『イザーク!』
木洩れ陽がいたるところから差し込んでいる森の中は、明るいけれど、やけに静かだ。
駆けるノリコの荒い息と、時折彼女が踏みつけて折れる小枝の音だけが響く。
『イザーク、どこ?!』
何度声をかけても、求める姿は、どこにも見えない。
まるでこの森の中には自分だけしか存在していないような、そんな虚無感に襲われながら、ノリコは何度も立ち止まっては耳を澄まし、イザークの名を呼んだ。
『イザーク....!!』
彼の身に何が起こったのかさえ、知らない。
何の力もない自分が助けに行ったところで、何ができるのかもわからない。
それでも。
『イザーク、お願い、返事してっ!』
とにかく、見つけなければ。
彼の、あの吸い込まれるような漆黒の瞳を。
包み込むように暖かい、あの、笑みを−−−−−。
(イザーク....!)
****
どれぐらいの時間が経ったのか、まるで見当もつかない。
森の奥へ奥へと進んでいるはずなのに、まるで景色が変わらない。同じところを堂々巡りしているような気になりながら、とにかく走り続ける。
イザークを見つけ出す、ということだけに神経を集中させているせいなのか、頭から雑念が消え、妙に神経が冴えている。
こんな森の中をひとりで走り回って自分自身が迷子になってしまうのでは、なんて懸念は浮かびもしない。
迷うことは怖くない。
怖いのは、あの人に二度と会えなくなることだ。
(イザーク....!)
不意に。
不思議な、既視感に襲われる。
見つからないイザークを求めて、探して、探して−−−−−。
どれほどあたりを見回しても、名を呼んでも、応える人はいなくて。
こんなことが、前にもあった?
ギュッと心臓を鷲掴みにされたような胸苦しさに、ノリコは立ち止まり、無意識に握りしめた右手を胸元に押さえつけた。
(この、感覚....)
泣きたくなるような、切なさ。
取り残されていく、寂しさ。
(イザーク.....)
いやだ。
いやだ。
いやだ。
置いていかないで。
そばにいて。
ずっと、そばにいて。
「やだよ、イザーク....」
ポツリ、と呟いたその言葉が日本語ではなかったことに、ノリコ自身も気づいていない。
「行かないで...あたしを置いて、どこへも行かないで....」
頬を伝った涙がこぼれ、握りしめた自分の拳を濡らして初めて、ノリコは、自分が泣いていることに気づいた。
『あた..し....』
掌で頬を拭い、涙で濡れた手に視線を落とす。
途端、ポロポロと大粒の涙が堰を切ったように頬を伝ってこぼれ落ちてきた。
『やだ、あたしったら....』
これじゃまるで、迷子にでもなった子供みたいだ。
慌てて手の甲で頬の涙を拭いながら、ノリコは苦笑した。
『おばさんの家に置いてかれた時だって、絶対泣かないって決めてた..のに−−−−』
無意識に口を突いて出た言葉に、自分自身でハッとする。
と同時に、いつのことかもわからない、実際にあったことなのかも定かではないのに、自分の手を振り払って去っていくイザークの背が−−−−青く光る目をした変わり果てた姿のイザークが後ずさっていく姿が−−−見渡す限りの荒野を、イザークを求めて歩き回る自分の姿が−−−−走馬燈のように素早く脳裏を横切り、息苦しいまでの切なさに胸を圧し掴まれて、ノリコは息を飲んだ。
(イザーク....!!)
その、瞬間−−−−−。
頭の中で、パンッ!と水風船が弾けたような感覚がしたかと思うと、壁を覆いつくすほどの大きな水槽いっぱいの水が、割れたガラスの向こうから空っぽの空間にドッとなだれ込むような勢いで、急にノリコの全身を溢れる光の波が包み込んだ。
「.....!!」
一瞬、その波に溺れてしまうような恐怖を覚えて、ギュッときつく両目を閉じる。
が、『それ』が自分を暖かく包み込む見えない光だとすぐに気づいて、ノリコは、目を閉じたまま両手を大きく広げ、深呼吸とともにその波を全身で受け止めた。
(イザーク.....!)
