4/19/2015

運命

小さな燭台の炎だけに照らされた、薄暗い洞。

奥には、獣の皮をなめして作られた絨毯の上に座している人影がひとつ。ふんわりとしたローブを羽織り、柔らかそうな長い白髪が、床まで届いている。

心落ち着く静寂の中、老人を中心に、空気がとても澄んでいる。
小さな石のすり鉢で薬草をすりつぶす音だけが、洞内でかすかに響いていた。

「.....」

その彼の皺だらけの指先が、不意に動きを止める。

ものすごい量の、禍々しさに満ちた気。

見えない暗雲が立ちこめてくるように、洞の入口のほうから徐々に近づいてくる暗黒のエネルギーの濃さに、老人はかすかに目を細めた。

「...来たか」

誰にともなく、ポツリと呟く。

と同時に、洞の入口にかけられた布を押し上げ、夕暮れのオレンジ色の陽光を背に受けながら、赤茶けた髪の少女がひょいと顔を出した。

「じいちゃん、お客様だよ!」

長い髪をゆるく編んで、左肩に流している。

「さっき村に着いたばっかなんだけど、急いでるらしくって。すぐにもじいちゃんに会いたいって言うから、連れて来ちゃった」

まだ頬にそばかすの残る素朴な顔立ちの少女は、勝手知ったる洞の中に遠慮なくずかずかと入ってきながら、いつもよりどこか落ち着かない、浮ついた声で言った。

「ほお...」

すり鉢から手を離し、老人が座ったままの姿勢で振り返る。

その視線の先には、少女にわずかに遅れて戸口の布を押し上げて入室してきた、すらりとした長身の影があった。

「...『白の老人』とは、あなたのことか?」

荷袋を肩からかけ、腰に剣をさげた渡り戦士らしい風体の青年。

穏やかな声で尋ねた彼は、誰もが振り返るだろう美丈夫だという点を除けば、「普通の」青年に見える。

が。

その身を包む禍々しい「気」の濃さに、老人は正直息が詰まりそうだった。

洞の中とはいえ、ある程度開けた空間にいるはずなのに、身体の周囲をぴっちりと壁で囲まれてしまったような、そんな圧迫感と息苦しさ。

それでも、そんな素振りは微塵も見せず、老人は座したままの姿勢で目を細めて笑みを作った。

「...その名で呼ばれるのは、随分と久しぶりだな」

言いながら、すり鉢を奥へしまい、身体ごと青年に向き直った。右手をゆるやかに動かして、青年に自分の前に座るように促す。

「−−−−サナ。案内ご苦労だったな」

促されるままに青年がふっと音もなく胡座をかいて座る様を目で追った後、老人は、入口近くに佇んだまま、居座る理由を探している様子の少女に声をかけた。

勘は鈍くないのか、暗に退席を求められていることを理解し、少女は、少し残念そうに一瞬口を尖らせたものの、素直に踵を返した。

「じゃ、ちょっと近くで花でも摘んでるからさ。用が終わったら呼んでよね」

村への帰り道、案内しますから。

振り返りもしない青年の背に向かって満面の笑みを浮かべて声をかけ、少女は姿を消した。



「−−−で。こんな辺鄙な土地までわざわざ足を運ばれた用件は何かな?」

随分と昔、まだこの村に移り住む前の自分の通り名を知っているのだから、その目的が占いであることはわかっていながら、わざと聞いてみる。

背筋をぴんと伸ばした姿勢で胡座をかき、脚の上に手を置いていた青年が、まっすぐに老人の深い青の双眸をみつめた。

漆黒の、星をちりばめた夜空のような瞳。

「...『目覚め』の出現する場所を占ってもらいたい」

彼の依頼がなんであるかをすでに知っていたかのように、老人は微動だにしなかった。
青年の真意を探るように、彼の瞳をじっと見返す。

「はて。言い伝えにある『目覚め』ならば、その姿がこの世に現れるまでは、その居所はわからんはずだと思ったが」

「−−−並の占者ならば。が、稀代の『白の老人』であれば、不可能も可能にできると聞いてきた」

「−−−−−」

もうずいぶんと昔、まだサナの祖母が生まれたばかりの頃に、老人はその名とともに俗世を捨て、この山奥深い離村のさらに外れにある洞に隠逸した。以前は、その希有なる占者としての力を各国の有力者達に持て囃されたりもしたが、その力ゆえに失ったものも多かったのだ。

