「......」
艶やかな長い銀の髪を梳いていたブラシをことん、と鏡台の上に降ろし、サーリヤは、目前の鏡に向かい、深い海の色の自分の瞳をみつめた。
明日の狩猟の会が済めば、ザーゴ使節団は数日後には帰国することになる。それは、今回のタルメンソン訪問の真の目的が終了し、ガールが自分との婚姻を受け入れたことを意味していた。
まるで誰かに唆されたかのような気がして止まないのは確かだが、父王に対してザーゴの王子との婚姻を進言したのは自分であることは認識している。ガールが婚姻に同意したのであれば、それは両国の未来にとっても良いことなのだから、王位継承者である自分としては、喜ぶべきことには違いない。なのに−−−−−。
なんの表情も浮かばない自分の瞳をみつめたまま、サーリヤはほんのかすかに吐息を漏らした。
穏やかな笑顔の黒髪の王子は非常に好感が持てる相手で、この数日ふたりきりで話をすることも多く、共通の話題なども豊富で一緒にいて楽しい。きっと彼とであれば、春の木もれ日のような平和で優しい日々を共に過ごしていくことができるに違いないのに。
王女として生まれた以上、最優先すべきは国の平和と国民の幸福であり、そのためには、自分が真に欲しているものなど手に入れることはできない、と十分承知している。
なのに、心のどこかで、恋をしたいと叫んでいる自分がいる。欲しているのは春の陽だまりではなく、激しく身を焦がすような激情に満ちた恋に落ち、思いのままに愛しい男の腕に抱かれることなのだ、と。
だが。
そんな相手に出会うこともないまま、国のために生きることが、王女として生まれた自分の運命なのだと、諦めることにももう慣れていた。あの−−−闇を閉じこめたような漆黒の双眸に出逢うまでは。
「.......」
長い漆黒の髪、どこか憂いのある端正な顔立ちの、すらりとした長身の剣士の姿が脳裏にちらついた。が、すぐにその幻想を自分で消し去った。
たとえ自分が王女ではなく、自由に恋ができる身分だったとしても、あの青年が手に入ることは決してなかっただろう。
彼が自分に向けてくる視線には、最後までひとかけらの好意も浮かばなかったことを思い出し、サーリヤは苦い思いに唇をキュッときつく結んだ。
もう夜も更けた。明日も朝早くから侍女達がやってきて、狩猟の会のために自分を人形のように飾りたてるのだ。疲れが顔に出ないように、睡眠を十分にとっておかなくては。
そう思って鏡台の椅子から立ちあがるのと、背後のテラスに続く扉の硝子戸がコンコン、と軽く叩かれるのが同時だった。
ハッと振り返ったサーリヤの目に映ったのは、硝子戸の向こう、暗闇のテラスに佇むイザークの姿。あっと息を飲み、サーリヤは慌てて扉へ駆け寄った。
「イザーク様....!」
王族の居住区である北翼でも、サーリヤの部屋は特に高い位置にあり、その部屋のテラスには、翼竜でも使わない限りは直接登ってくることなどできないはずなのに。
驚きに目を見張ったまま、サーリヤは素早く扉を開けてイザークを中に招き入れた。
「こんな夜中にどうして....」
結婚前の王女の寝室に、人目を忍んで男がひとりでやってくるのに、ほかにどんな理由があるだろうか。薄い夜着の上から羽織っていたガウンの前を改めたのは、見られるのが恥ずかしいからではなく、自分の胸の高鳴りをイザークに聞かれたくなかったためだ。
知らず声がうわずってしまったサーリヤは、居心地悪く目の前のイザークを見上げた−−−が。
その漆黒の瞳には、以前と変わらずなんの暖かさもないことを認めた途端、冷たい氷水を背筋に浴びせられたように、高揚しはじめていた心は、サッと一気に平静を取り戻した。
「−−−−夜分すまない。あんたに聞きたいことがある」
なんの感情も浮かばない表情のまま、イザークが淡々と言った。
********
パタン、と静かに自室の扉を後ろ手に閉め、イザークは顔をあげた。
