1/01/2015

氷の鏡 第12章

「優勝−−−ザーゴ国代表、イザーク・キア・タージ選手!」

紅葉の色も濃く、大地には落ち葉が広がり、そろそろ秋の終わりが訪れようとしている。首都のすぐそばの森の中−−−大きく切り開かれた広場の中央に設置された仮設闘技場に、進行役男性の良く通る声が響き渡った。


円形闘技場を囲むスタジアム式の観客席から、わっと一斉に歓声が上がる。


闘技場の中央に立つのは、個人戦決勝の相手だったバラゴの剣を弾き飛ばして勝利を収めたばかりの、イザークの姿。


通常の闘技会で着るような身軽で動きやすい服ではなく、派手な金の縁取りがされた礼服のような、形ばかりの戦闘服を着せられているせいか、本人は非常に不満そうだが、その端正な容姿にぴったりの絵になる勇姿に、一般観客席の女性陣からは溜息が漏れる。


『ザーゴ国の美しい警備隊長』の噂は、ザーゴ国使節団が到着した直後から王侯貴族達の間で噂にはなっていたが、今回の闘技会には、歓迎の宴でその姿を見ることがなかった貴族以外のより幅広い層の一般客も訪れている。こうした公の場でイザークの姿を見るのが初めての者も多くいた。


こうして、その場にいたすべての人間に、『イザーク』の姿は強く印象に残ることになった−−−ネッサの、思惑どおりに。


「−−−−団体戦優勝のザーゴ代表チーム、ならびに個人戦優勝のイザーク選手には、国王より祝福のお言葉があります」


進行役の言葉に、それまで隅に控えていたアゴル、バーナダムのふたりも、イザークとバラゴのそばに歩み寄ってきた。4人の選手達に、観客席からどっと歓声と拍手の渦が巻き起こる。


「−−−−−−」


それがまるで他人事のように、まったく意に介さない様子のまま、イザークは手にしていた剣を鞘に納め、観客席の中でもひときわ見通しが良く、高い位置に設置されている王族用の席に目をやった。


そこには、タルメンソン国王一家と、今回の会の主賓であるザーゴ国第二王子のガールが4人並んで座っていた。そのすぐ後ろの来賓席には、リヤッカ、ロンタルナ、コーリキ、そしてガールの好意により、ジーナハースの姿もある。


『ジーナ』は、まっすぐにイザークを見下ろし、満足げに微笑んでいる。


「......」


無言のまま少女をみつめ返し、イザークは昨夜のシュラクとの会話を思い出していた。


***


「どうすればいい?」


『ほんの一瞬で良いんです。彼女が、本来の自分を思い出してさえくれれば−−−−』


それが可能かどうかもわからないまま、シュラクは哀しそうに瞳を伏せた。


『私の姿を一瞬でもその目に映してもらうことができれば、彼女の心に光を差し込めるかもしれない。闇を、拭えるかもしれない....』


どんなにその闇が深くとも、そこに一筋の光を差し込むことができれば、救えるかもしれない。その、心を。


***


(−−−−ほんの、一瞬で.....)


できる、だろうか。


ジーナの菫色の瞳の奥に見えるのは、これまでに見た誰よりも濃い闇に包まれたネッサの心。その心に光を差し込むことなど、到底不可能なことのように思える。


無表情のままジーナを見上げていたイザークは、周囲のざわめきに気づいて、ふっと意識を中央席に立ち上がっている国王に戻した。


「−−−なお慣例として、闘技会の優勝者には、我がタルメンソンの至宝であるサーリヤから、祝福のキスを褒美として与えることになっておる。イザーク殿、こちらへ」


タルメンソン自慢の美姫とこの戦士では、あまりにもお似合いではないか。


国王の穏やかな声に、周りからもまた歓声があがった。隣に立つバラゴも、思わずニヤリと口元を緩めている。


国王のすぐ隣に座り、どこか固い表情のままこちらを見下ろしているサーリヤと、その傍らで、なんとも複雑な顔をしているガールをちらりと見遣り、イザークはかすかに溜息をついた。


