『...イザーク?』
目覚めると、すぐそこにイザークの姿はなかった。
早朝の青白い明るさ。窓の外からはチュンチュンと小鳥の声が聞こえてくるが、がらんとした部屋の中は、しんと静まり帰っている。
地震が起きたあとの記憶がない。
朝、ということは、あのままずっと眠ってしまっていたのだろうか。
(.......)
『−−−−−!!』
しばらくは、寝台の上に身を起こしたままボーッとしていたノリコだったが、頭がはっきりしてくると同時に、まさか、とハッと我に返る。
『イザーク?!』
転がるようにベッドから起き上がり、衝立ての向こうの寝台を確かめる。
やはりそこにもイザークの姿はなかったが、整えられた寝台の上には、代わりに、彼の荷物がきちんと揃えて置かれていた。
荷物がある、ということは、置いていかれたのではない。
それを確認し、ノリコは衝立てに掴みかかった姿勢のまま、ほうっと深い安堵の溜息をついた。
(す、『刷り込み』されたヒヨコみたいよね、あたしってば....)
誰が見ていたわけでもないのだが、この世の終わりのように慌ててしまった自分の姿を思いだし、ノリコはひとり赤くなった。
そして。
(イザーク....)
地震の時に、庇うように抱きしめてくれた暖かい腕の感触を思いだし、そっと自分の二の腕をさする。
くせっ毛で茶色い自分とは違う、さらさらの漆黒の髪。
耳に心地よい、静かな低い声。
みつめてくる切れ長の瞳は、とても優しくて−−−−−。
(〜〜〜〜〜〜〜)
今度は、先程の羞恥とは違う意味で、ノリコはひとり頬を染めた。
あんな素敵な人が、自分の夫だなんて、どうしても信じられない。
けれど、記憶を失う前の自分が、どれほど彼を愛していただろうことは、なんとなく想像ができた。
記憶もなく、言葉もわからない状態でさえ、ほんの数日一緒に過ごしただけで、こんなにも心は彼を追いかけている。
彼がそばにいないというだけで、寂しさが募る。
目が、心が、彼を追い求める−−−−−。
『イザーク....』
言葉が通じないことが、こんなにももどかしいなんて。
思いだしたい。
本当に、彼が自分を妻として選んでくれたのだとしたら。
どんなふうに出会ったのだろう?
どんな話をしていたのだろう?
彼と過ごしてきただろう日々の記憶を、どんな小さなことも漏らさず思いだしたい。
再び言葉を話せるようになって、彼の思いを聞きたい。話をしたい。
早く、会いたい。
『...なんだか、ずるい』
ゆっくりと窓辺に立ち、窓越しに、今はもう雨もやんだ晴れた朝の空を見上げて、ノリコはポツリと呟いた。
『何も思いだせないのに...またイザークに恋してしまったなんて』
初めての、ように。
*********
「あー、やっぱり来たんだ」
気配を消すようなこともなく、ただ静かに桃忘花の木に歩み寄ってきた人影を見て、大振りの枝の上に腰掛けていたユッグが、わざとらしく大きな溜息をついてみせた。
「ノリコの記憶を戻す方法なんて知らないって、あのボーヤにも伝えたはずだけど?」
大樹の真下まで歩いてきたイザークは、まるでユッグの声が聞こえていないかのように、しげしげと観察するよに木の幹をみつめ、左手を添えた。
「−−−昨日の雨と地震で、だいぶ地盤が緩んでいるようだな」
「え?」
不意に呟かれた言葉に、ユッグが大きく目を見張った。思わず、木の上で身を乗り出す。
「何を言って...」
「これなら、簡単に押し倒せそうだ」
独り言のように呟きながら、イザークが、幹に添えた左手にぐっと力を込めて一押しした。それだけで、ほんのわずかだが木全体がしなり、昨日の雨の名残がパタパタと地面に降り注いだ。
イザークの言っている意味を理解して、ユッグの顔色がさっと変化する。
「わわわわわ!何言ってんの?!」
慌てて枝から飛び降り、ユッグはイザークの前に立った。
イザークが、正面からユッグの紅い瞳を見据える。
「−−−ノリコの記憶を戻せ。さもなくば、あんたの本体をこのままぶっ倒してやる」
「はあっ?!」
予測していなかった展開に、ユッグが愕然とした表情でイザークを見返した。
とんでもないことを言い出したぞ、この人間!