目前の寝台の上には、もちろんノリコの姿はない。十分承知しているはずの事実なのに、いまだ慣れることができず、イザークは知らず顔をしかめた。が、ふうっと自分を落ち着かせるように深く息をつき、歩を踏み出す。
大切なものを失う恐怖に心を囚われている時ではない。
大切なものを失わないように、前進すべき時、だ。
空の寝台のそばに立ち、イザークは腰のベルトを外した。ベルトとともに、サーリヤから渡された小さな濃紺の布袋を布団の上に置く。
アゴルが監視につき、ネッサが眠るまで待たなければならなかったとはいえ、彼女には失礼なことをした。
「......」
明日のことを考えてそのまま立ちつくしていたイザークは、ふと、近くに誰かの気配を感じて、ハッと顔をあげ、右肩越しに背後を振り返った。
「−−−−?!」
『....やっと気づいてくれたね、イザーク』
耳を通してではなく、心に直接響いてくるような、透き通った声。
宙にふわりと浮いた状態でこちらを見下ろし、穏やかな笑みを浮かべているのは。
「イルク....!!」
思いがけず懐かしい存在を目にし、イザークが大きく目を見張った。
名を呼ばれ、銀色の髪の少年も嬉しそうに微笑む。
『ひさしぶりだね、イザーク』
「イルク....どうして.....」
『木々は大地に根を張り、同じ光の動脈からエネルギーを得ているからね。同じ大陸上で、この国も白霧の森に大地を通してつながっているようなものなんだ。よーく耳を澄ませば、僕には、遠く離れた君達の様子だって感じ取れるんだよ』
驚きを隠せない様子のイザークに、イルクツーレは、そう大したことではないかのように、その容姿にぴったりの少し幼さの残る仕草で肩をすくめてみせた。
『本当は、ノリコの異変に気づいてすぐに駆けつけたんだ−−−−−。でも、君の心はすでに閉ざされてしまっていて僕の存在に気づけなくなっていたし、ジーナの力に増幅されたあの占者の力も強くなっていたから....近づけずに、遠くから傍観しているしかなかったんだ』
ふっと哀しそうにその菫色の瞳を翳らせ、朝湯気の木の精霊であるイルクツーレは、ふわり、とイザークの目の高さまで降りてきた。
『でも良かった。君がやっと、希望を取り戻してくれて』
「イルク....」
ノリコを失うことを恐れるあまり、光の世界から心を遠ざけ、イルクの姿を見る力さえ失ってしまっていたことを知り、イザークは愕然とした。
なんてことだ。アゴル達のほかにも、助け手はすぐそこまで来てくれていたのに。
「すまん....」
『僕に謝る必要はないよ。ノリコの生命が危険に晒されているんだ。君が焦る気持ちはよくわかるよ』
肩を落としたイザークを、実体であれば、その肩に触れて力づけた かったであろう。ここ数日で憔悴しきった様子のイザークに、少年の姿をした精霊は、深い労りの眼差しを向けた。
『ノリコの気配が失われたのに気づいて、慌ててここまで来てみたは良いけれど、実際、僕にも何ができるのかわからないんだ。ノリコが封印されているあの神殿の結界は強すぎて、僕には入ることができないし、あの亡霊に直接対抗してジーナの精神を呼び起こすのは無理だし....』
「いや、こうして駆けつけてきてくれただけで心強い。感謝する」
本当に。助けようとしてくれる仲間がいるというだけで、どれだけ勇気づけられるか。
上手く感謝の言葉を口にできない自分がもどかしくて、少し戸惑ったように目を伏せたイザークに、イルクはクスクスと笑った。少しずつでも、イザークが恐怖と苦しみから解放され、 本来の自分を取り戻しつつあることが嬉しかった。
『−−−−うん、 でもね、 君に気づいてもらえずに困ってたのは、僕だけじゃなかったんだ』
「?」
イルクの言葉にふと目を上げたイザークは、いつのまにか、イルクの背後にもうひとつの人影が立っていたことに気づいてハッと息を飲んだ。
