爽やかなそよ風が頬を撫ぜる。
グゼナ南部からヤンスクにかけて広がる森の中。イザークのすぐ横を歩いていたノリコが、ふと歩みを止め、聞き耳を立てるように背後を振り返った。
「....?」
ほぼ同時に、イザークも立ち止まり、ノリコを振り返る。
「イザーク、聞こえた?」
「ああ。子供の声だな」
途切れ途切れに聞こえてくるのは、幼い子供の泣き声。
「こんなところで...親とはぐれちゃったのかしら」
「妙だな」
ふたりが今いるのは、街道からも少し外れた、鬱蒼とした森の中の小道。旅人でさえほとんどいないこんなところに、親子連れが来るはずもなく、迷子がいるとも思えないのだが。
かといって、子供の声がふたりに聞こえているのは間違えようのない事実。
ほんの一瞬迷ったあと、イザークはそっとノリコの肩に手を置いた。
「俺がみてくる。ノリコはここを動くな。何かあったらすぐに俺を呼べ。いいな?」
「うん」
心配性のイザークの指示に、ノリコが素直にこくんと頷く。
それを確かめてから、イザークは肩にかけていた荷をノリコの足元に降ろしたあと、軽く地を蹴り、声が聞こえてくる方角へ向かって駆け出した。
*****
「.....」
おかしい。
常人よりかなり速いスピードで駆けているにも関わらず、泣き声までの距離が少しも縮まない。むしろ、イザークから逃げているかのように、同じ速度でまったく逆方向に向かって遠ざかっていくようだ。
「−−−−−−−」
嫌な、予感。
イザークがぴたりと立ち止まった。
「?」
荷物番をしながら、イザークが駆けていった方角を少し心配そうにみつめていたノリコが、フッと顔をあげた。
「あれ...?」
さっきとはまったくの逆方向から、同じような子供の泣き声が聞こえてくる。しかも、先程よりも近い場所からのような気がする。
どういうことだろう?
不思議に思いつつも、放っておくこともできない。
この場所を動くな、というイザークの指示に逆らうことにかなり躊躇し、何度もウロウロとその場を行き来したあと、ノリコは遂に意を決したように、変わらず泣き声のする方角に向かって歩きだした。
「あのぉー?誰かいますかー?」
低木の茂みをかきわけながら、声のするほうへと歩を進める。
しばらく行くと、すぐ目の前の茂みの端に、小さな人影がぽつんと立っているのが目に入った。
「あ....」
10歳ぐらいだろうか?
ふわふわの淡い金の髪をした少年?が、こちらに背を向け、両手を顔にあてて肩を震わせている。
(間違いない、あの子だ....!)
「君、大丈−−−−−」
少年に向かって思わず手を伸ばし、足を踏み出した途端−−−−−。
(−−−−−−−!?)