面倒だ。


なぜどこの国も、王族というのはこうもお気楽なのだろう。

余興だとはわかっていつつも、思わず呆れてしまう。こんなお遊びに付き合っている余裕は、こっちにはないというのに。

「断る」


こういう場面では、饒舌なアレフがそばにいないことが悔やまれる。


ついいつもの調子で冷ややかに突っぱねてしまったあと、周囲のざわめきと、来賓席で思わず立ち上がって鬼の形相になったリヤッカを見、やはりこれはまずいだろうと思い直したイザークは、やや気まずそうに顔をしかめてから、改めて国王を見上げた。


「−−−せっかくのお言葉だが、今回の勝利はあくまでもザーゴ国代表として得たものだ。俺達は、ガール王子のために戦った。その俺達に対する褒美であれば、王子が受け取るのが道理だ」


淡々と、告げる。


その言葉に、サーリヤはほんの一瞬だけ目を見張ったものの、イザークがきっとそう言うであろうと予測していたかのように、すぐにふわりと穏やかな作り笑いを口元に浮かべた。


「−−−お父様。イザーク様には、新婚の奥様がいらっしゃるのだもの。たとえ座興とはいえ、当然だわ」


言って立ち上がり、すぐ隣の席に座っているガールを振り返る。


「それでは....」


「−−−−待ってください」


微笑んでかがみかけたサーリヤを、ガールが、彼にしてはひどく珍しい、確固たる態度で遮った。


「....ガール様?」


「褒美なら、自分自身で勝ち取ったものしか要りません。姫のキスは、午後の狩猟の会で私が優勝を収めた際にいただきます」


見上げてくる、どこか挑戦的な瞳。その言葉に、サーリヤが今度こそ驚いた様子で目を見張った。穏やかな春のこもれ陽のようだとばかり思っていたこの青年に、こんな一面があったなんて。


当代一の美姫からのキスを二度に渡って断るザーゴ国の男達に、周囲の人間は少なからず困惑の表情を見せていたが、当のサーリヤは、どこか嬉しそうに微笑んだまま、こくんと頷き、静かに着席した。

ヒュウ。


両手を頭の後ろで組んで様子を伺っていたバラゴが、軽く口笛を吹く。


「王子も、やるなぁー」


事の成り行きをハラハラしながら見守っていたバーナダムが、頭を軽く掻きながら感心したように呟いた。



********


「一同、用意!」


闘技場の中央には、それぞれ馬に乗った数十人の着飾った貴族階級の参加者達が、1カ所だけ開放されているゲートのほうに向かい、スタートの合図を待っている。その場の高揚した雰囲気に、馬達も勇んでいる様子だ。


本日のメインイベントである、狩猟の会が始まろうとしていた。


ルールは簡単。


参加者達が闘技場をスタートする直前に、タルメンソンでも珍獣とされている純白の三つ目狐が数匹、森に放たれる。この三つ目狐を射止めて誰よりも早く闘技場まで戻ってきた者が優勝、となるのだ。


ただし、この子犬ほどの小さなサイズの三つ目狐は、緑の森の中では目立つ毛色をしているとはいえ、非常にすばしこいだけでなく、木に登ったり水に潜ることも得意なため、なかなか見つけることさえ難しい。参加者の数に合わせて複数匹が放たれるが、勝者が決まるまでは数刻かかるのが常らしかった。


「−−−−出発!」


進行役の合図に合わせ、競技場の四方から角笛が吹かれる。と同時に、馬達が一斉にゲートに向けて駆け出した。


「ハッ!」


土煙を上げながら、矢のように馬達が駆けていく。その先陣を切ったグループには、ガールを先頭に、ザーゴ国使節団の一同が含まれていた。ゲートを抜けた途端、各々森の違った方向に向かって散っていく。


深い緑の常緑樹がメインだが、鮮やかな朱色や赤に染まった木々も多い。落ち葉が道を埋め尽くし、駆け抜けていく馬達に踏まれて乾いた音を立てる。


秋の紅葉が素敵だと言っていたノリコの笑顔を思い出しながら、イザークは無言で馬を駆った。




「いやあ、でもびっくりしましたよ、王子!珍しくやる気満々じゃないですか」


ガールに並んで馬を駆りながら、バーナダムが心底感心した様子で声をかけた。

その反対側に並んでいるコーリキとロンタルナ兄弟も、うんうん、と揃って頷いている。

「恋の力は強力だな」


「サーリヤ姫のキスがかかってるもんなー」


「いや、でも、どうせふたりは結婚するんでしょ?そうムキになって今キスしてもらわなくても....」


「馬鹿だな、そういう問題じゃないだろ、バーナダム。ガールの婚約者としての沽券がかかってるのさ」


「.....」


笑みを含んだ友人達の言葉にも動じることなく、ガールはまっすぐに前を向いたまま、馬を駆り続ける。すでに地理の点でタルメンソンの参加者には遅れをとっているのだ。冗談を言っている余裕はない。