実体ではない。イルクと同じように、うっすらと背後が透けて見える精神体。
「あんたは.....!」
肩までの淡い金髪のその青年には、見覚えがあった。
あの神殿で、ネッサが視せた映像に出てきた青年だ。そして、あの氷の鏡の中に、ネッサに抱かれて永遠の時を眠っている。確か、シュラクという名の...。
「あんたは....ネッサの.....」
彼も、ネッサと同じように、命を失ったあとも魂となってこの世に残っていたのか。
ふうっと宙を移動して前に出てきた青年は、ネッサが視せた映像の中の彼の印象とは大きく異なっていた。
ネッサの傍らにいた彼は、いつも春の木洩れ陽のように穏やかで、ネッサを庇って命を落としたその瞬間まで、やわらかで幸せそうな笑顔を浮かべていたのに。今、イザークの前にいる彼の顔に笑みはなく、その瞳は、深い悲哀に満ちていた。
彼の傍らに寄り添うように立ち、気遣わしげにイルクが口を開く。
『−−−どうしていいのかわからなくて途方に暮れていたら、この人も同じように君のそばで、君に気づいてもらいたくて待っていたんだよ』
「俺に?」
ネッサの恋人が、なぜ、自分に−−−−。
『−−−助けてください』
いまにも涙が溢れそうな瞳にイザークを映し、シュラクは懇願する。
『助けてください....』
彼女を。
憎しみに固められてしまい、もう私の声さえ聞こえなくなってしまった愛しいあの人を。
「シュラク....」
『あれは....彼女の本来の姿ではありません。本当の彼女は−−−−両親に疎まれ疎外されてもなお、他人を思いやり、枯れかけた小さな花の命でさえ失わないように慈しむことができる、溢れる愛情を持った方なのです』
そういう彼女を、自分は愛した。
孤独に凍えそうな彼女の心を暖める存在になりたかった。
この生命に代えても、護りたかったのに−−−−−。
『...最後には、彼女を独りにしてしまった。すべてを失い、悲しみと憎悪に覆われてしまったあの方には、もう私の声も届かない。あの日の約束通り、ずっとそばにいる私の姿にさえ、気づけなくなってしまった...』
深い、深い悲しみ。
そして、その奥に今も変わらず溢れている、ネッサへの想い。
憎悪に我を失い、闇に飲み込まれてしまった愛しい少女を、気づいてもらえぬと知りながら、変わらずその両腕を広げて包み込もうとしている、深い無償の愛−−−−。
(ノリコ.....)
その姿に、なぜかノリコの面影が重なり、イザークは一瞬目を伏せた。
なにがあろうとも。たとえその身が化け物になる日が来ても。
自分だけはそばにいる。決して、離れない。
ふたりの −−−−『約束』
その約束を守るために、シュラクは、命を落としたあともこの世に残り、ネッサの魂を救おうとしている。
(−−−−−−−−)
ネッサにとっての『ノリコ』が、彼だった。
もし、今のネッサの中に、ひとかけらでもシュラクが知る本来の優しい心が残っているのだとすれば、彼女自身を闇の中から救う手だてもあるのかもしれない。
ノリコとジーナだけでなく、自分と同じ孤独な魂を持つあの少女も救うことができるのであれば−−−−−−。
「シュラク」
ゆっくりと、イザークが強い光を帯びた漆黒の瞳を上げた。
「−−−−手伝おう。俺はどうすればいい?」
********
*******************
<あとがき>
と、いうことで、実は、9章のモノローグはノリコではなく、シュラクだったのでございます。気づいた方、いらっしゃったでしょうか??
それと、なかなか話が進まなくてすみません....。わざと引き延ばしているわけではないのですが、この部分もストーリーの流れとしてやっぱ重要で、割愛するわけにはいかず。で、そうすると、やっぱここで切るのがベストかな、と。
続き、頑張ります💦 次章こそは、クライマックスに....??