ガクンッと足元が突き抜けた感覚。ふっと一瞬身体が宙に浮いたかと思うと、ノリコは、そのままザザザザーーッと急な斜面を滑り落ちていった。
「〜〜〜〜〜〜〜?!!!」
茂みに隠れていて見えなかった崖から足を踏み外したんだ、とノリコが気づいたのは、言葉にならない声をあげて斜面を勢いよく滑り落ちて、地面に尻餅をついたあと、だった。
「あいたたたた....」
座り込んだままの姿勢で、頭に手を当てる。
落っこちてきたこの場所は、どうやらすり鉢状に三方が傾斜している窪地のようだった。
見上げてみると、さっきまで自分が立っていた場所は、崖と呼ぶほどの高さではないものの、とても自力で這い上がるには無理がある程度には高い場所だ。傾斜しているのでまっすぐ落下せずに済んだし、多少の擦り傷と尻餅以外には特に怪我もしなかったようなので、不幸中の幸いだろう。
「あーあ、やっちゃった....」
自分のおっちょこちょいさに呆れながら、ノリコはゆっくりと立ち上がり、スカートについた埃を払った。
またイザークに迷惑かけちゃうなあ...。
そこに。
クスクスクス....。
明るい笑い声が前方から聞こえ、ノリコはハッと顔をあげた。
「あ、君....!」
彼も一緒に落ちてしまったのだろうか。
すぐ目の前には、先ほど上で見かけた少年がこちらを見てまっすぐに立っていた。やわらかく淡い色の髪が印象的な、色白の美少年。全体的に色素が薄い感じだ。
しかも、とても不思議な、紅い瞳をしている−−−−−。
旅の途中とは思えない軽装で、荷物ひとつ持っていない。両手を背後で軽く組み、埃だらけになったノリコを見ながら楽しそうに笑っている。
一緒に崖を滑り落ちてきたにしては、ノリコとは対照的に小奇麗なままの少年の姿を疑問に思うよりも、先程までとは一転して彼が笑っていることにホッとして、ノリコも思わず笑顔になった。
「良かった、君は無事だったのね」
言って、少年に歩み寄る。
「どこも怪我はない?大丈夫?」
優しく問いかけるノリコに、少年はニッコリと天真爛漫な笑顔を向ける。
つられるようにへらっと笑ってしまったノリコだったが、すぐに、背後からガサリと茂みを掻き分けてくる音が聞こえることに気づいて、ハッと息を詰めた。
「....!!」
そのまま、咄嗟に少年を背後に庇いながら、茂みを振り返る。
茂みの中から現れたのは、大型の灰色熊の肩部分をいかつく二倍に膨らせたような体型で、全身を覆う毛がハリネズミのように硬化した姿をした、ノリコが見たことのない獣だった。
ふたりの姿を正面から見据えたその獣が、即座に警戒態勢に入り、毛を逆立たせ、グルルルル...と唸り声を上げはじめた。どうやら、彼の縄張りに踏み込んでしまったようだ。
ノリコの顔から、サーッと血の気が失せる。
それでも、少年を庇って仁王立ちになった姿勢は変えず、ノリコはぐっと両の手を握りしめた。
(く、熊みたいなもの、だよね...?山で熊に遭遇したら、どう対処するんだったっけ?)
飛びかかりそうな勢いの獣に背を向けて走ってはいけないことだけは辛うじて覚えていたので、そのままの姿勢で動かなかったものの、自分達よりはるかに大きな獣を前に、さすがに足元がガクガクと震えはじめた。
そんなノリコの様子を、状況を理解していないのか変わらず面白そうに背後からみつめていた少年が、ひょいと横から顔を出して見上げる。
「おねえさん?」
鈴を鳴らしたような、ひどく耳に心地よい声だった。
ちらり、と少年の顔を目だけで見返し、ノリコは、少年を安心させようと引きつった笑いを口元に浮かべた。
「だ、大丈夫。すぐに来てくれるからね」
「え?」
手足を震わせながら、精一杯の笑顔で。
ノリコの言葉に、初めて少年が意外そうな顔をした。
その時。
−−−−ダンッ!
少年を庇って立つノリコと、今にも飛びかからんとしている獣との間に、勢いよく黒い影が降り立った。
すらりとした長身の、黒髪の後ろ姿。
「イザーク!」
ノリコの嬉しそうな声。
腰の剣は抜かないまま、イザークは右手を軽く引き、掌に集中させた「気」を獣の鼻先に向かって放った。
ガウッ!!
