11/03/2014

氷の鏡 第10章

「−−−イザーク!イザークってば!」

クスクスと笑みの混じった声が聞こえて、イザークはゆっくりと目を開いた。
傾きはじめた暖かい陽光が眩しく、思わず右腕を上げて陽を遮り、目を細める。

「−−−−−−」

見覚えのある、低い塀に囲まれた小さな庭。結婚後、セレナグゼナに住むことを決めて家を探していた際、ノリコがいたくその庭を気に入ってしまった郊外の一軒家だ。その片隅にある大樹の根もとに寄りかかり、イザークはいつの間にか眠りこんでいたらしい。

「良く寝てたね。でも、もうすぐお夕飯だよ。そろそろ起きて」

少し離れた位置にある物干し台から乾いた白いシーツを取りこみながら、ノリコがこちらを振り返って笑った。

「ノリコ....」

食い入るようにその笑顔をみつめたまま呟き、イザークは、絶望的な思いに胸を締めつけられた。

−−−−これは夢だ、と気づいてしまったから。

「イザーク?」

きょとん、とした顔で、ノリコが小首を傾げる。

「どうしたの?気分でも悪いの?」

丸めたシーツを両手で抱えたまま、ノリコが近づいてくる。

木の根元に寄りかかり、足を伸ばした姿勢のまま動けずにいるイザークの頬に、つ、と一筋の涙が伝った。

「イザーク?」

その涙を見ても声の調子を変えもせず、ノリコはイザークのすぐ傍らにすとんと腰を下ろした。その顔には、春の陽だまりのようにやわらかい笑顔が浮かんだままだ。

「ノリコ.....」

幸せな−−−−そして、残酷な夢だ。

夢だと頭では分かっているのに、触れずにはいられない。

小刻みに震える腕を伸ばしてその頬に触れようとした途端、ザアッと掌中の砂が飛び散るかのように、目の前にいたはずのノリコの姿と−−−−そして周囲の見慣れた景色のすべてが、一瞬にして霧散して消えた。

残されたのは、何も見えない真っ暗な闇の深淵の中にただひとり残された自分−−−−−。


「 −−−−−−!!」

ハッと息をのみ、イザークは寝台の上に身を起こした。

だだっ広く、薄暗い寝室。 暖炉にわずかに燃え残った炭化した木片がパチパチとかすかにはぜる音だけが響く。 −−−−−現状を把握するのに、ほんのわずかな間があった。

「.......」

頬を伝った涙の跡をぐっと手の甲で乱暴に拭い、イザークは深い深い溜息をついた。そのままぐっと閉じた目を覆うように右手で両のこめかみを押さえる。

(ノリコ−−−−−)

眠りにつくことを、これほど怖いと思ったことはなかった。夢であってもいい。一目でもノリコに会えるなら−−−そう思ったこともあったが、実際には、夢だからこそ、それはあまりにも残酷で、ノリコがそばにいない現実を否が応でも突きつけられた。

無理にでも睡眠を取ろうと強い酒を呷って寝たにも関わらず、おそらくそれから一刻も経ってはいないのだろう。

静まり返った寝室の中で、顔を覆うようにこめかみを押さえたまま、イザークはぐっと奥歯を噛み締めた。



何を失っても怖くはない。
この身を切り裂きたくば好きにすればいい。千の針を飲めというなら喜んで飲もう。

だが、彼女だけは。

ノリコだけは、俺から奪わないでくれ−−−−−−。


********

「おっしゃあー、いっちょやるか!」

ウキウキとした声と表情で、準備運動代わりに両腕をぐるぐる肩から回しながら、バラゴが石畳の場内へ 歩を進めた。

城の外塀沿いの高い石壁で囲まれた、城内兵士演習場。少し 間を置いて入口からぞろぞろとやってきた仲間達のほうを振り返り、アゴルと並んで歩いてくるイザークに練習用の木剣をビシッと向けて、バラゴは睨みを利かせた。

「練習だからって気を抜くんじゃねーぞ、イザーク!俺は本気で行くからなっ」

「バラゴ、なに言ってるんだ。俺達は同じチームだろう」

「お前こそ呑気なこと言ってんじゃねえよ。そりゃ両国から4名ずつ選出の団体戦でスタートだが、最終的には勝ち抜き個人戦になるんだろうが。どっちの国の代表とか関係ねえ。結局は誰が一番強ぇか、皆の前で決まるんだぜ」