明日の狩猟の会が済めば、ザーゴ使節団は数日後には帰国することになる。それは、今回のタルメンソン訪問の真の目的が終了し、ガールが自分との婚姻を受け入れたことを意味していた。
まるで誰かに唆されたかのような気がして止まないのは確かだが、父王に対してザーゴの王子との婚姻を進言したのは自分であることは認識している。ガールが婚姻に同意したのであれば、それは両国の未来にとっても良いことなのだから、王位継承者である自分としては、喜ぶべきことには違いない。なのに−−−−−。
なんの表情も浮かばない自分の瞳をみつめたまま、サーリヤはほんのかすかに吐息を漏らした。
穏やかな笑顔の黒髪の王子は非常に好感が持てる相手で、この数日ふたりきりで話をすることも多く、共通の話題なども豊富で一緒にいて楽しい。きっと彼とであれば、春の木もれ日のような平和で優しい日々を共に過ごしていくことができるに違いないのに。
王女として生まれた以上、最優先すべきは国の平和と国民の幸福であり、そのためには、自分が真に欲しているものなど手に入れることはできない、と十分承知している。
なのに、心のどこかで、恋をしたいと叫んでいる自分がいる。欲しているのは春の陽だまりではなく、激しく身を焦がすような激情に満ちた恋に落ち、思いのままに愛しい男の腕に抱かれることなのだ、と。
だが。
そんな相手に出会うこともないまま、国のために生きることが、王女として生まれた自分の運命なのだと、諦めることにももう慣れていた。あの−−−闇を閉じこめたような漆黒の双眸に出逢うまでは。
「.......」
長い漆黒の髪、どこか憂いのある端正な顔立ちの、すらりとした長身の剣士の姿が脳裏にちらついた。が、すぐにその幻想を自分で消し去った。
たとえ自分が王女ではなく、自由に恋ができる身分だったとしても、あの青年が手に入ることは決してなかっただろう。
彼が自分に向けてくる視線には、最後までひとかけらの好意も浮かばなかったことを思い出し、サーリヤは苦い思いに唇をキュッときつく結んだ。
もう夜も更けた。明日も朝早くから侍女達がやってきて、狩猟の会のために自分を人形のように飾りたてるのだ。疲れが顔に出ないように、睡眠を十分にとっておかなくては。
そう思って鏡台の椅子から立ちあがるのと、背後のテラスに続く扉の硝子戸がコンコン、と軽く叩かれるのが同時だった。
ハッと振り返ったサーリヤの目に映ったのは、硝子戸の向こう、暗闇のテラスに佇むイザークの姿。あっと息を飲み、サーリヤは慌てて扉へ駆け寄った。
「イザーク様....!」
王族の居住区である北翼でも、サーリヤの部屋は特に高い位置にあり、その部屋のテラスには、翼竜でも使わない限りは直接登ってくることなどできないはずなのに。
驚きに目を見張ったまま、サーリヤは素早く扉を開けてイザークを中に招き入れた。
「こんな夜中にどうして....」
結婚前の王女の寝室に、人目を忍んで男がひとりでやってくるのに、ほかにどんな理由があるだろうか。薄い夜着の上から羽織っていたガウンの前を改めたのは、見られるのが恥ずかしいからではなく、自分の胸の高鳴りをイザークに聞かれたくなかったためだ。
知らず声がうわずってしまったサーリヤは、居心地悪く目の前のイザークを見上げた−−−が。
その漆黒の瞳には、以前と変わらずなんの暖かさもないことを認めた途端、冷たい氷水を背筋に浴びせられたように、高揚しはじめていた心は、サッと一気に平静を取り戻した。
「−−−−夜分すまない。あんたに聞きたいことがある」
なんの感情も浮かばない表情のまま、イザークが淡々と言った。
********
パタン、と静かに自室の扉を後ろ手に閉め、イザークは顔をあげた。
目前の寝台の上には、もちろんノリコの姿はない。十分承知しているはずの事実なのに、いまだ慣れることができず、イザークは知らず顔をしかめた。が、ふうっと自分を落ち着かせるように深く息をつき、歩を踏み出す。