「何それ?!ありえないでしょ。大袈裟すぎだよ!たかが記憶喪失ぐらいで、何百年も生きてきた僕を殺すって言うの?!」
「......」
その問いには答えず、イザークはまっすぐにユッグを見据えたままだ。その顔に表情はなく、それが余計にイザークの真剣さを強調している。
『イザークを敵に回すのは、やめといたほうが良いと思うけどね』
昨日のイルクツーレの言葉が脳裏をかすめる。
「...もう、僕しか残ってないんだよ?僕が倒れたら、桃忘花の木はこの世界から絶滅するんだ」
言っても無駄とすでに理解していたものの、震える声で続ける。
その言葉にも眉ひとつ動かさず、イザークは幹に添えた左手にもう一度力を加えた。
「−−−ノリコの記憶を戻せ」
静かな声で、繰り返す。
こんな脅迫なんて、もちろんイザークのスタイルではない。たとえこれが最後の桃忘花の木ではなかったとしても、何かを得るためにほかの誰かの生命を危険に晒すことなど、本来なら決してしたくはないのに。
だが。
もう、なりふり構っている場合ではなかった。
ノリコを失うこと以上に怖いことなど、この世には、ない。
記憶がなくても、またやり直せば良い、と思ったのも事実。だが、彼女に触れることさえ適わず、想いを伝えることもできずに、ヘビの生殺しの状態で、一体どれぐらいの時間をこれから過ごさなければならないのか?
それを考えると、気が遠くなるようだ。
一度手に入れたものを失うのは、一度も手に入れずに我慢していた時とはまるで違う。
「俺は本気だ」
感情を抑えた静かな声。
彼よりも数十倍も長く生きてきた精霊でさえ、その声にはゾッとさせられた。
「そ、そんなこと言われても....」
この期に及んでもまだ首を縦に振らないユッグに苛立ちを覚え、イザークはくるりと身体ごと木に向かった。
そして、無言のまま、両手を幹について足を踏ん張る。
「ふん−−−−!!」
ぐん、と幹が大きく揺れ、イザークの足元で大きな根が張る地面がめりっと音を立てて盛り上がってきた。
「わああああーーーっ!!わかった!わかったから!!」
うわずった大声を上げ、ユッグがイザークの後ろで大きく両手を振った。
「降参します!ごめんなさい!だから、やめてっ!」
その声を背に受け、イザークがぴたりと動きを止め、ゆっくりと肩越しにユッグを振り返った。
「...ノリコの記憶を戻すんだな?」
「う、うん。あ、いや、僕が直接できるわけじゃないけど、失くした記憶を戻すことができる花の蜜があるんだ。その場所を教えるから、とにかくついてきて」
「−−−−−」
言い終わるが早いか、ユッグは、すぅーっと宙を滑って丘を降り、森の中へと向かいだした。
そんな花の蜜が本当にあるのか。
いきなり降って沸いたような解決策の提案は、もちろん鵜呑みにできるものではない。半信半疑で何か言いかけたイザークだったが、ものすごいスピードで進んでいくユッグを見失うわけにもいかず、すぐに後を追った。
ユッグの本体はここにあるのだ。その場限りの言い逃れなど意味はないのだと、精霊もわかっているはずだ。
********
昨日の雨が嘘のように、今日は良い天気になりそうだ。
木々の間から暖かい木洩れ陽がそこかしこに差し込む森の中は、人影もなく、鬱蒼としてはいたが、不穏な気配はまるでなく、視界も晴れている。
「.....」
跳ねるように地を蹴り、すぐ後ろを疾風のような速さで駆けてくるイザークを、宙を移動しながら、ユッグがちらり、と振り返った。
「あんた、ただの人間じゃないね」
イルクツーレが『大切な友達』と呼ぶ人間。
長く生きてくれば、いろんな人間を見ることもあり、その中にはいろんな『能力者』もいた。が、あの大樹を素手で押し倒そうとしたり、このスピードで自分についてこれる人間は、今まで見たことがない。
「前にあんた達に悪戯しようとした時にも感じてたんだけどさ。あんたって、何者なの?」