−−−−恋をするということが、自分をこんなにも摯実にさせるとは。


急に国王という重責を負うことになった父の余計な重荷にはなるまいと、何事もそつなくこなしつつ、特に何かひとつに固執することなどなく、穏やかな人生を送っていたはずの自分が、ただひとりの女性を相手にここまで執着心を見せることができるなんて。


当のガール自身が、なによりその変化に戸惑っていた。


だが嫌な変化ではない。むしろ、心地よい−−−−。


ガールの口元に、かすかに笑みが浮かんだ。


「−−−−ハッ!」


踵で馬腹を軽打し、ガールは馬のスピードを上げた。



***


しばらく走った一同は、細流のすぐわきの窪地まで来て、馬を止めた。

先程から追ってきていた白い獣の姿は、またどこかへ消えてしまっていた。

「......」


急に停止したことでまだ勇んでいる馬達を、手綱を控えて背を伸ばし、馬腹を両足で圧迫しながら落ち着かせつつ、一同は周囲を見回した。どこだ?


「−−−−にしても、無抵抗の小動物を娯楽のために殺めるってえのは、あんまり俺の趣味じゃねえなあ」


グループの後ろについたバラゴがひとりごちると、そのすぐそばにいたアゴルも、軽く肩をすくめた。そのアゴルの前には、本来であれば闘技場で待っているべきのジーナも乗っている。イザークが『契約』を果たす様を近くから見たいという思いで、アゴルに無理を言って同乗させてもらっていた。

「......」


アゴルに並んで馬を止めたイザークは、狩りがスタートして以来、無言のままだ。

その横顔をちらりと見遣り、『ジーナ』が口元をにやりと歪めた。

「−−−三つ目狐は、追われると水に潜って臭いを消そうとするの。でも、本来そんなに水が好きではないから、まずは川の近くに隠れて追っ手の様子を探る。そして、必要であると判断したらはじめて水に飛び込むから、きっと今は、この近くでこっちの様子を伺ってるはずよ」


油断、したのだろうか。


土地の者しか知らないであろう三つ目狐の習性をすらりと口にしたジーナを、一同が一斉にハッと振り返った。


「へ、へえ、ジーナ、物知りだなあ〜」


最初に声をあげたのは、バーナダム。アゴルは、動揺を押し隠し、無言で愛娘の髪を後ろから撫でた。


その、やや張りつめた雰囲気に気づかないネッサではない。無言のまま、少女はスッと目を細めた。


と。


「−−−−さすが占者ジーナハースだな。それも占いでわかったのかい?」


一同の中で唯一『事情』を知らないガールが、手綱を引いて馬を回転させながら、感心した様子で言った。


「いや、だが君の力は占石がないと発揮されないと聞いていたが....昨夜のうちに占っておいてくれたのかな」


まだ周囲の気配を伺いながら、何気なくガールが呟いた言葉に、今度は、ネッサだけでなく、アゴルやイザーク達も無言で目を見張った。


ピン、と空気が張りつめる。


「占石.....」


呟いたのは、ネッサ。


ゆっくりと頭をもたげ、少女は、視えないはずの目で、背後のアゴルを振り返った。


「−−−−お父さん、占石、どうしたっけ?」


「あ、いや....」


神殿から初めて城に戻った晩−−−−就寝前に時折占石を取り出して、その日あったことを亡き母に話しかける習慣があるジーナに、アゴルは占石の入った小さな巾着袋をいつものように手渡した。が、『これ、なあに?』と問われた瞬間、アゴルは、目の前にいる少女が自分の娘ではないことを確信してしまった。


咄嗟に、それが彼女の亡き母の形見であることだけを冗談めかしに伝えた。『どうしたんだい、そんなことも忘れたのかい?』と。それが、ジーナの真の力を発揮させてくれる占石であることには触れず。


