しとしとと一日中雨が降り続いていた昨日とはうって変わって、今日は本当に春らしく、ぽかぽかとした暖かい良い天気だ。昨日の分も商いに精を出しているのか、眼下の往来にも、小さな村なりにたくさんの人が行き来しているのが見える。
「あーあ...」
開け放した窓際に椅子を寄せて座り、窓枠に両肘をついて外を眺めていたノリコが、ふうっとつまらなそうに溜息をついた。
時計などないこの世界で、正確な時間を知る術はなく、朝起きてから実際にどれぐらいの時間が経ったのかは具体的にはわからないものの、太陽の昇り具合や近所の食堂から漂ってくる匂いから、もう昼過ぎであることはわかった。
イザークが言伝ていってくれていたのか、宿屋の主人らしい男性が何度か部屋にやってきて、下で食事をしないかと身振り手振りで尋ねてくれたが、あまり食欲もなく、ノリコはずっと部屋でイザークの帰りを待っていた。
「イザーク、いつ帰ってくるのかな」
早く、会いたい。
通りを歩いてくる彼の姿が見えるのではないかと思い、ずっと往来を見下ろしたままだ。だが、遠くからでも目立つ彼の優美な長身は、一向に視界に入ってこない。
本当に、彼は帰ってきてくれるのだろうか?
もしかして、実は置いて行かれたのではないだろうか。
じわじわと忍び寄ってくる不毛な不安の種に、さすがにノリコも取り憑かれそうになった、まさにその時−−−−−。
『−−−ノリコ!!』
「わああっ!」
急に、背後 −−しかも、天井近くの高い位置から−− 名を呼ばれ、ノリコはビクッとして椅子から飛び上がった。
突如空中に現れたのは、淡い銀の髪に菫色の瞳をした少年。
必死の形相でこちらを見下ろしているが、身体の輪郭がぼんやりとかすみ、その向こうの天井が透けて見えている。
『ゆ、ゆ、ゆ....』
(幽霊−−−−−?!)
先日、森で会った紅い瞳の少年とはまた別人。
こっちの世界では、こういう風に幽霊も普通の人間と一緒に暮らしているものなのだろうか?!
(こ、こういうの、心臓に悪すぎ−−−!)
大きく目を見開き、左手の拳を口元に当てて。
自分を見上げたまま硬直しているノリコを見下ろし、イルクツーレは申し訳なさそうな顔になった。
『ご、ごめんよ、ノリコ、びっくりさせて。本当は、ノリコを驚かせないように姿を見せずに見守っていてほしいってイザークにも言われてたんだけど、やっぱりこれはノリコに報せないといけないと思って−−−−』
『イザーク?!』
まるで魔法の言葉を聞いたかのように、その名を耳にして、ノリコがハッと我に帰った。
『い、今、イザークって言った?』
言葉がわからないなりに、少年が、何かイザークに関して良くない情報を持ってきたことは、ノリコにも直感的にわかった。それだけで、見知らぬものへの恐怖心は掻き消え、イザークのことだけに心が占められる。
『イザークに何かあったの?!』
胸元に手を寄せ、心配そうに見上げてくるノリコと視線を合わせたまま、イルクは、すーっと滑るように降りてきて、ノリコとほぼ同じ高さになった。
『......』
イザークの頼みで、朝からずっとノリコを少し離れた位置から見守っていたため、実際に何が起こったのかはイルクにも把握できていない。
だが、ユッグところに直談判に行ったはずのイザークの気配が、不意に掻き消えたのだ。イザークの身に何か起こったのは間違いない。だが、言葉の壁がある以上、ノリコに何をどう説明すれば良いのだろう。
一旦口を開いたものの、何と言っていいのかわからず途方に暮れたイルクは、再びスーッと宙に浮きあがった。
今度は、部屋の扉の方向へ向かい、指を差す。
『−−−イザークが君を必要としているんだ。ノリコ、ついてきて』
オルゴールの音色のような、透明で耳に心地よい響き。
何を言っているのかは正確にわからなくとも、イルクの意思をきちんと受け止めて、ノリコはこくん、と大きく頷いた。
*****
宙を滑るように飛んでいくイルクを追いかけて、ノリコは精一杯の速さで走り続けた。
通りを駆け抜けていく間も、誰ひとりとしてイルクの姿に驚いていない様子なので、きっと少年の姿が見えているのは自分だけなのだろう。
(......)