かなり手加減されていたため、鼻先を弾かれた程度の痛みだっただろうが、突然のことに獣も驚き、短い鳴き声とともに一目散に元来た茂みの中への走り去ってしまった。
「ノリコ、大丈夫か?!」
振り返ったイザークが、ノリコの答えを待たずに素早くその肩を抱き寄せる。
飛び込むようにその腕と広い胸に包まれて、ノリコはホッと息をついた。
「うん、大丈夫。イザークが来てくれるってわかってたから」
イザークの背に両手を回しながら、安堵と一緒に幸福感に包まれる。
ああ、好きだなあ。
こんな時でさえ、イザークの腕の中は心地よい。
今は結婚もし、ずっと一緒にいると誓った仲であるにも関わらず、こうして抱きしめられると、まるで初めての時のように、イザークへの変わらぬときめきを覚える自分に、ノリコは少し照れくささを覚えた。
「あそこを動くなと言ったのに」
ノリコをしっかりと両腕で抱きしめたまま、イザークは少し怒ったような口調で言った。
「ご、ごめんなさい!動かないでおこうと思ってたんだけど、この子の泣き声が聞こえてきて−−−−」
「...この子?」
言いかけるノリコに、イザークがわずかに怪訝そうな声を返す。
「?」
この体勢ならば、自分の真後ろにいるはずの少年と顔を突き合わせているはずなのに、まるで自分が何を言っているのかわからないような口調のイザークを不思議に思い、ノリコは、イザークに腕を回したままでくいっと首をひねって背後を振り返った。
「いや、この子って言ったらもちろんこの子のことで−−−−」
だが、つい先程まで少年が立っていたはずの場所には、誰の姿もなかった。
三方を崖に囲まれた窪地の中にいるのは、自分とイザークのふたりだけ。
「−−−−−あれ?」
振り返った姿勢のまま、ノリコは、訳がわからず困惑に眉をへの字に曲げた。
********
「それにしても、なんだったのかなー、あれ?」
もう見失うまいとするかのように、しっかりとイザークに手を握られて歩きながら、ノリコがまだ納得いかない様子で呟いた。
「ほんっとにいたんだよ、男の子!こう、ふわっとした薄い金髪で、ちょっと変わった紅い目をしてて....」
「ノリコを疑っていはいない。心配するな」
ふたりとも泣き声を聞いたのだから、ノリコだけが幻影を見たとはイザークも思っていない。むしろ、ノリコが見たという少年の姿の『何か』にふたりとも惑わされたと考えるほうが妥当だ。
「邪悪な気がたちこめていたわけでもないし、ノリコに直接危害を与えようとしてはいなかったのだから、それほど気にする必要もないのかもしれない」
あの獣も、見た目は恐ろしげだが、気性は優しく滅多なことでは人を襲ったりすることはない。あの場に現れたのは本当に偶然のように思える。
「だが、俺とノリコを引き離そうとしていたのが気にかかるな」
泣き声を一方向から聞かせてイザークに追わせ、その後まったく逆方向から声を聞かせてノリコを誘導−−−意図的としか思えない。
「何が目的なのか...」
「あ、でも、あの子、そんな悪い存在には思えなかったんだよね。どっちかというと、ほら、イルクみたいな茶目っ気のある感じで。子供の無邪気な悪戯、みたいな....」
「子供の悪戯、ね...」
実際にその少年を見てはいないのでなんとも言えないが、確かに、そう思うほうが自然な気はする。
まだ少し心に納得のいかない思いがくすぶっていたものの、イザークは、ノリコの手を握る自分の左手に少し力を込めることで気分を変えた。
とにかく、この手を離しさえしなければいいのだ。
「わあ....」
それからしばらく山道を歩いて、やっとふたりは目的地に到着した。
小高い丘の上、木々の茂みが不意に途切れて急に視界が開けたふたりの目前に現れたのは、大人4−5人でも囲めそうにないような大樹と、その大きく広がった枝々にこれでもかといわばかりに咲き誇った無数の薄紅の花。
ノリコは一瞬、満開の桜の大木かと見間違えたが、よく見ると、元の世界でよく見た桜よりもそれぞれの花の花弁がはるかに大きく、どちらかというと蘭の花が大木に満開になっているような、そんな絢爛豪華な様だ。
しかも、花があまりにも大きく密度高く咲き誇っているせいか、緑の葉がまったく見えず、白ともピンクとも見える花だけが鈴生りになっている。まるで葉がすべて花の色に染まっているようだ。
こんな木は見たことがない。
「きれい....」
甘い桃のようなほのかな香りもする。
大樹の前に立ち、圧倒されて口をぽかんと開けながら、感動のあまり目をキラキラさせているノリコをそばでみつめ、イザークがフッと口元に笑みを浮かべる。
「−−−気に入ったみたいだな」
ノリコのこんな顔が見たいがために、連れてきた場所だった。
この地の守り神のように古くからあるというこの不思議な木のことを思い出し、ふたりの新たな旅の最初の目的地として選んだ甲斐があった。
「うん!」
こぼれるような笑顔で振り返り、ノリコが興奮した様子で言う。
「聞いてたとおりだったね!すっごくきれい....」
(ノリコ....)