以来、占石をジーナの手に渡すことは意図的に避けてきている。

それを、ネッサは瞬時に悟ってしまった−−−すべて。

「......」


アゴルが、ごくりと生唾を飲んだ。


その緊張した顔を見返すジーナの菫色の瞳は、本来は盲目の者らしく、どこか虚ろで焦点が合っていない。が、自分をじっとみつめてくるその瞳に、何か別の、鋭い漆黒の闇がゆっくりと浮かび上がってくるのを、アゴルは身動きできずにみつめていた。


「そういうこと、か....」


アゴルの目を通して、事の成り行きを完全に理解したかのように、ネッサが低く呟く。


「ジーナ....」


愕然と呟いたアゴルに、ネッサは、にやりと邪悪な笑みを見せた。


「−−−−大丈夫よ、『お父さん』。あなたはあたしが守ってあげる。これから、ずっとずっと長い時間を一緒に過ごすのだもの」


「な....」


「−−−−−そこだ!」


言いかけたアゴルの声にかぶさるように、ガールがハッと身体ごと向きを変え、素早く構えた弓から、細流の向かい側にある小さな茂みに向かって矢を放った。


シュン、と鋭く空気を裂き、矢が茂みの向こうに消えるのと、キャンッ!と短い獣の悲鳴があがるのがほぼ同時だった。


「王子、やった!」


ジーナのことも一瞬忘れ、バーナダム、ロンタルナ、コーリキの3人が一斉にワッと歓声を上げた。


「さすが!お前、昔から弓矢だけは誰にも負けなかったもんなー」


「剣技は駄目でも、何かひとつぐらいは得意なものがないと、ね」


答えるガールの声も、どこか弾んでいる。


馬ごと浅瀬を飛び越えて茂みに近づき、馬を降りて獲物を探す。茂みに分け入って、矢に射抜かれて事切れた三つ目狐の身体を持ち上げて、ガールは得意げに一同を振り返った。


おおっ、とガールの昔からの馴染み達が歓声を上げる中、イザーク、バラゴ、そしてアゴルの3人は、蛇に睨まれた蛙のように、アゴルの前に座っているジーナをみつめたまま身動きできない。


「−−−−−イザーク」


子供のように嬉しそうな笑顔を浮かべている対岸のガールを、まるで仮面のような冷たい無表情でみつめたまま、『ジーナ』がぽつりと言った。


馬の手綱を意味もなく握りしめたまま、全身に緊張を漲らせたイザークが口の端をキュッと結んだ。


敵の次の動きが見えない−−−−。


『−−−−イザークっ!!』


ネッサが言葉をつなぐよりも早く、頭上から、切羽詰まった少年の声が降ってきた。


緊迫の糸がぷつりと切れ、イザーク達がハッと頭上を仰ぐと、それまではネッサの目を避けて一同から距離を置いて姿を隠していたはずのイルクツーレが、宙に浮いたまま、必死の形相で闘技場のある方角を指差していた。


「イルク?!」


『イザーク!大変だよ!早く戻って!!』


その言葉に、イザークがバッと勢いよくネッサを振り返ると、まだガールがいる方向に顔を向けたままだった少女が、口の端をにぃっと歪めながら、ゆっくりと振り返った。


「...そなたがなかなか動かぬから、少しお膳立てしてやったまで。これで少しは『天上鬼』も動きやすかろう」


無垢な少女の面影はすべて払拭され、そこに残っているのは、闇に飲み込まれてしまった魂の残像のみ。腹の底から沸き上がってくる怒りに肩をいからせながら、イザークはギッとネッサを睨み返した。


「−−−−早くせぬと、そなたの出番はなくなるやもしれぬぞ」


イザークの怒りなど意にも介さないかのように不敵に微笑み、少女の姿が、馬上からすぅっと掻き消えた。


「ジーナ?!」


腕の中から娘の温もりが不意に消え去り、アゴルが愕然と声を上げる。


「......!!」


その行き先は分かっている−−−−クッと小さく唸り、イザークは、素早く手綱を引いて馬を方向転換させ、馬腹を踵で蹴って駆け出した。その馬を先導するかのように、イルクも宙を滑っていく。