この少年が、もうひとりの紅い瞳の少年と実はグルで、イザークの名を使って自分を罠に落とそうとしているのではないか、とか、そういう考えが一瞬脳裏をよぎったのも事実だ。
けれど、そんな考えはすぐに消えた。
この少年は、記憶を失う前の自分を知っている。
イザークのことを心配しているらしいその顔には、嘘は見当たらない。
足の遅い自分にスピードを合わせつつ、何度も気遣わしげに振り返ってくるその姿には、どこか既視感さえあり−−−−−。
『......』
村を抜け、街道を森に向かって走っていたノリコが、はた、と足を止めた。
すぐに気づいたイルクがくるりと振り返り、ノリコのすぐ近くまで戻ってくる。
『ノリコ、大丈夫?少し休もうか?』
『....』
腰を折り、両膝に手をついて肩で息をしながら、ノリコは顔を上げ、すぐ近くまで降りてきたイルクの菫色の瞳をじっとみつめた。
『ノリコ?』
『前にも−−−こうしてあなたと一緒に走ったこと、あった気がする』
ぽつり、と独り言のように呟かれた言葉。
もちろん理解できるはずもなく、イルクは小首を傾げた。
『?』
『...なんでもない。行こう!』
頭の奥で何かがくすぶっているような不思議な感覚を振り切るように軽く頭を振り、ノリコは再び走りはじめた。
今は、とにかく、イザークだ。
あの人の身に、何か起こったに違いない。そうなのだとしたら、今は、あたしに何ができるかを考えるべきだ。自分にできることに集中するしかない。
あたしには、なんの力もないけれど。
今のあたしにできるのは、少しでも早く、イザークのそばに行くこと。
何があっても。
何が起こっても。
(あの日の、約束の通りに−−−−)
(−−−−−−!)
自分自身の心の声に、ノリコ本人がハッと息を飲んだ。
(約、束...?)
霞がかかったようにはっきりしない頭。
何も思いだせないのに、喉の奥に何かが突っかかったような異物感。それが取れさえすれば、スッキリしそうなのに−−−−。
頭の奥で何かが一瞬クリックしたような感覚を覚えたが、それでも足を止めることはなく、ノリコは、イルクのあとを追って走り続ける。
会いたいのは、そばにいたいのは、ただひとりだけ−−−−。
(イザーク.....!)
*******
「♪♪♪〜」
薄紅色の花が満開の大樹の枝に腰掛け、金の髪の少年が子守唄のようなメロディーをかすかに口ずさんでいた。
その視線の先には、どこまでも続く緑の森。
彼の口元には、無邪気な笑みが浮かんでいる。
−−−と。
『イザークはどこ?!』
突如、足元から声が聞こえてきて、ユッグがふうっと身体を大きくのけ反らせ、普通の人間であれば間違いなく枝から転げ落ちているに違いない不自然な姿勢で、桃忘花の根元に立つ人影を見下ろした。
そして、にこり、と笑う。
「やあ、ノリコ!」
本当に嬉しそうな声を上げ、枝から飛び降りて、ノリコの目の前に立つ。
「僕に会いに来てくれたの?嬉しいなあー」
ニコニコと上機嫌で続けるユッグの前には、両の拳を握りしめ、肩を怒らせて立つノリコの姿。そのすぐ頭上には、もちろんイルクツーレが付き添っている。
ずっと走ってきたせいでかなり荒れた息を必死に整えようと試みながら、ノリコは、キッとユッグの紅い瞳を睨みつけた。
彼が幽霊かもしれない、とか、自分の記憶を奪った相手かもしれない、とか、そういう畏怖の念は、今はノリコの頭にはなかった。
『イザークは、どこ?』
はっきりとした口調で、繰り返す。
言葉が通じなくても、問われていることが何かは百も承知で、ユッグは白々しいまでに和やかな笑顔を崩さないまま、小首を傾げた。
「やだなあ、そんな怖い顔しないでよ。ノリコには似合わないって」
言って、その頬に触れようと指先を伸ばしたが、ノリコがスッと身を引くのと同時に、こちらもやや厳しい表情をしたイルクツーレが、素早くふたりの間に割って入った。
「−−−ノリコに手は出させないよ」
いつも穏やかな口調のイルクにしては珍しく、ぴしゃりと鋭く言い放つ。
「わかってると思うけど、またノリコの記憶を操作したり、眠らせようなんてことをするなら、僕が相手になるよ」
「おーこわっ!」
大袈裟に肩をすくませ、ユッグはクスクスとおかしそうに笑った。
「たかが人間相手に、まるで騎士きどりだね。あ、違うか。大切な『オトモダチ』だもんね」
「その『たかが人間』に構ってもらいたくてたまらないほど寂しいのは、どこの誰だい?」
「!!」
『きゃっ!』
挑発したはずのユッグが逆にカッとなり、目の前のイルクに向かって挑むように一歩踏み出すと、ザアアッ!と突風が彼の背後から吹き上がり、イルクの後ろにいるノリコがびっくりして両手で髪を押さえた。
ハッと我に返ったユッグが、再び元の無邪気な笑顔に戻る。
「びっくりさせてごめんよ、ノリコ。はい、お詫びのしるし♡」
どこから出したのか、いつの間にかユッグは両腕に大量の白い花束を抱えていた。
「受け取ってよ、ノリコ。君にピッタリの花でしょ?」
差し出された花束に一瞬目を落とし、ノリコはただ黙って首を振った。