この、まだ二十歳そこそこに見える青年が、どうやって自分の居場所を突き詰めたのかはわからない。だが、そうまでして自分に会いにくるには、よほどの理由があったのは間違いない。

「『天上鬼』と『目覚め』、か....」

呟いた老人の言葉に、青年の眉がぴくりと振れる。
無言のまま、彼の精神の糸がさらにぴんと張りつめたのを、老人は肌で感じた。

静かに、目を伏せる。

『目覚め』

−−−−−世界を破滅に導く力のある、『天上鬼』を目覚めさせるもの。

もう随分と昔から、この世界の大気がその出現を占者を通じて予言してきていた。そして、その出現の時期は間近い、と誰もが噂している。

だが、大気は常に乱れていて、実際にいつ、どこに現れるかは、各国のお抱え占者でさえわからないのだ。

そんな雲を掴むような芸当を、この老人であればできると青年は疑ってもいない様子だ。

「...『目覚め』をみつけて、どうされるおつもりか?」

青年の確信を否定するでもなく、老人は目を伏せたままで静かに訊いた。

「世界の覇者になりたがるタチの方とも見えんが?」

青年が纏うねっとりとした闇を思えば、彼がなぜ『目覚め』を求めるかは訊かずともわかってはいた。が、訊かずにはいられない。

「金なら用意してきた」

それ以上の追及を避けるかのように、青年が抑揚のない声で言う。
その言葉に、老人はやや目を細めてやわらかな笑みを作った。

「このような辺鄙な土地では、金など意味をもたんよ。今は、サナが村から注文を取って来てくれる薬草を調合することで生活をさせてもらっている」

「では、どうしたら占ってもらえるのか?」

わずかに焦りを見せた青年に、老人は、その年老いた姿には不釣り合いな、若々しい気の満ちた深い青の瞳を上げた。

「あなたの思惑通りに『目覚め』をみつけたとして、どうなさるおつもりか?」

もう一度、問う。

はぐらかすことは不可能と観念したのか、今度は青年が目を伏せ、かすかに息をついた。

「−−−−誰よりも早く見つけだし、消す」

短く告げられたその言葉には、なんの迷いもなかった。
もうずいぶんと前から、決意されていたことのように。

「...たとえ、それが何であったとしても?」

破壊の化身である『天上鬼』を目覚めさせるはずのその存在が、実際に何なのかは、誰にもわからない。

それ自体が武器となるものなのか?それとも、『天上鬼』になんらかの形で吸収されることで、その力を発揮させるはずのものなのか。

わかっているのは、『目覚め』なしには、『天上鬼』の真の覚醒はあり得ない、ということだけ。

「ふたつが揃わなければ良いのであれば、揃わないようにする方法は、ほかにもあるのでは?」

決して『目覚め』に影響されぬように、遥か彼方へ逃げるのも術かと。

自分の正体をすでに気づかれていることを承知しながら、青年はかすかに首を振った。

「この運命は、どこへ逃げても追いついてくる。ならば、こちらから出向いてその根源を断ち切るほうが確実だ」

強い決意に満ちたその言葉に、今度は老人も問い返すことはなかった。

「.....」

わずかな間が空いたのは、彼に真実を伝えることが真に正しい選択かどうか、遥か先の未来が視える老人にさえわからなかったからだ。

が。

こちらも意を決したように瞳を上げ、老人は静かにすでに用意していた予言の答えを青年に渡した。

「....急がれたが良かろう。『目覚め』は、間もなくザーゴの国、樹海の中央にある『金の寝床』に現れるだろう」

『それ』が現れれば、すぐに各国の占者達もその存在に気づくだろう。
そうなれば、世界をその手に収めんとする野望に満ちた国々から、五万と追っ手がかかるはずだ。