−−−昨年の秋の終わり。
寒い北の地でふたりが失ったものはあまりにも大きく、グゼナに帰国し普段の生活に戻ったあとも、『希望』があるからこそ笑顔は絶えなかったものの、ノリコの笑顔に時折ふっと混じる翳り。
そんなノリコのそばをほとんど離れることなく冬を越し、穏やかな春が来て−−−イザークは、予定通りノリコを連れて、ふたりだけの旅に出た。
景色を変えること、ふたりだけの新しい思い出を作ることで、『希望』にだけ頼って生きるのではなく、ノリコの笑顔を再び光だけで満たしたかったのだ。
「連れてきてくれてありがとう、イザーク」
「......」
久しぶりに見る屈託のないその笑顔に、イザークは心救われるような思いを感じずにはいられない。知らず、自分も笑顔になる。
「それにしても大きな木だね...世界樹みたい」
「世界樹?」
「あ、ごめんなさい...。またやっちゃった」
不思議そうに繰り返したイザークに、ノリコがあちゃ、という顔になる。
「向こうの世界の伝説なの。いくつもある人間の世界や神の世界をつないでいるという、大きな大きな木。もちろん、伝説の世界樹に比べたら全然小さいんだろうけど、この木、今までで私が見たどの木よりも大きくて綺麗だから...」
独り言のように呟き、ノリコは、歩み寄った大樹の幹にそっと手を添えて背後のイザークを振り返った。
「ね。この木って、この土地の守護神みたいなものなんでしょ?名前なんてあるのかな?」
「名前?」
「ほら、白霧の森のイルクも、あの集落の皆に名前をもらったって言ってたじゃない?だから、この木にも近くの村の人が名前をつけてたりしないのかなって思って」
イルクの朝湯気の木よりも、この木はさらに幹が大きい。
長い長い時間をこの場所で過ごしてきたのだから、同じように名前があって、木の精霊が人の形をとっていても不思議ではないのに。
「さあ...。この木の存在は、周辺の土地では良く知られているが、名前があるというのは聞いたことがないな」
近くにはいくつか村があるが、街道沿いでもないし、この場所を訪れるには道無き道を辿ってくる必要がある。そのため、あまり村人が旅の途中でこの木を尋ねてくるようなこともないのかもしれない。
「そっか...」
呟いて、ノリコは再び幹に向かい、白と薄紅の混じった不思議な色の花が満開の木を仰ぎみた。
「世界樹は、ユッグドラシルとも言って...。でもこの木は世界を体現するほど大きいわけでもないだろうから、ミニ世界樹ってことで、略して『ユッグ』とか?」
ちょっと変な名前かな。
言って、てへへ、と笑うノリコの頭を、イザークはぽんぽん、と軽く叩いた。
「いいんじゃないか?」
にっこりと笑い、イザークは木の根元に腰を下ろした。
「良い場所だ。ここで食事をしていこう」
「うん!」
嬉しそうに、ノリコもイザークの傍らにぺたんと座りこんだ。
*****
「天気も良いし、なんだか眠くなるな」
景色を楽しみながら食事を終え、イザークが座ったまま大きく背伸びをした。
「だね。イザーク、昨夜あんまり寝てないでしょ。ちょっと昼寝する?」
「それを言ったらノリコもだろう。無理をさせたか?」
何も考えずに言った言葉だったが、しらっとイザークに言い返され、その言葉の意味をやっと理解し、ノリコがぼんっと真っ赤になった。
「あ、いえ、あの....」