次から次に溢れてくるのは、愛しい、と思う気持ち。
脳裏に浮かぶのは、ただひとりの面影。
やわらかい光が両手足の指先までしっかりと浸透していくにつれ、胸を占めていくのは、イザークと共に過ごしたひとつひとつの思い出だ。
苦しい時も、嬉しい時も、常にそばにいてくれた、あの人の微笑み。
肌で感じた、彼の優しさ−−−−。
「.....」
ゆっくりと目を開いたノリコの口元には、嬉しげな笑みが浮かんでいた。
*******
「−−−−−−−−−」
まるで、行く先がはっきりわかっているかのようにまっすぐに森の中を歩いてきたノリコが、木々の間にぽっかりと開けた場所に来た途端、ぴたりと立ち止まった。
頭上から差し込んでくる木洩れ陽が、草と苔だけに覆われた空き地を照らしだしているだけのその場所を、じっとみつめる。
「−−−全部思いだしちゃったんだね、ノリコ」
どこかつまらなそうな声が頭上から降ってきて、ノリコは静かに顔をあげた。
「ユッグ」
いつの間に追いついてきていたのか。つけてもらった名を呼ばれ、少年の姿をした桃忘花の木の精霊がふわりと宙から降りてくる。まっすぐに立つノリコと視線の高さを合わせた位置に立ち、精霊は背後で両腕を組んだ。
「なんであんな男が良いのかなー」
てんで理由がわからない、といった体で呟くユッグに、ノリコが目を細めて笑う。
「前にも言ったでしょ?あたしには、イザークじゃなきゃ駄目なの」
確信に満ちた、揺るぎのない笑顔。
「−−−僕のこと、きれいって言ってくれたよね」
「うん」
「僕に名前をつけてくれたのは、ノリコが初めてだったんだ」
「うん」
「ずっと一緒にいたいって、本気で思ったんだよ」
「うん」
淡々と呟くユッグに、ノリコはひとつひとつ丁寧に頷いてみせた。
「うん、わかってるよ。ユッグはただ寂しかったんだよね」
「−−−−−」
優しい笑みを含んだノリコの言葉に、精霊はただ言葉もなく大きく目を見張った。
その紅い瞳をまっすぐにみつめ返し、ノリコが続ける。
「だけどごめんね、ユッグ。あたしには、イザークしかいないの」
わかっていた、ことだけど。
それでも、なんとかしてそばに置いておきたかった。
そうすれば、何百年も続いてきた自分の中の空虚が、いくらか埋まるような気がして−−−−−。
「イザークを返して」
ユッグが何か言いかけるよりも早く、ノリコの真摯な瞳が願った。
「イザーク、ここにいるよね?あたしにはわかるの」
目では、視えないけれど。
記憶が戻った今、どこにいても、イザークの存在を感じ取れる。
イザークのはっきりとした気配を、すぐ目の前に感じる−−−−−。
「ユッグ、お願い」
イザークを−−−−あたしに返して。
「ノリコ...」
胸元で祈るように手を組んだノリコの、あまりに一途な表情を見ていると、何も言えなくなってしまう。本当なら、イザークにそうしたように、力づくでもノリコを眠らせてそばに置いておくことだって可能なのに、そうする気になれない。
『たかが人間』のはずの彼女に、精霊を御する力などあるはずもないのに−−−−。
「.....」
しばらくの間を置いて、ユッグが、ふうっと大袈裟なくらい大きく溜息をついたかと思うと、ノリコの正面−−−ユッグの背後にあるわずかに開けた空間の空気がフッと変わり、つい先程まで何もなかった空き地の中央に、敷き詰められた薄紅色の花びらの中に横たわる青年の姿が現れた。
透き通ったユッグの身体を通してその姿をみつけ、ノリコの顔がぱっと輝く。
「イザーク....!!」
素早く駆け寄ろうとしたが、はた、と足を止め。
ノリコは、すぐ後ろにいるユッグをくるりと振り返った。
「ありがとう、ユッグ!」
満面の笑みで、心からの感謝の言葉−−−−。
「えっ....」
ノリコの意外な言葉に、桃忘花の木の精霊は唖然とした表情になった。
ありがとうもなにも、今回の騒動のすべての元凶は自分にあるのに、その相手に対して、礼を言うなんて。
「ノリコらしいよね」
いつの間に来ていたのか、唖然とした表情のまま立ちつくすユッグの隣にふわりと寄り添って、イルクツーレがクスクスと笑った。
「ちぇっ....」
完全に、自分の負けだ。
でもそれを言葉に出して認めることは決してしたくなくて、くるりとノリコ達に背を向けると、ユッグはその場から掻き消えた。
あーあ、と残念そうに肩をすくめてその姿を見送った後、まだ横になったままのイザークに転がるように駆け寄っていくノリコの背に目をやり、イルクは微笑んだ。
優しい、慈しみに満ちた笑みで。
*****
「......」
空き地の中央に横たわるイザークのすぐそばまで駆け寄ったノリコは、だが、もう一歩で手が届きそうな位置まで来て、急に立ち止まった。
あんなに必死で探していたイザークが、今、目の前にいる。
横たわったイザークの表情は、少し眉間に皺が寄っていて、やや苦しそうではある。が、すらりと均整の取れた長身の青年が桃忘花の花びらの海の中に横たわるその姿は、やはり優美で、絵になる。
「...眠れる森の美女、みたい」
幼い頃に読んだお伽噺のワンシーンを見ているようで、ノリコは思わず口元を上げて微笑んだ。
そっと、眠れるイザークの頭のそばに膝をついて座る。
「イザーク...」
大事な、大事な、人。
端正なその顔をじっとみつめているだけで、鼓動が高鳴る。
「イザーク...」
どうして、ほんの一時でも忘れることができたのだろう?