ふん、と鼻息荒く、バラゴは、呆れ顔のアゴルを見返して自慢げに腕組みした。

明日、国を挙げて盛大に行われる狩猟の会の余興として、タルメンソンと訪問国からそれぞれ選出された戦士が、特設闘技場にて選抜戦を行うことになっている。その御前試合のザーゴ代表として駆り出されたのが、イザーク、バラゴ、アゴル、バーナダムの4人だった。

そして当然のごとく、『ザーゴの名誉がかかっているんだ!負けは許さんからなっ』とリヤッカからハッパをかけられ、4人は強制的に前日稽古をさせられる羽目に陥っていた。もちろん、自分から選抜メンバーに立候補していたバラゴは大ハリキリだ。

「いやー、こいつとやり合うのはナーダの城での御前試合以来だからな。今度こそ絶っ対に勝ってやるぜ!」

「でも、あの時もまるで相手になってなかったんじゃ−−−−」

後ろでボソッと呟いたバーナダムを、ギロリと睨みつける。その迫力に気圧されて、バーナダムはタジタジと後ずさり、アゴルの後ろに隠れた。

「−−−−とにかく!気合い入れていくぞ、おい!」

改めて声をかけられ、イザークが静かに顔を上げる。

「.....」

昨夜もほとんど眠れなかったのか、疲労の激しさが伺える。

シンプルな稽古着の上下に、いつものバンダナ。手首にサポート用の布を巻きつけながらバラゴを見返したその顔には、なんの表情も浮かばない。

「....大丈夫か?」

横から、アゴルがそっと気遣わしげにその肩に手を置いた。

「ああ....」

一瞬振り返ったものの、アゴルの目をまともに見返すことができず、イザークはすぐに視線を泳がせた。

ノリコだけでなく、アゴルが最も大切にしている存在さえも、自分のせいで危険に晒している事実。そして、その事実を本人に伝えることさえできないことに、罪悪感と後ろめたさで胸が圧し潰されそうだ。

ちらり、と演習場の端に設置された長椅子に腰掛けている仲間達に目をやる−−−正確には、そこにコーリキ達と一緒に座り、楽しそうにニコニコ笑っている盲目の少女に。

「−−−−−−」

本当は笑ってなどいない。皆の話など聞いてはいない。

視えないフリをしながら、こちらに時折顔を向け、監視を続けている。明日の狩猟の会で起こるであろう 『惨事』を予測し、自分の計画通りに復讐が果たされる瞬間を今か今かと心待ちにしている−−−−その身体から、にじみ出る闇が見えてきそうだ。

確かにジーナハースなのに、まったく異なる存在。その作られた笑顔を見ているだけで、イザークは吐き気を催しそうなほど虫酸が走る思いだった。

それでも、その思いを顔に出すことさえ許されない−−−−−。

「オラオラッ!いつまでも突っ立ってねぇで、行くぞっ!」

準備運動が終わったらしいバラゴが、いつまでもやる気を出さないイザークに痺れを切らした様子で、もう一本の木剣を投げてよこした。

あくまで余興でしかない御前試合のための稽古など本当はどうでも良いのに。バラゴのほうを向くことさえしないまま、イザークは反射的に片手で剣を受け取った。と同時に、バラゴが勢いよく打ち込んでくる。

「−−−−−−−」

心ここにあらずながら、攻撃されれば知らず身体が動いて防御している。間髪入れずにありったけの力を込めて剣を振り下ろしてくるバラゴの攻撃を流れる水のような澱みのない動きでかわし、イザークはしかたなく稽古に意識を集中させた。

ほんの一瞬でも、凍りついたノリコの姿を脳裏から追い出せるなら、こんな茶番に付き合うのも 悪くはないのかもしれない。



「あー、チクショー!やっぱり勝てねえ!」

何度打ち込んでもかわされ、打ち返され、最終的には手にした木剣を弾かれた。無言のままイザークに負けを宣告されて本気で悔しがるバラゴに、アゴルが仕方なさそうに軽く溜息をついた。

「まあ、練習って言っても、実際には俺達がイザークに稽古をつけてもらってるようなものだからな」

「それでも悔しいものは悔しいんだっ!」

うおおおっと獣のような雄叫びをあげるバラゴに、さすがのイザークもほんのわずかに口の端を上げて笑みを作った。久しぶりに見るイザークの笑顔−−−たとえそれが微々たるものであっても、一瞬でも気が紛れたのであれば、それでいい。その姿を見てわずかに安堵した様子で、アゴルは観客席に座る仲間達を振り返った。