状況を完全に把握できていないまま、ただならぬ事態が発生したことだけは悟り、青ざめたアゴル、そしてバラゴ達もすぐに後を追った。



****


「わああああああああっ!」


何が起こったのか、すぐに分かった者はいなかっただろう。


最初は地震かと思われた重い地響きに続き、激しく足元の地面が揺れたかと思うと、闘技場の中央の地面にめりめりと亀裂が入り、大きく盛り上がった土塊の中から、人間の倍はあろうかと思われる巨大な赤茶色の地虫達が次から次へと飛び出してきたのだ。


ムカデの胴を短くし、蜘蛛のような長い10本の足をつけたような姿の地虫達は、本来は光を嫌い、冷たく湿った山奥の年中日陰になった場所にしか生息しない。しかもそのサイズは大きいものでも子猫程度で、獣の死骸や虫の幼虫などを餌にするため、人間を襲うことなどないはずなのに。


凍りついた神殿で目覚めたネッサの魂により、『魔の種』を植え付けられ、邪気が集結して巨大化した虫達−−−−。


まるで血に狂った化け物のように、尋常ではないサイズの地虫達は、狩猟の会の参加者達が獲物をしとめて戻ってくるのを待っていた観客達に容赦なく襲いかかった。


パニックに陥り、逃げ惑う群衆。

予測もしていなかった事態に、元々手薄だった警備の兵士達も対応しきれない。



「−−−姫!こちらですっ!」


暴れ回る地虫達に、簡素な作りの観客席はどんどん破壊されていく。


とにかく、まずは国王夫妻とサーリヤを安全な場所へ移すのが最優先だ。素早く国王夫妻を囲んで移動を始めた近衛兵達が、目の前で繰り広げられる惨事に愕然として立ちつくしているサーリヤに手を差し伸べながら大声で呼びかけた。近くにいたリヤッカも、補助しようと歩み寄ろうとする。


「サーリヤ様、手を!」


途端、隣のセクションの観客席を支えていた支柱の一本がなぎ倒され、彼等とサーリヤの間の床がすっぽり抜けてしまった。ぐらりと足元が揺れてふらつき、サーリヤは近くの柱に両手をついてバランスを取り戻したが、逃げ道は断たれてしまった。兵士達の位置からは、到底サーリヤには手が届かない。


「姫様!」


「私は大丈夫です!早くお父様達の避難を!」


「す、すぐに支援隊を送ります−−−−−」


このままでは全員駄目になってしまう。仕方なく国王夫妻とリヤッカを連れて、近衛兵達が退却を始める。その様子を見送ってホッと安堵の溜息をつき、ふと顔を上げて闘技場のほうを見遣ったサーリヤは、つい先程までは誰もいなかった、場内を見下ろせる細い手すりの上に立つ少女の姿をみつけてハッと息を飲んだ。


大混乱の中、人々が悲鳴をあげて逃げ惑う様を、まるで愉しい催し物でも見ているかのように見守っている。


「あなたは....!!」


その姿は、ノリコと一緒に王家の間へ迷い込んできた、あの幼い盲目の占者に間違いない。


が、周囲の喧騒など耳に入っていないかのように、口元に微笑を浮かべたままこちらに一瞥を投げた少女の顔は、まるで別人のように冷ややかだった。


「......」


ああ、とサーリヤは心中で嘆いた。


昨夜イザークから伝えられたことは、やはり真実だったのだ。



「−−−やめて!やめさせてくださいっ!!」


不安定なはずの手すりの上にふらつきもせず器用に立ち、眼下で逃げ惑う人々の姿を愉しげに口元に笑みを浮かべて見ている『ジーナ』に、サーリヤは悲痛な声で叫びかけた。


そんなサーリヤを再び振り返り、ネッサがにやりと笑う。


「ほお....そなたも、か」


その冷ややかな言葉よりも、圧倒的な威圧感を与えてくる幼い少女の笑顔の向こうに見える闇に畏怖し、サーリヤは、柱に寄り添ったままぐっと息を飲んだ。自分の半分も年のはがいかない少女を相手に、どうしようもなく足が震えた。