「−−−あーんな愛想のない男のことなんて忘れてさ、僕とずーっと一緒にいてくれたら、ノリコの欲しいもの、いつでもなんでも手に入れてあげるよ。綺麗なドレスも、宝石も、なんだって!」
間に立つイルクを無視して、ずいっと身を乗り出して無理にでも花束を手渡そうとするユッグを正面から見据え、ノリコは一層強く、ふるふると首を横に振った。
言っていることがわからなくても、ごまかされていることは明らかだ。
『イザークはどこ?』
会いたくて。会いたくて。
心配で、しかたない。
『お願い、教えて。イザークはどこ?無事なの?』
紅い瞳を見据えて、繰り返す。
「.....」
頑なな態度を崩さないノリコに、ユッグも苛立ちを覚えたのか、両手に抱えた花束を大袈裟にバンッと宙に放り投げた。
「ああっ、もうっ!!!」
急に大声を上げられて、ノリコがビクッと身を固くする。
「わっかんないかなー。あの男はもういないのっ!ノリコのところに戻ってきたりしない。だーれもいないところで、永遠に朽ち果てるまで眠ってもらうんだから」
「なっ...?!」
その言葉に、イルクが顔色を変えて身を乗り出した。
「まさか、イザークを眠らせたんじゃ....」
「−−−だとしたら?」
ふん、と傲慢な笑みを浮かべ、ユッグが腕を組む。
「見つけようとしたって無駄だよ。お前にだって見つからないように、ちゃーんと隠してきたんだから」
「なんてことを...!」
『−−−イザークに何があったの?!』
イルクの声のトーンだけで何か非常事態が起きていることを感じ取ったノリコが、真っ青になりながらイルクの前に立った。
『ねえ、教えて!』
懇願されて、けれどなんと答えて良いのかわからず、イルクがためらいの表情を見せる中、ユッグは面白そうにクスクスと笑いながらノリコの視線の先に立ち、後方に大きく広がる森を指差した。
「君の大事な大事な彼は、この森のどこかで眠っているよ。君のことなんか忘れて、ね」
『−−−−!!』
イザークの居場所が森の中であると咄嗟に気づき、考えるよりも先に、ノリコは森に向かって駆け出そうとした。
そのノリコの前に、両手を広げてユッグが立ちはだかる。
「−−−−おおっと!」
『!』
「ホント、あの男の記憶を失くしたのはいいとして、言葉までわからなくなったのは面倒だよねー。彼の居場所は、僕以外の誰にもわからないようにしてるんだってば。見つけられないの!わかる?探したって無駄なんだってば。無、駄!」
呆れたような、小馬鹿にしたような口調。身振り手振りで説明しようとするユッグに、イザークを探す手助けをする気は毛頭ないのだと気づいたノリコの表情が、キッときついものに変化する。
『−−−どいてっ!!』
お腹の底から声を出すように、思いきり、怒鳴りつける。
想像していなかったその大声に心底驚き、ユッグとイルク両人が同時に目をぱちくりさせてノリコを見た。
「な....」
「ノ、ノリコ?」
両の拳を握りしめ、仁王立ちになって。
わなわなと肩を震わせながら、ノリコが続ける。
『そこをどいてっ!あたしの邪魔をしないで!』
とにかく早くイザークに会いたい。見つけなくちゃいけない。
その気持ちが何より先に立ち、考えるよりも先に口が動いていた。
『あたし達は、離れてちゃ駄目なの!何度引き離されたって、必ず元に戻る!あたしとイザークは、いつもどんな時でも一緒にいなくちゃいけないの。それがあたし達の「約束」なの!』
一気にまくしたて、まだ呆気にとられてリアクションが取れずにいる精霊達の横を、ノリコは一気に走りぬけた。
そのまま、ユッグが指差した方角へ−−−−森の中へと駆けていく。
「....今、彼女、『約束』って言った?」
一瞬の間を置いてハッと我に返ったふたりは、呆然とした表情のまま、追いかけることも忘れてノリコの背を見送った。
だーっと日本語でまくしたてたノリコの言葉で、ユッグ達がわかったのは、『イザーク』と、そして『約束』の二言だけだ。
ノリコは、気づいていただろうか?
その単語を、この世界の言葉で話していたことに。
「約束って....なんのことだ?」
意味がわからず小首を傾げるユッグとは逆に、イルクは、ふっとどこか嬉しそうに微笑んで目を伏せた。
「−−−膜が破れかけてるのかもしれない」
そうなら、いいのに。
そうであってほしい。
祈るような気持ちで、イルクは、森へ向かって振り返りもせずに駆けていくノリコの背を見送った。
***************
<あとがき>
....今回、イザーク一度も出番なし。スミマセン。
最近、「彼方から」にどはまりしてこちらのサイトにたどり着きました!
返信削除原作のイメージを壊さず、ここまでストーリーを広げられて凄いです!!
続き楽しみにしております(*^▽^*)
こんにちは!
削除コメントありがとうございます。皆さんの、そして自分の原作のイメージを壊さないように頑張っていますので、そう言っていただけるととても嬉しいです。これからもマイペースで続けて行く予定ですので、是非御立ち寄りくださいませ。