「−−−−ちなみにバーナダム、君も一応ザーゴ代表なんだから、そんなところで油売ってないでこっちへ来てくれ。ジーナも、いちいちそんな怠惰なお兄ちゃんの相手しなくていいから」

「えー、だって団体戦だろ?こっちにはイザークがいるんだから、俺達の勝ちは決まったようなものじゃないか。わざわざ稽古しなくったってさあー」

「その言い訳がリヤッカ殿に通じるならいいけどね」

「あー、はいはい....」

敵に回すと煩くてかなわない王子のお目付役の名前が出た途端、バーナダムも仕方なさそうに重い腰を上げた。だるそうに軽いウェーブのかかった金の髪をかきあげながら、ベンチのそばに立てかけてあった木剣を手にしてアゴル達のもとへと歩き出す。その様子を、隣に座っていたジーナが見上げてクスクスと無邪気に笑った。

****


「−−−俺達、せっかくだから町に買物にでも行ってくるよ」

バラゴとイザーク、バーナダムとアゴルがペアになって稽古をはじめてしばらくすると、ただ見ているのに飽きてきたらしいロンタルナとコーリキが、揃って観戦席のベンチから立ち上がった。

「なんだかしばらくかかりそうだしさー。見てるだけっていうのもつまらないからね」

手を止めて2人を振り返ったバラゴ達に向かって、ひらひらと手を振る。

「なんだあ、買物ぉ?」

「うん。明日の狩猟の会が終われば、一通り予定されてた行事は済ませたことになるからね。おそらく数日後には帰国ってことになるだろうし、そうなるとバタバタしそうだ。余裕のあるうちに、お母さんやグローシアにお土産を買っておきたいんだ」

「だが王子の婿入りが決まりゃ、お前らもまた何度もこっちに出向いてくることになるんじゃねえのかあ?」

「まあね。だからって、今回手ぶらで帰国したらどうなることか。この国の特産物である紫月照石は、グローシアのお気に入りだからね」

「趣味の良い妹を持つと苦労するなあ」

「なんとでも。可愛い妹の喜ぶ顔が見たいだけだよ、僕らは」

けけけ、とからかうバラゴを慣れた態度であしらって、ロンタルナとコーリキはにこりと笑った。

「あ−−−−!だったら俺も行きますよ!」

ふたりの言葉を聞いて、慌てたようにバーナダムが大きく右手で挙手した。

「ああん?お前、自分も選手だってこと、もう忘れやがったのかあ?」

「うわっ!」

そばに立つバラゴにごつん、と肘で後頭部をどつかれ、バーナダムがあたたた...と大袈裟に頭を抱えた。

「忘れてないけどさー。俺、ジーナと約束があるんだ」

その言葉に、ひとりまだベンチに座ったままだったジーナが、少し訝しげに目を上げた。

「−−−約束?」

「え、憶えてないの、ジーナ?この間、おにいちゃんが一緒に市に連れてってあげるよって約束しただろ?狩猟の会に合わせて、今日は城下町に割と大きな市が立ってるらしいよ。ロンタルナの言う通り、今日を逃したらもう買物に行くチャンスはないかもしれないし!」

ニコニコと満面の笑みを浮かべながらジーナに近づき、バーナダムは少女のすぐ目の前にしゃがみこんだ。ぽんぽん、とジーナの頭を軽く叩く。

「ね?行こうよ、ジーナ。約束通り、おにいちゃんが可愛い髪飾りを買ったげるからさ」

「でも....」

「−−−ああ、そうだったな」

バーナダムに続いて歩み寄ってきたアゴルが、ジーナのそばに立って腰に手を当てた。

「ジーナも楽しみにしてただろう。ちょうどいいじゃないか。連れてってもらうといい。リヤッカ殿には 俺からなんとでも説明しておくさ」

まあ、どうせイザークの一人勝ちだしね、と冗談っぽく肩をすくめてバーナダムにウインクする。

「でも、あたしはお父さんの...」

ぴょんとベンチから立ち上がり、反論しようと言いかけるジーナを 遮るように、アゴルはその頭にぽんっと軽く手を置いて優しく微笑んだ。

「どうせお父さん達はしばらくここで稽古だよ。目が見えてるロンタルナ達だって退屈してるぐらいだ。無理にお父さんの応援してなくてもいいから、楽しんでおいで。それに、バーナダムが何か買ってくれる機会なんてそう滅多にあるもんじゃない。約束を忘れられる前にちゃんといい髪飾りを買ってもらっておいで」