大切なものを失う恐怖に心を囚われている時ではない。
大切なものを失わないように、前進すべき時、だ。
空の寝台のそばに立ち、イザークは腰のベルトを外した。ベルトとともに、サーリヤから渡された小さな濃紺の布袋を布団の上に置く。
アゴルが監視につき、ネッサが眠るまで待たなければならなかったとはいえ、彼女には失礼なことをした。
「......」
明日のことを考えてそのまま立ちつくしていたイザークは、ふと、近くに誰かの気配を感じて、ハッと顔をあげ、右肩越しに背後を振り返った。
「−−−−?!」
『....やっと気づいてくれたね、イザーク』
耳を通してではなく、心に直接響いてくるような、透き通った声。
宙にふわりと浮いた状態でこちらを見下ろし、穏やかな笑みを浮かべているのは。
「イルク....!!」
思いがけず懐かしい存在を目にし、イザークが大きく目を見張った。
名を呼ばれ、銀色の髪の少年も嬉しそうに微笑む。
『ひさしぶりだね、イザーク』
「イルク....どうして.....」
『木々は大地に根を張り、同じ光の動脈からエネルギーを得ているからね。同じ大陸上で、この国も白霧の森に大地を通してつながっているようなものなんだ。よーく耳を澄ませば、僕には、遠く離れた君達の様子だって感じ取れるんだよ』
驚きを隠せない様子のイザークに、イルクツーレは、そう大したことではないかのように、その容姿にぴったりの少し幼さの残る仕草で肩をすくめてみせた。
『本当は、ノリコの異変に気づいてすぐに駆けつけたんだ−−−−−。でも、君の心はすでに閉ざされてしまっていて僕の存在に気づけなくなっていたし、ジーナの力に増幅されたあの占者の力も強くなっていたから....近づけずに、遠くから傍観しているしかなかったんだ』
ふっと哀しそうにその菫色の瞳を翳らせ、朝湯気の木の精霊であるイルクツーレは、ふわり、とイザークの目の高さまで降りてきた。
『でも良かった。君がやっと、希望を取り戻してくれて』
「イルク....」
ノリコを失うことを恐れるあまり、光の世界から心を遠ざけ、イルクの姿を見る力さえ失ってしまっていたことを知り、イザークは愕然とした。
なんてことだ。アゴル達のほかにも、助け手はすぐそこまで来てくれていたのに。
「すまん....」
『僕に謝る必要はないよ。ノリコの生命が危険に晒されているんだ。君が焦る気持ちはよくわかるよ』
肩を落としたイザークを、実体であれば、その肩に触れて力づけた かったであろう。ここ数日で憔悴しきった様子のイザークに、少年の姿をした精霊は、深い労りの眼差しを向けた。
『ノリコの気配が失われたのに気づいて、慌ててここまで来てみたは良いけれど、実際、僕にも何ができるのかわからないんだ。ノリコが封印されているあの神殿の結界は強すぎて、僕には入ることができないし、あの亡霊に直接対抗してジーナの精神を呼び起こすのは無理だし....』
「いや、こうして駆けつけてきてくれただけで心強い。感謝する」
本当に。助けようとしてくれる仲間がいるというだけで、どれだけ勇気づけられるか。
上手く感謝の言葉を口にできない自分がもどかしくて、少し戸惑ったように目を伏せたイザークに、イルクはクスクスと笑った。少しずつでも、イザークが恐怖と苦しみから解放され、 本来の自分を取り戻しつつあることが嬉しかった。
『−−−−うん、 でもね、 君に気づいてもらえずに困ってたのは、僕だけじゃなかったんだ』
「?」
イルクの言葉にふと目を上げたイザークは、いつのまにか、イルクの背後にもうひとつの人影が立っていたことに気づいてハッと息を飲んだ。
実体ではない。イルクと同じように、うっすらと背後が透けて見える精神体。
「あんたは.....!」
肩までの淡い金髪のその青年には、見覚えがあった。