この人よりも大切なものは、この世にはなにひとつないというのに。
微笑みながら、ノリコは、静かに右手を伸ばし、イザークの頬に掛かっていた一筋の漆黒の髪にそおっと触れて横に流してやった。
「みつけたよ、イザーク」
もう、絶対に忘れたりしない。
「イザーク、起きて」
早く、その瞳であたしを見て。
*****
−−−−夢を見ている。
『金の寝床』で初めてノリコに出会ったあの日。
追いかけてくる無数の花虫を振り切るために飛び降りた地下水脈の岸辺で、突然異世界に飛ばされた緊張のあまり、腰が抜けて動けなくなり、泣き出したノリコ。
いつもの持病で動けなくなった自分を必死に看病しようとする彼女が、逆に煩わしく、その手を振り払って顔を背けたあの日。
自分が『目覚め』であることを知らないが故に、無防備に『金の寝床』のことを人前で口にした彼女をただ黙らせたくて、思いきりテーブルを叩きつけた。あの時の、小刻みに肩を震わせて縮こまって座っていたノリコの横顔。
−−−ああ、と思う。
彼女が、こんなにも自分の中で大きな存在になるとわかっていたら。
異世界でただひとり飛ばされ、言葉もわからず途方に暮れていたノリコ。刷り込みされたヒナのようにひたむきに慕ってくれた彼女の思いを、もっと汲んでやれるぐらい自分が大人だったら。
もっと最初から、優しくしてやれば良かった−−−−。
ノリコと心が通じてからも、ずっと心のどこかで、あの日々のことを悔やんでいた気がする。自分のすべてをありのままに受け入れて、それでも慕ってくれる彼女の笑顔を見る度に、なぜ、あの時−−−−と。
今度のことで、まるでふりだしに戻ったような気分になった。
悔やんでいた分、一からやり直してみろ、と誰かに言われたような気がした。
(俺は、今度はノリコにちゃんと優しくできているのか...?)
宿の窓の外は、しとしとと静かに雨が降り続く。
テーブルの上のカードをめくり、たどたどしくこの世界の言葉を紡ぐノリコの、嬉しそうな笑顔が浮かぶ。
一度は手に入れたものに、触れることもできない辛さは堪え難い。
それでも。
あの、変わらない笑顔を見ているだけで、愛しさが溢れてくる。
あの笑顔さえそばにあれば。
失わなければ。
−−−−会いたい。
かすかに花の香りがするあの栗色の髪に、触れたい。
「....ク」
あの花のような笑顔を、いつまでも見ていたい。
「...ザーク」
誰にも、触れさせたくない。
俺だけの、ものだ。
「イザーク」
「−−−−−」
最初は、どこか遠くからかすかに聞こえてきた声が、徐々に近づいてきた。
耳元で、囁くように。
聞き覚えのある、声。
「ノリ..コ..?」
まだぼやけた意識の中で、イザークはゆっくりと瞼を押し上げた。
最初はぼんやりとしていた輪郭が徐々にはっきりとしてくるにつれ、それが、何よりも求めていた姿だと気づく。
すぐそばに座り込んだノリコが、こちらを覗き込んでいる。
「イザーク」
懐かしい、響き。
まるでもう何年も聞いてなかったような、そんな気分になる。
「ノリコ....」
視線を宙に漂わせたまま、夢を見ているような表情で呟いたイザークに、ノリコがふっとやわらかな笑みを向けた。
「ここにいるよ、イザーク」
言いながら、右手を伸ばし、横になったまま乱れたイザークの前髪をそっと指先で整えてあげる。
「あたしはここにいるよ」
繰り返し。
「......」
これは、夢なのか?
もしそうなら、覚めないでほしい。
ぼんやりとそんなことを考えながら、イザークはすぐ真上のノリコの笑顔をじいっとみつめた。
「...ノリコ、俺を憶えているのか?」
「うん」
くすりと笑い、ノリコが頷いた。
「憶えてるよ。イザークのこと。イザークと過ごした日々も−−−あなたに出会ってから体験した、どんな小さな思い出も。全部、憶えてるよ」
その、言葉に。
ハッと我に返り、イザークは目を見張った。
がばっと勢いよく上半身を起こす。
「ノリコ?!」
(−−−記憶が戻ったのか?!)