「あ、確かに。バーナダムが女の子にプレゼントなんて今まで聞いたことないよね」

「ないない。っていうか、ノリコに玉砕して以来、浮いた話のひとつもないもんね、バーナダムには」

「あの−−−、俺、ここにいますけど?」

ロンタルナとコーリキも加わって茶化され、バーナダムがなんとも言えない複雑な表情を見せる。その顔を見て、ロンタルナ達もわはははは、と軽い笑い声をあげた。

「ま、とにかく、いっておいで、ジーナ」

「....うん」

まだ少し不満げな表情をみせていたジーナも、父親の穏やかな笑みに負かされた様子で、最後にはこくんと頷いた。が、すぐにハッと顔をあげ、父親の上着の袖口をぎゅっと掴む。

「−−−−でも!明日は絶対にあたしも連れて行ってね!おいてかないでね!」

「もちろんだ。ジーナに良いとこ見せないとな」

アゴルにまた髪をくしゃっとやられ、ジーナはきゃらきゃらと嬉しそうに笑った。

その時だけは、まるで本物の少女のようなはしゃぎようを見せた『ジーナ』に、手を止めて少し離れた位置から仲間達の様子を見守っていたイザークは、少し複雑な思いでわずかに眉をひそめた。


******

「−−−じゃあ、次は俺がお相手願おうかな」

演習場を出ていく4人を手を振って見送ってからバラゴとイザークの元へ戻ってきたアゴルは、手にした木剣を両手で握り直しながら、イザークと向かい合っていたバラゴを遮るように間に立ち、イザークを正面からまっすぐに見据えた。

いつもの彼ならば、まだやり足りないと文句を言いそうなところだが、アゴルのこの言葉に素直に頷くと、バラゴは剣を鞘に納め、演習場の隅へと移動した。そのまま壁に寄りかかり、悠然と腕を組む。

「......」

バラゴの相手ならまだしも、後ろめたい思いをずっと引きずっているアゴルを相手に剣を振るうというのは、どうにも居心地が悪い。わずかに躊躇し、複雑な表情でゆっくりと木剣を構えたイザークに、アゴルは無駄のない鋭い動きで打ちかかってきた。

いまでこそ、いつも傍らにジーナを置き穏やかに微笑んでいるアゴルだが、その見かけに騙された者は痛い目をみる。若い頃から剣の腕を頼りに生業を立て、一時は自由都市リェンカの傭兵団隊長まで務めた男だ。一回りほど歳の違うバラゴやイザークには、体力ではもう及ばないかもしれないが、経験が物を言う戦場では、人間が相手であれば、まだまだ彼の右に出る者は少ないはずだ。

舞のような優雅な動きに合わせて、剣が鋭く風を切る。明らかに気後れしているイザークにかまわず、アゴルはどんどん間合いを詰めて攻めたてた。その勢いに負かされ、防御に徹していたイザークがわずかに後ずさったところに、より勢いよくアゴルが打ちこむ。

ガッ、と木剣同士がぶつかり合う鈍い音が響いた。

「−−−『あれ』は、遠見もできるのか」

顔の前に剣を構えた状態で打ち込まれ、刃を交えたまま、グググッと頭が至近距離に近づく。同時に、低く抑えた声で耳元に囁かれ、イザークはハッと目を見張った。

思わず腕の力を緩め、アゴルの目を見返す。

「な....」

「『あれ』は、誰だ?」

静かに、繰り返す。

「気づいて−−−いたのか」

愕然として呟いたイザークに、アゴルは、いつもの穏やかな性格からは想像できない、射るように鋭い視線を向けてきた。

「当たり前だ−−−−俺の娘だぞ。間違えるわけがない」

ぶつけるように言い放つ。

「あの晩から−−−最初からわかっていた。だがお前の様子があまりにもおかしい上に、何も言おうとはしない。これは何か裏があるのだろうと思って、話を合わせていただけだ」

「......」

アゴルがどれほどジーナを愛しているか、イザークはよく知っている。 おそらく、イザークがノリコを想うのと同等、もしくはそれ以上の強い想いで守ってきた存在だ。

それなのに。

ある日突然、自分の元へ戻って来た娘は、別の誰かに入れ替わっていた−−−−−。

自分の愛しい娘ではないとわかっていながら、敢えて何事もなかったかのように振る舞う。その菫色の瞳をみつめて、お前は誰だと事情を問いつめる代わりに、疑いを招かぬよう、優しさを装って微笑む−−−−それがどれだけの精神力を必要とする行為であるか、イザークには想像もつかない。