急にしどろもどろになるノリコに、イザークが思わずプッと吹き出す。
「もおおおお!」
いつも通りの、やりとり。
いつも通りの、幸せなひととき。
ひとしきり笑った後、イザークは、まだ顔を真っ赤にしてふくれているノリコの膝の上に、自然な動きで頭を乗せて横になった。
「え...」
「−−−少し寝かせてくれ。確かに昨夜はあまり寝ていない。ノリコの寝顔をずっと見ていたからな」
「イ、イザークったら....」
初めてではないが、膝枕でイザークが昼寝をする機会などそう滅多にあるものではない。
ついドギマギ動揺してしまうノリコをよそに、イザークは静かに目を閉じ、そのまま眠ってしまったようだった。
(は、早....)
ノリコの膝に頭を乗せ、手足を伸ばして眠るその姿は、とても心地よさげだ。
甘い花の香りが、ノリコの心も和ませてくれる。
動揺も収まり、ノリコは、静かな寝息を立てはじめた端正なその顔を見下ろし、愛しげにそっと右手でイザークの髪を撫でた。
「おやすみなさい...」
どれぐらいそうしていたのだろう。
いつの間にか、ノリコも一緒に寝落ちしていたらしい。
ハッと目を覚まして顔をあげたノリコは、自分の膝の上で変わらず穏やかに眠っているイザークの寝顔を確認してホッと息をついた。
ふと。
顔をあげると、先程森の中で見失ったはずの紅い瞳の少年が、すぐそばにニコニコしながら立っていた。
「ああ−−−っ!!」
思わず指をさし、大声を上げてしまってから、ハッと口を抑えてイザークを見遣る。
その様子を眺めながら、少年はクスクスとおかしそうに笑った。
「大丈夫だよ。今の彼は、ひっぱたいたって目を覚まさないからさ」
「え?」
「僕の花の香り、良い匂いでしょ?花を乾燥させてお茶にすると、催眠効果もあるらしいよ」
「僕の...花?」
「そう。僕の花」
言われている意味がわからず怪訝そうに眉を寄せたノリコに、少年は、ふわりと宙を漂って近づいてきた。
「あ?!」
もしかして。
目を大きく見開いたノリコに、少年は、やっとわかったか、というような表情でにこりと笑った。
「そうだよ。僕は、この木の精霊。君が今、ユッグという名前をつけてくれた−−−−ね」
「え?え?え?」
寝起きのせいか、状況をうまく把握できない。
混乱しきった顔で目をぱちくりさせるノリコに、少年は宙に浮いたまま、両手を背後で組み、にっこりと笑う。
「僕さ、もうずいぶんと長い間、この土地でひとりなんだよ。だから退屈で退屈で−−−たまーにこの辺りに人間が近寄ってくると、ついつい悪戯しちゃうんだよね」
「え、それじゃあの子供の泣き声って、やっぱり....」
「そうそう。ま、あの熊の登場は、僕の想定外だったけどね。僕のこと追いかけてきて、あそこの崖から落っこちちゃった時の旅人の間抜けな顔を見るのが愉しくってさ」
「そ、それってちょっと趣味悪いんじゃ...」
「でも、ノリコは、あの熊から僕を守ろうなんてしてくれちゃったし、それにずっと名無しだった僕に名前までくれて−−−−今までに見てきた人間とはちょっと違うなあって、興味持っちゃった。しかも、僕が人間じゃないってわかっても、大して驚きもしないんだね」
「えっと、それはまあ....」
さすがに、この世界に来たばかりの頃に、夜中に初めてイルクに会った時には幽霊かと思って大騒ぎもしたが、この世界でもう何年も暮らして、色々非現実的なことも体験してきた今となっては、イルク以外の木の精霊が存在して、その精霊に話しかけられたぐらいではそれほど驚くこともなくなった。