が、思い直したように勇気を振り絞り、もう一度『ジーナ』を見返す。


「−−−−イザーク様に教えていただきました。ネッサ大叔母様−−−どうか....!」


罪のない人達を。助けて。


懇願するサーリヤを見下ろしたまま、ネッサはスッと目を細めた。

どこか、遠い目をして。

「....そなたは、本当によく似ている」


あの、カイヤーナに。


同じ母から生まれ、同じ顔かたちをしているにも関わらず、その髪と瞳の色のためだけに、自分とはまったく異なる人生を得た、我が妹。なんの苦労も知らず、自分の分も両親の愛情を一身に受けていた、忌まわしき妹−−−−−。


「−−−幸運な娘。自分を包む幸せがいかに身勝手で傲慢なものであるかさえ気づかず、周囲の闇など見ようともしなかった、幸運で愚かな妹−−−−」


まだ世間の闇などお互いにまるで見えていなかった幼い頃は、ほんの少しでも離れていると不安になるほど、常に一緒にいた妹。


誰よりも大切で、言葉にしなくともお互いに分かり合えていたはずの血肉をわけた半身が、手の届かない場所へ消えてしまったのは、一体いつ頃からだったろう?暗く冷たい神殿へ連れ去られた自分を、二度と会えない場所へ引き離された自分を、彼女は少しでも偲ぶことがあったのだろうか?


「幸せで身勝手な−−−カイヤーナ.....」


「−−−−違います!」


どこか遠い目をして呟いたネッサを、サーリヤの叫びが引き戻した。


「それは違う!大祖母様は−−−カイヤーナ姫は、愚かではなかった!幸せに盲目ではなかった!彼女は、あなたのためにこの国を変えたんです!」


その言葉に、ネッサは嘲るようにクッと喉を鳴らした。


「戯れ言を....」


「嘘ではありません!−−−あなたの命を奪った父王を、カイヤーナ姫は赦さなかった。あなたの最期の呪言に恐怖し、気がふれてしまった王を退位させ、彼女は若くしてこの国の王位に就いたのです。そして、彼女が守りきれなかった姉姫のために、この国の体制を根本から変えようと努力なさったんです!」


それまで閉鎖的だったタルメンソンを積極的に開国し、黒髪・黒眼の者を忌み嫌う因習を徹底的に打破したのも、実は女王となったカイヤーナだった。


月日が経つにつれ、その史実は城の奥深くに眠る記録に残るのみで、人々の記憶からは薄れて消えていった。百年以上の歳月が流れた今、その哀しい過去は、事実とは異なる形で、王家の悲恋物語としてだけ語り継がれていた。


誰もが、ネッサの悲哀を知らなかった。

誰もが、カイヤーナの後悔を忘れてしまった。

「すべては...あなたのためだったんです」


国民の記憶からは消えてしまった真実は、けれど王家の娘達には、カイヤーナの日記として引き継がれていた−−−−カイヤーナからその子へ、そしてその子へ、と。


だが、平和な時代に生きる者達は、未来への教訓として読むべき日記を、ただの遺産として次の世代に引き継ぐのみで、実際に読むことはなくなっていった。


サーリヤ自身もそうだった。16の時に父王より託されたその日記は、一度も読まれることなく、部屋の奥にしまわれたままになっていた。


昨夜遅くイザークが寝所を訪れ、今この国に起ころうとしていることを知らされ、カイヤーナとネッサについて何か少しでも情報が得られないかと尋ねられるまでは。


半信半疑のまま、初めてカイヤーナの日記に目を通したサーリヤは、自分がこれまで信じていたものが、実は『真実』とは大きくかけ離れていたことに驚愕した。


そして、カイヤーナの深い悲しみや後悔を、今日初めて、ネッサの深い闇に沈んだ瞳を見た瞬間に、身に染みて感じた。


「−−−『王家の間』の肖像画は、即位後にカイヤーナ姫が描かせ、間の中央に飾ったのです。あなたの存在をなきものにしないために。あなたと双子として育った日々を忘れないように。間違った過去への戒めとして−−−−−」