あの神殿で、ネッサが視せた映像に出てきた青年だ。そして、あの氷の鏡の中に、ネッサに抱かれて永遠の時を眠っている。確か、シュラクという名の...。
「あんたは....ネッサの.....」
ふうっと宙を移動して前に出てきた青年は、ネッサが視せた映像の中の彼の印象とは大きく異なっていた。
ネッサの傍らにいた彼は、いつも春の木洩れ陽のように穏やかで、ネッサを庇って命を落としたその瞬間まで、やわらかで幸せそうな笑顔を浮かべていたのに。今、イザークの前にいる彼の顔に笑みはなく、その瞳は、深い悲哀に満ちていた。
彼の傍らに寄り添うように立ち、気遣わしげにイルクが口を開く。
『−−−どうしていいのかわからなくて途方に暮れていたら、この人も同じように君のそばで、君に気づいてもらいたくて待っていたんだよ』
「俺に?」
ネッサの恋人が、なぜ、自分に−−−−。
『−−−助けてください』
『助けてください....』
彼女を。
憎しみに固められてしまい、もう私の声さえ聞こえなくなってしまった愛しいあの人を。
「シュラク....」
『あれは....彼女の本来の姿ではありません。本当の彼女は−−−−両親に疎まれ疎外されてもなお、他人を思いやり、枯れかけた小さな花の命でさえ失わないように慈しむことができる、溢れる愛情を持った方なのです』
そういう彼女を、自分は愛した。
孤独に凍えそうな彼女の心を暖める存在になりたかった。
この生命に代えても、護りたかったのに−−−−−。
『...最後には、彼女を独りにしてしまった。すべてを失い、悲しみと憎悪に覆われてしまったあの方には、もう私の声も届かない。あの日の約束通り、ずっとそばにいる私の姿にさえ、気づけなくなってしまった...』
深い、深い悲しみ。
そして、その奥に今も変わらず溢れている、ネッサへの想い。
憎悪に我を失い、闇に飲み込まれてしまった愛しい少女を、気づいてもらえぬと知りながら、変わらずその両腕を広げて包み込もうとしている、深い無償の愛−−−−。
(ノリコ.....)
その姿に、なぜかノリコの面影が重なり、イザークは一瞬目を伏せた。
なにがあろうとも。たとえその身が化け物になる日が来ても。
自分だけはそばにいる。決して、離れない。
ふたりの −−−−『約束』
その約束を守るために、シュラクは、命を落としたあともこの世に残り、ネッサの魂を救おうとしている。
(−−−−−−−−)
ネッサにとっての『ノリコ』が、彼だった。
もし、今のネッサの中に、ひとかけらでもシュラクが知る本来の優しい心が残っているのだとすれば、彼女自身を闇の中から救う手だてもあるのかもしれない。
ノリコとジーナだけでなく、自分と同じ孤独な魂を持つあの少女も救うことができるのであれば−−−−−−。
「シュラク」
ゆっくりと、イザークが強い光を帯びた漆黒の瞳を上げた。
「−−−−手伝おう。俺はどうすればいい?」
********
−−−−−声が聞こえる。
遠くから。
愛しい、あの人の声が。
傷ついている。
苦しんでいる。
伝えたい。
ここにいると。
すぐそばに、いると。
伝えたいのに、声にならない。
声が、届かない...。
*******************
<あとがき>
と、いうことで、実は、9章のモノローグはノリコではなく、シュラクだったのでございます。気づいた方、いらっしゃったでしょうか??
それと、なかなか話が進まなくてすみません....。わざと引き延ばしているわけではないのですが、この部分もストーリーの流れとしてやっぱ重要で、割愛するわけにはいかず。で、そうすると、やっぱここで切るのがベストかな、と。
続き、頑張ります💦 次章こそは、クライマックスに....??
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