「それにしても、あんな驚かし方、悪趣味だよ。下手したら大怪我しちゃったかもしれないのに」
「あー、それは大丈夫。あそこの崖はそんなに急じゃないし、今までだって、転げ落ちて泥だらけになったとか、足を挫いたとか、その程度の人しかいないよ」
そういう問題でもない気がするのだが....と思わないでもなかったが、何百年も生きてきた木の精霊に、人間の常識が通用すると思うほうがおかしいのかもしれない。
それにしても。
これだけ騒いでいるのに、イザークがまったく目を覚ます様子がないことのほうがおかしい。やはり、少年−−−ユッグが言った通り、花の催眠効果なのだろうか。
少年から危険を感じはしないが、少しは警戒するべきなのか。
どう対応するべきなのかわからず、ノリコは困ったように眉を寄せた。
「あたしに...何か用なの?」
「用っていうか...今、言ったでしょ?ノリコに興味があるだけだよ」
ふふふ、と無邪気な笑みを口元に浮かべ、ユッグはふわん、と宙で見えない椅子に座るような姿勢を取って足を組んだ。
「とにかく、僕は退屈してるんだ。ちょっと話し相手が欲しくなったんだよ」
「イザークに何もしてない?」
このまま目が覚めない、なんてことはないのだろうか。
少し不安になってきたノリコの言葉に、ユッグは軽く頭を振った。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと眠ってるだけだって」
「ホントに?」
「ホント、ホント」
うんうん、と大袈裟に頷いてみせて。
ユッグは、ノリコのすぐ目と鼻の先まで顔を寄せてきた。
「ノリコ、僕の話し相手になってよ」
「それは良いけど...」
「永遠に、だよ」
思わず頷きそうになったノリコは、ユッグの最後の言葉にハッと息を飲んだ。
「え?」
「僕、暇なんだよ。でも、ノリコが一緒にいてくれたら、きっと楽しそう。僕のそばにいてよ、ノリコ。永遠に」
「そんなの無理だよ」
「どうして?この姿が気に入らないんだったら、僕だって彼のようになってもいいよ。ほら−−−これなら、どお?」
言った途端、ざあーっと風が吹いて花びらが巻き上がったかと思うと、それまでそこにいたはずの少年の姿が、すらりとした長身の青年に早変わりしていた。
淡い金の髪は胸まで伸び、美しい顔立ちからは幼さが消え、やわらかく微笑む紅い瞳は吸い込まれるように魅力的だ。
「わあ...」
思わず感嘆の溜息を上げるノリコに、ユッグがしたり顔で笑う。
「ほら、これならノリコに釣り合うだろう?恋人同士って言っても全然おかしくない」
「そんな....」
「それに、永遠っていうのも嘘じゃないよ。僕と一緒にいてくれるなら、ノリコにも永遠の命をあげる。欲しいものは何でも手に入れてあげるし、ふたりとも若いままで、いつまでも一緒にこの森で楽しく暮らせるよ」
「ユッグ...」
話の焦点がそれていることに気づかずに続けるユッグに、ノリコは、しかたなさそうに軽く肩をすくめた。
「違うの」
「え?」
「見た目が釣り合うとか、永遠の命とか、そういうの、あたしにはなんの意味もないの」
膝の上で眠るイザークに視線を落とし、その前髪にそっと愛しげに指先で触れる。