心の中で叫んだイザークの声を聞き、ノリコが大きく頷いた。
その瞳には、うっすらと嬉し涙が浮かんでいる。
「.....!!」
言葉もなく、イザークは両手でノリコの頭を引き寄せ、噛みつくようにその唇を奪った。
****
どうやって宿屋まで戻って来たのか、憶えていない。
気がつくと、部屋の扉に背を押し付けられた形でイザークにしっかりと抱きしめられ、ただ無我夢中でお互いの頭を抱き寄せ、唇を、舌を絡ませていた。
息をつく暇もないほどの激しい口づけが繰り返される中、やや乱暴に、イザークの手がノリコの服を剥ぎ取っていく。
ノリコのふくよかな乳房が空気にさらされると、唇を離したイザークが、ほんの一瞬視姦したかと思うと、骨張った大きな男の両手でそれらを包み込み、つんと突き出したピンクの突起に食らいつくように吸いついた。
「あ、あ....」
それだけで、身体の芯が熱くなってくる。もう片方の乳房を揉みしだかれながら、執拗なほど入念に右の乳首を舌で攻められ、あっという間に腰の力が抜けていく。
閉じた扉に押し付けられたまま、ノリコは、いつもより激しいイザークの愛撫に恥じらいを感じずにはいられない。
記憶は完全に戻ったはずだが、まるで初めての時のように羞恥で顔が真っ赤になる。
「イ、イザーク...」
「すまん」
ノリコの素肌に唇を這わせながら、イザークがちらりと目を上げる。
「もう3日もお前に触れられなかった。余裕がない」
呟くように言ったかと思うと、床に膝をつき、何か言いかけるノリコが最初の声を発するよりも早く、たくしあげたスカートの下、白い太腿を両手でやや強引に割り、薄い茂みに舌を沈ませる。
「.....ッ!」
イザークの頭を思わず両手で押さえ、ノリコが、声にならない声を上げながら大きく弓なりに背を反らした。
**
「ああ...っん!」
思わず、声が漏れた。
腰をしっかりと押さえつけられ、背後から激しく攻められる。何度も。何度も。
言葉はなく、ただ、お互いの荒い息づかいと、水音と、寝台が軋む音だけが室内に響く。
最初にイザークが断ったように、まるで余裕のない、激しさが勝った愛し方だ。まるで、もう何年も会えなかった恋人達のように、ノリコの肌の質感や温もりを全身で思いだそうと、イザークの激しい攻めは止まず、その手は、ノリコの全身をくまなく這い回っていた。
ノリコの肌には、イザークが付けた印が、いたるところに花びらのように舞っている。
壊れて、しまいそう....。
頭の中が真っ白で、何も考えることができない。
あまりの快感に背を反らせた途端、イザークの大きな手が、ノリコのふくよかな乳房を背後からしっかりと包み込んだ。そのまま身体を支えてのけ反らせ、喘ぐ唇を求めて顔が寄せられる。
「イ.ザーク...」
もう何度目だろう?
激しい攻めに息も絶え絶えになりながら、それでも、ノリコもイザークの唇を求めて顔を巡らせ、唇を合わせながら、愛しい夫の頬に指を添えた。
ノリコの唇を深く貪り、舌を絡ませながら、ノリコの乳房を愛撫するイザークの手は止まず、ノリコの中がキュッと締めつけを増す。
「.....!!」
堪らない。
離すまいとするかのように吸いついてくる肉襞のあまりの心地よさに、イザークが苦悩にも見える顔つきで眉を寄せた。
どうしてこうも、彼女の中は気持ちいいのか。
膝立ちになった姿勢のまま、ノリコの乳房を掴んだ左手に力を込め、彼女の華奢な背をさらに抱き寄せる。汗ばんだノリコの背が、胸に当たった。
その瞬間、溢れる想いのすべてを伝えようとするかのようにぐっと深く突き上げ、同時に、乳房から降りてきたイザークの右手の指が、ノリコの濡れそぼった薄い茂みの間から赤く熟れた突起に辿り着き、絶妙な動きで擦り上げた。
「あ、ああ...っ!」
耐えられず、イザークに背中を預けた姿勢のままで、ノリコが再び、達する。その華奢な身体を、イザークは、もう二度と離すまいとしっかりと背後から両腕で抱擁した。
(ノリコ.....)
*******************
<あとがき>
こんにちは。5月1日に、最初にアップした時に書き忘れていた部分を少しだけ加筆させていただきました。
熊本の震災、大変でしたね。読んでくださっている方達の中で、被災された方がいらっしゃらなければ良いのですが。また、被災された皆さんが、一日でも早く、安心して眠れる日が来ることを祈っています。
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