この場所から『金の寝床』までは、人の足では馬を駆っても数日はかかる。が、この青年であれば苦もなくその場に辿り着くだろうことが、老人にはなぜか理解できた。

「−−−−感謝する」

老人がすでに答えを持っていたことにわずかに驚きを示し、青年が目を見張る。が、座したまま軽く一礼すると、老人の前に静かに金貨の入った巾着袋を置き、青年はすっと立ち上がった。

そのまま踵を返して戸口へ向かう青年の背を、老人は静かに見送った。
かける言葉は、何もなかった。

「−−−−−−」

戸口の布に手をかけ、青年が、ふと肩越しに振り返る。

「『目覚め』を破壊すれば...止めることができるのか」

破滅へと進む、この運命を。

ポツリと呟かれたその言葉に、老人はしばし無言で青年の背中をみつめた。

そして。

「....『目覚め』を失くせば、確かにそなたの運命は変わろうな」

それが、良い方向にか。さらに悪い方向にか。
それは誰にもわかるまい。

たとえ、はるか先を視ることができる、この老人であっても。

「.....」

戸口の布を押し上げたまま、青年はしばらく動かなかった。

「助言、感謝する」

短く、言い残し。

その姿は、静かに布の向こうに消えていった。


*****


「.....」

濃い暗黒の気が素早く遠ざかっていくのを感じ、老人は深く呼吸してほっと安堵したように肩を落とした。

あの青年自身にはなんの恐れも感じはしなかった。むしろ、重い運命に圧し潰されまいとしているその姿に哀れを覚えた。だからこそ、最後まで逡巡してしまった予言も、遂には伝えてしまったのだが。

光を見失うな、と伝えてやるべきだっただろうか。
いや、たとえ今伝えたとしても、あのように心を閉ざしきった状態の彼には伝わるまい。

『目覚め』ならば、救えるだろうか。彼を正しい道へ導けるのか。

「−−−じいちゃん。あれ?やだ、もうあの人帰っちゃったの?!」

しばらくして、戸口からひょい、と顔を出した少女が、中に青年の姿がないことに気づいて、いかにも残念そうに肩を落とした。

「あーあ。終わったら呼んでって言ったのにー。あ、でも、この時間からじゃ谷を出るのは遅すぎるから、きっと今夜は村に宿を求めてくるはずだよね?今から追っかければ間に合うかな。せめて名前だけでも聞きたいし−−−−」

あんな綺麗な顔の青年は、お目にかかったことがない。
なんとしてもお近づきになりたい。そんな思いでまくしたてる少女を見上げ、老人は軽く息をついた。

「...サナ。あの男はやめておきなさい」

「え?」

「お前の手に負える男ではないよ。いや...アレを御せる者がこの世にいるかどうか」

彼自身、『天上鬼』がまさかあんな若者の姿をしているとは夢にも思っていなかった。
あんな細身で、よくもあれだけの暗黒の気を抑えていられるものだ。

あの身体の中に渦巻く闇を一度でも垣間見てしまったら、どんな者でも、彼に近づきたいとは思わないだろう。

「不憫な男だ...」

稀代の占者と言われた自分にさえ、視ることができるのは、運命という名の「場」に用意されたそれぞれの使命でしかない。大気の流れと同じで、運命もまた、その「場」に置いて自身が選択して取った行動によって、常に流動的に変化を続けているのだ。

数日後には、『目覚め』が樹海に現れる。

これは変えようのない事実。

その『目覚め』をどうするかによって、『天上鬼』の運命も大きく変わるだろう。

「光の門へ、彼をうまく導いてくれれば良いのだが...」

誰にともなく呟き、かつて『白の老人』と呼ばれた占者は、静かに目を伏せた。

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