「世迷い言をだらだらと....!」


カイヤーナの思いが少しでも届けば、と切実な思いで告げたサーリヤだったが、その思いはネッサの心に届くどころか、逆に彼女の怒りに油を注いだ形となった。


冷ややかな眼差しが、さらに鋭くなる。手すりから音も立てずに跳躍し、ネッサはサーリヤのすぐ横に降り立った。


「.....!」


咄嗟に逃げようと背を向けたサーリヤの絹のように艶やかな髪を、ネッサはまるで雑草でも引き抜くかのように無造作に鷲掴みにした。


「ああっ....!」


幼い少女の手とも思えないもの凄い力で髪を引っぱられてのけぞり、サーリヤは床に横倒しになった。


「何も知らぬ小娘のくせに、わかったような口を....!」


忌々しげに吐き出し、ネッサは、床に広がったサーリヤの髪とドレスの裾を同時に踏みつけた。


「カイヤーナもお前も....後悔だと?大切なものをその手から無理矢理奪われたことなどないお前達に、何がわかる。後悔できる立場にいると思うこと自体が、お前達の傲慢さだ」


「ネッサ姫....」


髪を腰の部分で踏み押さえられ、サーリヤは床に両手をついたまま唇を噛んだ。


「すべてを奪われた者の絶望がどれほどのものか、知る術もないくせに....」


「−−−−ネッサ!」


サーリヤの髪を踏みつけたまま、その肩を掴もうとネッサが小さな手を伸ばした瞬間、ふたりの背後から鋭い声が割って入った。


闘技場のゲートをくぐったと同時に馬を飛び降り、同時に『気』の塊を左右にいた地虫3匹に続けて投げつけて倒したイザークが、イルクの先導により、場内から大きくジャンプし、ネッサ達がいる観客席の手すりの上にダンッと勢いよく降り立った。


「...遅かったな、『天上鬼』」


いまにもサーリヤに掴みかからんとした姿勢のまま、振り返り、ネッサが不敵に笑う。


「そなたを見くびっていたようで、私もがっかりだよ−−−−そなたの返事、確かに受け取った。どうやら、『天上鬼』は愛しい『目覚め』や血を分けた腹の子がそれほど大事ではなかったらしい」


「.....!」


その言葉に、イザークの全身にカッと怒りの気が満ちた。視線だけで人を殺める力がイザークにあったなら、その望みはすでに叶っていたかもしれない。


が、ジーナの身体を乗っ取っている限り手は出せないと承知しているネッサの優位は変わらない。口元に余裕の笑みを浮かべたまま、ネッサは恐怖に萎縮しきったサーリヤの肩に手をかけた。


「−−−今からでも遅くはないぞ?ほら、お膳立ては十分してやった。今この場で『天上鬼』としての真の姿を現し、皆の前でガール王子を殺せばいい。それだけで、お前の愛しい『目覚め』は解放してやろう」


『イザーク....!』


少し頭上から、やや不安げなイルクの声が聞こえる。


ほんの少し前までなら、その一言でイザークの心は大きく揺さぶられ、闇に飲み込まれていたかもしれない。ネッサの誘惑に、屈していたかもしれない。


だが−−−−。


背後で、バラゴやアゴル達の馬が、大混乱の闘技場の中へ駆け込んでくる音が聞こえた。


「おらおらおらぁぁぁ!」


剣を片手に勢いよく馬を飛び降り、バラゴが手近にいた地虫に力任せに斬りかかる。

アゴル、バーナダム、コーリキ、ロンタルナも間を置かずにバラゴに続いた。ガールは、馬上から遠くにいる地虫の目を射抜く。

「これが巨大化した地虫なら、弱点は体節ごとのつなぎ目だ!そこを狙え!」


この地方に生息する地虫に以前遭遇したことのあるアゴルが、上体を持ち上げ襲いかかってきた巨大な地虫の頭部と体節のつなぎ目に剣を突き刺しながら、仲間達に声をかける。


「顎肢の部分には毒がある!気をつけろ!」

「おおっ!」


あの『元凶』も相手に戦ってきた経験のある仲間達だ。獰猛化した巨大な地虫相手にもまったく怯まず、勇敢に立ち向かっていく。実戦経験がなく、逃げ腰で防衛にばかり徹しているタルメンソンの警備兵達ばかりでなかなか動かなかった戦況が、ザーゴの戦士達の参加で見る間に好転していく。