「...あたしが欲しいのは、イザークだけなの。永遠の命なんて意味ない。イザークさえいれば、あたしは何もいらないの」
「ノリコ....」
「こんなこと、ユッグに言ってもしかたないけど....あたし達、本当にたくさんのことを一緒に経験してきたの。もう駄目だ、もう二度と会えないかもって思ったことも何度もあった。でも、それでも、どうしてもお互いの手を離すことだけはできなくて...」
ほんの数年の間に、『天上鬼』と『目覚め』として、いったいどれだけの苦難を乗り越えてきたことだろう。日本という異世界の国で、平凡な一高校生として過ごしていた日々のほうが、もう遠い夢のように感じる。この世界に来なかったら経験せずに済んだろう怖い体験もたくさんした。大事な家族や友達にも、きっともう会えない。
それでも。
そういったたくさんの苦難や寂しさと引き換えにしてもお釣りがくるほどの幸せを、イザークが与えてくれるのだ。
「イザークじゃなきゃ、駄目なの」
静かな、だが揺るぎのない声で、ノリコはまるでイザークに告げるように、その寝顔に向かって言葉を紡いだ。
「.....」
何をどう言ってもノリコを説得できはしないとやっと納得したのか、ユッグは、ふわっと地上に降り立ち、ノリコのすぐそばに膝をついた。
「ノリコは、本当に彼のことが好きなんだね」
その言葉に、顔をあげてユッグを同じ目の高さからみつめ、ノリコはどこか照れたように頬を染めながらこくりと頷いた。
「大好き」
幸せいっぱいの、満面の笑み。
ユッグは面白くなさそうに目を伏せ、ふうーっとやや大袈裟な溜息をついた。
姿はノリコよりやや年上の青年の姿のままだが、その仕草は先程までの少年のような子供っぽさが残る。
「あーあ!せーっかくこの僕が永遠の命をあげるって言ってるのに、この僕よりもこんな普通の人間のほうがいいなんてガッカリだよ」
「ごめんね。でも、ありがとう」
今度は、ノリコがクスクスと笑った。
その笑顔をじっとみつめ、ユッグがどこか真剣な顔になる。
「−−−ね。じゃ、きっぱり諦めるからさ。ひとつお願いを聞いてくれる?」
「え?」
「ノリコと出逢えた記念にさ、キスしてもいいかな?」
「ええええ〜〜っ??」
これにはさすがにノリコも焦って声を上げてしまった。
左手を口元に当てて真っ赤になるノリコに、ユッグがクスクスと愉しそうに笑う。
「大丈夫。おでこに、だよ。それならいいでしょ?」
そう言ったユッグの手には、頭上の木からひらりと落ちてきた薄紅の花が一輪。その花をノリコの左耳の上に飾りながら、ユッグはおねだりでもするように、軽く頭を傾げた。
「僕に名前をくれたノリコに、お礼も兼ねて」
甘い、桃のような香りが鼻腔をくすぐる。
その香りは、まるでお酒を飲んだときのように思考能力を低下させる。ふんわりとした幸せな気持ちに胸を占められながら、一瞬の躊躇ののち、ノリコは小さく頷いた。
「おでこ、なら...」
おでことはいえ、イザーク以外の男性にキスを求められるなんて初めてのことだ。
イザークが眠っていてくれて良かった。
ぼんやりする頭の片隅でそう考えながら、ノリコは頬が照れで朱に染まるのを感じた。
「ノリコってホントに可愛いね」
クスクスと笑い、花をノリコのこめかみに飾った手をそのままに、ユッグの顔がノリコの額に近づいてきた。
(うひゃーーーっ!)
やっぱり駄目!