自分には、決してできる芸当ではない。その想いが、深ければ深いほど−−−。

「......」

驚きのあまり腕から力の抜けたイザークの木剣を、アゴルは両手の力でぐっと押しやった。わずかにぐらついて一歩下がり、剣を握った腕をぶらんと下に降ろして、イザークは返す言葉もなくアゴルを見返す。

「−−−もう一度聞くぞ。『あれ』は、今この場にいる俺達の会話を聞くことができるだけの遠見の力はあるのか」

いつもの、どこか飄飄とした態度とはまるで違う。刃の切っ先のような鋭い表情のままイザークの正面に立ち、アゴルが繰り返す。

「今なら、お前もちゃんと話せるのか」

「あ、ああ.....」

まだショックを隠しきれないまま、イザークはわずかに頷いた。
ふたりを遠くから見守っていたバラゴも、その様子に気づいて近づいてくる。

「−−−−うまく連れ出せたな」

「バラゴ−−−お前も....?」

「あったりめえだろが。何年腐れ縁やってると思ってんだ。お前の挙動不審な態度見てりゃ、一発だぜ」

ふん、とどこか自慢げに言って、バラゴは偉そうに腕を組んで胸を張った。

「ちなみに言っとくが、バーナダム達も皆わかってるからな。今日のことは最初から全部俺達が仕組んだことだ。まあ、上手く連れ出せてよかったぜ」

「バラゴ....」

「で?ここで話してても大丈夫なんだろうな?」

「ああ...。ジーナの身体に入っている間は、ほかを視ることはできないようだ」

静かに答えたイザークの言葉に、アゴルの眉がピクリとあがり、両の拳がぐっと握りしめられた。その腕が、肩が、小刻みに震えていることに気づき、イザークは言いかけた言葉を飲み込んだ。

「 ジーナは....本物のジーナの精神(こころ)はどうなった?」

動じるまい、と必死に抑えた声が、知らず震える。ぐっと握りしめられたアゴルの拳に視線を落としたまま、イザークはかすかに首を振った。

「大丈夫だ−−−失われてはいない。眠っているだけだ、と奴は言っていた。奴がジーナの身体を解放さえすれば、元に戻れるはずだ」

その言葉に、途端、アゴルの肩からふっと力が抜けた。希望が、見えた。

ふうっと大きく安堵の溜息をつき、そして一瞬軽く目を閉じてから、アゴルは再びイザークを正面から見据えた。

「−−−−全部話してくれ。最初から」

ここ数年、苦楽を共にし、お互いに支えあって生きてきた仲間達と目を合わせ、イザークはキュッと唇を結び、神妙に頷いた。

もう、ひとりで抱えて込んでおく必要はなかった。


********

「....マジか。狂ってるな、その姫さん」

淡々とここ数日のことを順序立てて語るイザークの話を静かに聞いていたバラゴの、最初の一言がそれだった。

「黒髪黒目ってだけで親にまで疎んじられて育った生い立ちには心底同情するけどよ。恨む相手を完全に間違えてるだろうが」

「ああ...」

冗談じゃねえ。

ジーナやノリコは、バラゴにとっても家族同様の大事な仲間だ。事情を把握して憎々しげに吐き出されたバラゴの言葉に、イザークは知らず自分の左肩を抱いた。

異質な存在と疎んじられ、やっと出逢った唯一人の愛する人間を目の前で無惨に奪われたら−−−自分もネッサのようには決してならないと、言い切る自信はもうなかった。この数日ノリコの存在を身近に感じられないだけで、気が狂いそうだ。

「−−−−で?どうするつもりだ。まさかお前にガールを殺せるなんざ思ってねえがよ。ノリコやジーナを助けるためには、そいつの言いなりになるほかねえんじゃねえのか」

苦しげに眉を寄せたイザークの横顔を、バラゴが硬い表情でみつめた。

「しかも会の最中に『天上鬼』としての正体を晒せって言われてもなあ....」

「−−−−−−−」

正直、打開策はみつかってはいない。ノリコをあの氷の封印から解き放つ方法はもとより、ジーナに取り憑いている以上、ネッサと戦う方法さえわからないのだ。

時間だけが、無駄に過ぎていく。

なんとかなる、という思いが徐々に萎えていくなか、ノリコを失うことへの恐怖心だけが急速に増長していく。行き止まりに追いつめられていくような感覚に、決して望んではいないはずの選択肢を選んでしまいそうになる。