「−−−−−」
ユッグの問いには答えず、イザークは走り続ける。
他愛もない会話でごまかそうとしても無駄だ、と言われているようで、飛ぶスピードを緩めないまま、ユッグは諦めたように軽く肩をすくめた。
「.....」
桃忘花の木がある丘からは、すでにかなり遠ざかっている。
しかも、街道や村からはどんどん離れ、森の奥へ奥へと誘導されているようだ。
イザークは、ぴたり、と走るのやめた。
「−−−−?」
少し間を置いて、ユッグも止まる。
「どうしたんだい?あともう少しなのに」
立ち止まり、じっとこちらを見ているイザークのすぐそばまで戻って来て、淡い金の髪をした精霊は、無邪気な笑顔で小首を傾げた。
「−−−どこへ連れて行こうとしている?」
真顔のままで、イザークが静かに問いを返した。
随分と長い間走ってきたのに、呼吸は少しも乱れていない。
「その花の名を教えろ」
静かながらも疑心に満ちた口調に、一瞬目を伏せてから、ユッグがにこりと笑った。
「ごめん。僕も知らないよ。でも、すぐそこの崖の端に一輪だけ生えているんだ。ちょうどこの時期にしか花をつけないんだけどね」
言って、すっと右腕をあげ、右後方を指差す。
その指の動きを追ってイザークが顔を上げた、その、途端−−−−。
ザザザーーーッ!
どこからともなく突風が吹き抜けてきて、イザークの足元から渦を巻くように吹き上げた。その突風に散りばめられた、無数の薄紅色の花びら。
「−−−−!!」
しまった、とイザークが口元をおさえたが、時すでに遅し。
何が起きたのか把握する余裕もなく、イザークの身体がぐらり、とよろめいた。
「きさ..ま...」
全身の感覚が一瞬で失われてしまったかのように、身体の自由が効かない。まるで泥沼に首まで浸かっているようだ。
その上、どうしようもなく眠い。
(不覚−−−−!!)
がくん、と地面に膝をつく。
「馬鹿みたい。そんな都合の良い花、あるわけないでしょ」
クスクスクス、と空から降ってくる少年の無邪気な笑い声を聞きながら、どすん、と横向きに倒れたイザークは、気力だけを振りしぼり、なんとか仰向けになった。
鉛のように重い瞼が、自分の意志に関係なく、閉じられていく。
「ホント、彼女のこととなるとそんな簡単に冷静さを失うんだね。意外だなあ」
イザークの心中の葛藤などお構いなしに、ユッグが続ける。
そんな精霊を視線でだけでも射抜こうとするように、イザークは、かすんでくる頭をなんとか動かし、睨みつけようとした。
「.....」
何か言いかけるが、もう言葉にならない。
そのまま、抗いようのない睡魔に襲われて目を閉じ、イザークの意識はどんどんと深みへと沈みはじめた。
「このまま、ずーっと眠ってしまえばいい」
笑みを含んだ声が、聞こえる。
起き上がって、殴りつけてやりたいのに、身体が自由にならない自分への不甲斐なさに腹が立つ。
「彼女のことは心配しないで。君の代わりに、僕がずっと守ってあげるからね」
まるで子守唄でも歌うように、耳元で。
けれど指一本どころか、瞼さえ開けることは適わず、イザークの意識は、すーっと深い眠りの深淵へと落ちていった。
(ノリコ.....)
この精霊、けっこう悪だと思いますけど…(汗) もうこうなったら、精霊だろうが子供の姿だろうが、ノリコにフラれてしまえ…と思っちゃうのでした。(意地悪な感想ですみません)
返信削除イザークはどうなっちゃうんでしょう…イルクが助けてくれるといいんですが。ドキドキしながら続きを待ってます。
リョウさん、ご無沙汰しています。コメントありがとうございました。
削除悪...というか、結局子供なんですよ。叱ってくれる人も愛してくれる人もいずに、ずっと長い間自分だけで生きてきた、と思えば、そこまでねじ曲がってはいないかな、と。まあ、自分勝手になってしまったのは否めないですね。
頑張って続き書きまーす!