ハッと我に返ったノリコが断ろうと手を上げかけたが、それよりも早く、ユッグのひんやりと冷たい唇がノリコの額に触れていた。
「−−−−−−−」
何か言おうとして開かれたノリコの唇が、そのまま、思考を停止したように凍りついた。
「−−−−−!!」
それまで自分をふんわりと包んでいた心地よい浮遊感とは対照的に、しっかりと握りしめていた糸が切れて宙に投げ出されたような感覚に不意に襲われ、イザークがハッと目を覚ました。
同時に両手をついて上半身を跳ね起こす。
「?!」
胸騒ぎ−−−嫌な予感。
考えるよりも先にまずノリコの姿を目で探し、すぐそばにいることを確かめて安堵する。
が、自分に膝を貸した姿勢のままで凍りついたように動かない彼女と、その前に膝まづいて額に口づけている青年の姿を確認した途端、カッと目を見開き、青年に掴みかかる。
「貴様、何を...!」
だが、掴みかかった腕は青年の肩を霞のようにすり抜け、同時に振り返った青年は、ふわりと身軽な動きで後方に飛び退いた。
今にも飛びかかろうと腰を浮かしたイザークから少し距離を置いた位置に、地面からほんのわずかに浮いた状態で立つ。
クスクスクス...。
「お前は....」
人間ではないことは確かだ。
淡い金の髪に、紅い瞳−−−−頭に浮かぶのは、先程ノリコが森の中で見たという少年のこと。
ノリコが言っていた少年よりもだいぶ年上に見えるが、その容姿はノリコが説明していた彼そのものだ。
「俺達を森で惑わしたのもお前か」
「惑わしたなんて、ひどいなー。ちょっとした遊び心じゃないか」
イザークが纏った鋭い気を和らげるためか、明るい口調とともに、ユッグの姿がその場ですーっと元の少年の姿に戻った。
「ノリコのことが気に入ったんだ。僕に名前までくれた初めての人間だ」
にっこりと、無邪気に−−−いや、善悪の違いがわからない子供のような顔で、気が遠くなるような歳月をひとり生きてきた木の精霊が微笑む。
「だから、ずっと僕のそばにいてほしいってお願いしたんだけど、彼女の心は君のことだけでいっぱいだったからさ。悔しいから、君の記憶をそっくり消してあげたんだよ。そしたら、僕と一緒にいてくれるんじゃないかなって思って」
言っている意味がわかっているのか。
彼の口調が愉しげであればあるほど、その残酷さにゾッとする思いで、イザークは愕然と目を見張った。
「何を言って...」
呟いたイザークの背後で、ノリコが、ハッと我に返ったように身動きした。
パチパチと瞬きした後、これ以上はないというほど大きく目を見張り−−−キョロキョロと周囲を見回す。
『−−−−ここ、どこ?』
背後から聞こえてきたノリコの言葉に、イザークの肩がびくりと震えた。
嫌な予感に身体を強ばらせ、恐る恐る、振り返る。
「ノリコ...?」
名を呼ばれ、まるで、自分が彼女の名前を知っていたことに驚いたかのようにビクッと身を震わせる。
大きく目を見張って自分を凝視するその姿と、彼女が口にした異世界の言葉に、イザークは、足元からじわじわと不安の影が這い上ってくるのを感じて両手を握りしめた。
MBirdさまこんばんは。初コメ失礼します。リョウと申します。
返信削除迷い子の続きが気になって気になってどうしようもなくて…(催促するつもりではないんですけど、早く読みたいな~なんて。催促してますよね。すみません)
今までのエピソードを繰り返し読ませてただきながら、新しいお話の続きを期待する毎日です。待ちどおしくてコメントしちゃいました。
失礼しました(汗)
リョウさん、
削除コメントありがとうございます。ううう。か、書いてます...。
ただ、ここ2ヶ月ほど、本業のほうが非常に忙しく、書く暇がありませんでした。先週末でやっと山場を乗り越え、書く精神的・時間的余裕ができてきましたので、また書きはじめております。近いうちにアップできるように頑張りますぅ....汗
お忙しいのだろうと思いながら、つい…(汗)
削除ほんと、すみません。お身体には気をつけてくださいね。
楽しみにしてます(^^)