「−−−−楽な逃げ道を選ぶなよ」

イザークの心の闇を見透かしたように、それまでは黙って何か考え込んでいる様子だったアゴルがピシャリと言った。ぐっと息を飲んで顔をあげたイザークの視線を、正面から受け止める。

「俺は....」

「お前はあの時、光の世界を選んだんだ。お前はもう、『天上鬼』じゃない−−−お前は、お前だ。己の中に自ら闇を呼び込むような馬鹿な真似はするな」

 『イザークは、イザークよ』

あの日、まっすぐにネッサを見返してノリコが言ったのと同じ言葉。それをもちろんイザークが知る術はないが、それは、あの地下神殿にラチェフとケイモスによって捕らえられていた時にも、『元凶』が幾重にもかけていた鎖から自分自身を解き放った際に直感で感じ取ったことだった。

「『天上鬼』はお前の本質じゃないだろう。お前は、光の側の人間だ。ノリコを想って不安になる気持ちはよくわかるが、お前が自ら闇を心に呼び込まない限り、二度と『天上鬼』の力に翻弄されることはないはずだ。どんなことがあったって、人前で破壊の化け物に成り果てるようなことにはならない−−−−大丈夫だ。まだ諦めるな」

希望を、捨てるな。

自分と同じように、ジーナというかけがえのない存在を失う恐怖に耐えているアゴルの力強い言葉だからこそ、そこには真実があり、説得力があった。

「アゴル....」

兄のような存在である彼の言葉が、ゆっくりと心に染みこんでいく。同時に、つい先程まで不安と恐怖で圧し潰されそうだった心が、重い枷を取り外されたように、急に軽くなっていくのがわかった。

「−−−−不本意だが、そのネッサ姫とやらがジーナの身体に執着してくれたことは、俺達にとっても好都合だったな。ジーナに取り憑いている以上は遠見の力が使えないということであれば、彼女がいない場所での言動に気をつける必要がない 。これで俺達も動きやすくなった」

腕を組み、アゴルが続ける。

「それに、彼女はお前を孤立させ精神的に追いつめることで、お前の心に闇の種を植えつけて『天上鬼』の力を発揮させようとしたようだが....あいにくだったな」

「?」

意味がわからず、かすかに首を傾げたイザークに、アゴルはその日初めて、偽りではない、心からの笑顔を見せた。

「お前には−−−俺達がいるだろう」

城でも神殿でも孤立し、ただひとりの愛する人を失い、孤独の中で死を選んだネッサにはないもの−−−心を許し、共に戦ってくれる 仲間。戦いの場で、自分の背中を任せることができる友。

「アゴル....」

「−−−ったく、なんだかなあ!」

何か言いかけたイザークを遮り、少し苛立ったように、呆れたように肩を怒らせ、バラゴが声をあげた。

「イザーク、てめえ、自分一人で勝手にぐだぐだ悩んでんじゃねーよ。そりゃあ、お前ほど大した力はねえかもしれねえが、俺達だって少しは役に立つんだ。それに、ノリコやジーナは俺達にとっても大事な仲間だぞ。外野に徹するなんて冗談じゃねえぜ」

「−−−−−!」

バンッ、と勢いよく背中を叩かれ、イザークは痛みとショックで面食らった。
バラゴが構わず続ける。

「ひとりで戦ってると思うんじゃねえ!俺達だっているってことを忘れんな!」

「バラゴ、お前....」

ノリコを失うことを恐れるあまり、大切なことを忘れかけていた。

この戦いは、自分ひとりのものではない。
共に戦ってくれる、この仲間達がいるのだ。希望は必ず、ある。

暗闇の中に希望の光が灯るように、イザークの漆黒の瞳に輝きが戻る。
バラゴとアゴルをみつめ返し、イザークは、ここ数日ぶりに初めて、ニッと不敵な笑みを口元に浮かべた。

「−−−−ノリコとジーナを取り戻す。力を貸してくれ」


2 件のコメント:

  1. ドキドキしながら読みました。
    苦悩するイザークの姿に胸が痛みましたが、旅の仲間たちの力を得て新たな展開の予感がしますね。
    次のお話しが待ち遠しいです~。

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    1. コメントありがとうございます!ちょっとイザークいじめ過ぎでしょうか??www
      次ぐらいからだんだん大詰めです。あんまりイザーク苦しめたくないけど、もうしばらくは辛いかなー。

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