悔も、イザークが体験してきたことすべてが、こうしてイザークをあたしに導いてくれたんだもん。過去のイザークが、もしそのひとつでも違う選択をしていたら、もしかしたら、今こうして、あたしのそばにいてくれなかったかもしれないでしょ?」

「ノリコ...」

言葉にならない思いに胸を占められながら、イザークが目を見張る。

そんなイザークに、ノリコは、少し悪戯っぽく笑みを返した。

「今、こうしてあたしのそばにいてくれるから、それでいいの」

これからも、ずっと。

こうして、一緒にいてくれるなら、それでいい。

それだけが、願い。

ずっと。

いつまでも。

そばにいて−−−−。

「.....」

きゅっと力のこもったノリコの右手を、イザークは黙って握り返した。



****************

<あとがき>

うーん....この話は、木苺の一件と、アミーナの『彼、上手いでしょ?』の台詞が書きたくて書いてた感じです...。ダラダラしてて、スミマセン。

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