「気をつけてねー!」
バラゴが手綱を取る馬車に乗った一行を大きく手を振りながら見送るノリコに、ガーヤやゼーナ、アニタ達女性陣が応えて手を振りかえす。父親の脇に守られるようにして座っているジーナも、振り返って手を振った。
「まーたーねー、おねえちゃん!」
夕陽を受けて、少女の淡い金の髪も黄金色に輝いている。
町までの一本道をゴトゴトと進んで行く馬車の姿が小さくなるまで見送ったあと、ノリコは、ふうっと軽く息をついて、傍らに立つイザークを見上げた。
「全員集合したの、久しぶりだったから楽しかったね」
急な仕事の依頼などもなく、良く晴れた秋の日。
良いお茶の葉が手に入ったから届けに行くよ、とガーヤが久しぶりに遊びに来てくれることになり、せっかくだからとジーナ達親子を呼んだら、そこからあれよあれよという間にバラゴやゼーナ達まで来ることになってしまい、のんびりと過ごすはずだった一日は、結局とても賑やかなものになった。
「大勢の対応で疲れなかったか?」
「ぜんっぜん!賑やかで楽しかったよー。イザークは大丈夫だった?」
幸せそうに笑うノリコ。
あまり騒がしいのは得意ではない自分を気遣う妻の肩に腕を回して家に戻りながら、イザークは口元にかすかな笑みを浮かべた。
「お前の笑顔を見るのは、いつでも良いものだ」
******
「あれっ?!イザーク、食べてないっ!」
家に入り、後片付けをしようと食卓へ向かったノリコが、ビックリして声をあげた。
テーブルの上には、先程までの騒がしさが容易に想像できる様で、たくさんの皿やカップが散在している。その中に、来客用にと朝から頑張ってノリコが準備した焼き菓子が、一切れだけぽつんと残った取り皿があった。
そこは、イザークのいつもの定位置。
「ええーっ。このお菓子、イザーク嫌いだったっけ?確か前に作った時は美味しいって言ってくれてたと思ったから、また作ってみたんだけど...。おかしいなあー、お砂糖も控えめにしたつもりだったけど、まだ甘すぎた?」
来客中はバタバタしていたので、イザークが手をつけていないことに気づかなかった。
お客様用とはいえ、やはり一番美味しいと言って食べてほしかったのはイザークなので、手も付けないほど不味かったとは相当ショックだ。
「やだあー、どこで間違えちゃったんだろう?」
アニタ達に教えてもらったレシピで、今回は割と上手く出来たつもりだったのに。
焼き菓子の乗った皿を凝視したまま、右手を口元に当てて、がーん、とショックを隠しきれずにいるノリコを見て、イザークはクスッと口元で笑った。
「−−−不味かったわけではない。その証拠に、ほかの皆は完食していただろう?」
すっとノリコの背後に立ち、肩越しに顔を寄せて、静かに囁く。
その言葉に、テーブルの上のほかの空皿に気づいたノリコの顔が、途端に輝いた。
「あ、ほんとだ!ということは、砂糖と塩を間違えたわけじゃなかったんだあ」
ホッとした様子で声をあげ、ぱっとイザークを振り返ったノリコだったが、思っていたよりもすぐ目と鼻の先にイザークの顔があることに気づいて、わわっと慌ててよろめいた。
「気をつけろ」
そつのない仕草でノリコの腰にふわりと右腕を回して抱きとめ、まっすぐに立たせる。
穏やかな、低い声。
あっという間に真っ赤になったノリコをよそに、イザークはテーブルの上の空き皿やカップをまとめて片付けはじめた。
(は、恥ずかし....)
結婚してもうしばらく経つというのに、自分の夫の顔が至近距離にあったというだけで、赤面してしまう妻ってどうなんだろう?
両手で顔を覆いながら、ノリコはひとりごちた。
いろんなことがあって、いろんな想いをして、やっと一緒になれた相手だ。
なんの障害もなく、ふたりでいられることが日常になっても、日々の幸福感は少しも色褪せることはない。逆に、どんどん愛しさが増していくのが自分でもわかるくらいだ。
(イザークが格好良すぎるのがそもそも問題なのよね....)