背後で仲間達が活躍する声を聞きながら、手すりの上に立ったまま、イザークは静かにネッサを見下ろした。


「−−−−俺の答えは変わらない。俺は、あんたの言いなりにはならん」


では『目覚め』を見殺しにするのだな。

そう言おうと口を開きかけたネッサを、凛とした声が制する。

「だが、ジーナもノリコも−−−−俺達の子供も、誰も失わない。助けてみせる」


もう、どんなことにも揺るがない、力強い口調で。


彼を支える仲間達の存在が、イザークの心に闇がつけいる隙間をなくしてしまったことに気づきながら、ネッサがクククッと喉を鳴らした。


「−−−では、『天上鬼』のお手並み拝見とさせていただこうか』


言うが早いか、座り込んだまま動けないでいたサーリヤの背後に回り、その首に両腕を回して抱きついたかと思うと、そのまま、ふたりの姿が掻き消えた。


「−−−−−!」


『イザーク!きっと神殿に....!』

ふわりと舞い降りてきたイルクの言葉に短く頷き、イザークは背後の仲間達を振り返って声をあげた。


「バラゴ!ネッサがサーリヤを連れて逃げた!」


仲間達の力で、場内の地虫達の数も大幅に減った。城からの増援も到着し、逃げ惑う観衆を安全な場所へと誘導している。このままなら、自分がいなくてもなんとかなりそうだ。


「−−−−ここは俺達が引き受けた!行けっ!」


間近にいた地虫の足を切り落としながら、肩越しに背後のイザークを振り返って、バラゴが声を張り上げた。


その声に、同じように地虫を相手に戦っていたアゴルとガールが、同時にイザークを振り返る。


「イザーク!」


ジーナを。

サーリヤを。

救いたい。

自分の手で。

アゴル達の心の声を聞き、イザークは、手すりを蹴ってダッと跳躍しながら、アゴルと、そしてガールの腕を次々に掴んだ。


「−−−イルク、頼む!」


『任せて!』


宙に浮いたイルクツーレが右腕を空に掲げ、短く呪文を唱える。


同時に、朝湯気の木の精霊を中心にカッと閃光弾のような眩い光が四方に迸り、眩しさのあまり、その場にいたすべての人間が目を覆い、荒れ狂っていた地虫さえも悲鳴を上げて一瞬動きを止めた。


その、あまりの眩しさに目を閉じていなければ、見えただろう。


アゴルとガールの腕を掴んだまま、地を蹴って大きく跳躍したイザークの背に、その瞬間、美しく眩い光の翼が広がったのを。


翼を大きく羽ばたかせ、イザークの姿は矢のような素早さで一気にその場から飛び去った−−−−ノリコが眠る、あの氷の神殿を目指して。



決して失うものか。


必ず、この腕に取り戻す−−−−。



****************


<あとがき>


皆様、あけましておめでとうございます。

2014年中に最期まで書きたかったのですが、その野望はもろくも崩れ去りました。スミマセン。

次こそは、クライマックス。(ああ、でも別のストーリーができあがりかけてるので、そっちを先にアップさせてしまうかも....汗)


もうしばらくだけ、お付き合いください。


今年もどうぞよろしくお願いいたします。コメント・感想いただければ幸いです。


4 件のコメント:

  1. あけましておめでとうございます☆
    新年早々、続きが読めて嬉しいです!
    そしてもうすぐクライマックスなんですね…ドキドキ♪
    寒い日が続くので、無理なさらずに…
    続きも他のストーリーもファンは待ってます☆

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    1. きゃあーーー!ファンだなんてっ!滅相もないです!同志ですよ!同じ漫画が好きな同志!
      彼方からがとにかく好きで、ふたりのその後を知りたくて、自分で勝手に妄想して書いてしまったものを、読んでくださり、感想をくださる方がいらっしゃるというだけで、本当に嬉しいです。
      ....って、書いてて思ったんですけど、もしかして、ここで言われた「ファン」というのは、彼方からファン、という意味だったのかも.....。だったら超恥ずかしいですが。はは、は....(アゴル風笑い)

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  2. あけましておめでとうございます。
    仕事宿題を持ち帰っているのに、明日が休み最終日なことにさっき気づいた間抜けっぷり。
    こちらの新作に大喜びです。今年もどうぞよろしくお願いします、楽しみにしています。

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    1. あけましておめでとうございます!お久しぶりです。
      あらら。宿題、無事に終わりましたか?頑張ってくださいね。
      またお立ち寄りくださいー♪

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