すぐそばに彼の姿が在ること自体に慣れはしても、その秀麗な顔に間近でじっとみつめられると、いつも一瞬息が止まる。深い闇色の瞳に、吸い込まれそうになる−−−−。
(イザーク....)
しばらくボーッとしてしまったノリコだったが、その間に、イザークはいつの間にか手早く食器を台所へ片付けてしまっていた。
テーブルの上には、新たに淹れられたお茶の入ったポットと、カップがふたつ。
「−−−−お茶にしよう」
自分用の椅子を引き、イザークが腰を下ろす。
「え...?」
今の今まで、皆でお茶にしていたのに、どうしてまた?
キョトン、としているノリコを座ったまま見上げ、イザークが微笑む。
「−−−来客中、ずっと彼等の世話ばかりで少しも落ち着かなかったろう。それに、自分の分の菓子を取り損ねていたな」
「あ...」
バタバタしているうちにお菓子の切り方を間違えて、人数分に足りなくなってしまった。仕方ないからと来客とイザークにだけ菓子を出し、自分はお茶だけ飲んでいた。会話が盛り上がっていたし、誰も気づいていないと安心していたのだけれど。
「イザーク、気づいてたんだ...」
その問いには答えず、イザークは、自分の隣の椅子を引いて、座るようにとノリコに無言で促した。
「−−−−−」
言われるままに、ノリコがちょこんと腰を下ろす。
「今日だけじゃない。お前は−−−−」
淹れ直してきたお茶を、手際よくカップに注ぎながら、イザークが静かな声で続ける。
「いつも皆のことに気を遣ってばかりで、自分のことは二の次だ。皆で旅をしていた時も、食事の時はいつも皆の分を多めに取り分けて、自分はいつも最後。今日みたいに、食いっ逸れることもよくあっただろう」
「あ...」
意外なイザークの言葉に、ノリコはただ目を丸くした。
故意にしていたことではないし、自分自身、気に留めてもいなかった。ただ、皆の笑顔をいつも見ていたかっただけのことなのに。
そんな風に、いつもイザークが自分を見ていてくれたなんて。
(イザーク...)
言葉にならない、暖かい気持ちに包まれる。
なんと答えていいのかわからずにいるノリコの前に、イザークが、淹れたてのお茶をスッと差し出した。
「−−−不味かったんじゃない」
漆黒の黒髪が、さらりと肩からこぼれる。
テーブルに両腕をつき、ノリコをしっかりとみつめて。
「俺は、ノリコが頑張って作ってくれた菓子を、ノリコと一緒に食べたかったんだ」
ノリコしか見たことがない、ふんわりとした笑みがイザークの瞳に浮かんだ。
「イザーク....」
こんな、優しい人っていない。
こんなにも、そばにいて、いつも自分を見ていてくれる。気遣ってくれる人がいる。
それがどれほど幸福なことか。
溢れる多幸感に胸がいっぱいになり、てへへ、と微笑みながら涙ぐんでしまったノリコの頬にそっと手を伸ばし、身を乗り出す。
視線を同じ高さに合わせ。
ゆっくりと、顔を近づける。
今度は赤面することもなく、ノリコは、イザークとほぼ同時に目を閉じ、優しい口づけを受け止めた。
同時に、頭に響いてくる言葉。
(−−−−愛してる)
どちらの言葉だったのか、重なり合った心には区別がつかなかった。
*********
<あとがき>
お久しぶりでございます。
なんだか、急に書きたくなって。
他愛もないショートで申し訳ないです。なぜか急に、ノリコが作ったお菓子を食べずに待ってるイザークの姿が頭にぽんっと浮かんで、この話を書くことになりました。時系列的には、「氷の鏡」の直前ぐらいですかねー。セレナグゼナに一緒に住んでいる仲間達とは、時折こうやって集まったりしてるんだろうな、と。
0 件のコメント:
コメントを投稿