6/30/2014

氷の鏡 第7章

「−−−−−!!」

馬丁に手綱を手渡そうと腕を伸ばしていたイザークが、突如、背筋に氷水を注がれたようにビクッと全身を強ばらせた。

先程視察から戻ったばかりの城の前広場。素早く振り返った視線の先には、今まさに馬車を降りようと扉に手をかけて顔をあげたばかりの、プラチナブロンドの美女。

深い海の色の瞳と視線が合ったのは、ほんの一瞬。
違う、と脳裏で言葉になるよりも早く、イザークはダッと地を蹴り、城内に向けて走り出していた。

(−−−−−ノリコ!!)

どこにいても感じられるはずの、ノリコの気配がない。
呼びかける声にも、応えはない−−−−。

(ノリコ、どこだっ!?)

********


あった。

ヒュン、と風を切って駆けながら、脳裏で警鐘が鳴りはじめる。

あった。

ついさっきまで感じていた気配の場所を目指して、長い通路を走る。

前にもあった。
こんなことが。

心の中を、言葉にできない不安の闇が見る間に覆っていくのを止めることもできず、イザークはただ夢中で走った。

すれ違う兵士達には、人影とも認識できなかったかもしれない。走る、というよりは、地を蹴るごとにはるか先へと跳んでいるに等しい。ほんの数瞬後には、広い中庭へ通じるまっすぐな通路を駆けていた。

「−−−あれ?イザーク?!」

正面から、ロンタルナが歩いてくるのが見えた。

ほんのわずかに速度を緩めたイザークの顔を認識し、青年が意表を突かれた様子で目を白黒させる。

「え?え?え?いや、だって今−−−−−」

彼の言葉が、自分の不安を急速に増幅させる。中庭のほうを指差しながら困惑しきった表情で呟くロンタルナのすぐ脇を、イザークは無言のまま一気に駆け抜けた。


「−−−ノリコ!!」

少し薄暗い通路を抜けた瞬間、急に視界が明るく広がる。

中庭に面した回廊から、階段を使わず直接芝生の上にザッと飛び降り、イザークは、先程までノリコの気配があったはずの場所に目を向けた−−−−が。

「−−−−−−−−−!!」

中庭の中央近く、小さな噴水のそばの芝生には、ピクニックシート代わりに毛布が広げられ、つい先程まで誰かがそこで食事をしていたらしい形跡がある。が、そこにノリコ達の姿はなく、代わりに立っていたのは−−−−。

イザークの登場に気づき、ゆっくりと振り返ったその姿は。

まるで鏡を見ているかのように、自分とまったく同じ姿をした男。ただ違うのは、見返してくるその漆黒の瞳には、まるで硝子玉のように生気がないこと。

ドクン−−−!

心臓が、大きく跳ねた。

驚愕に目を見開いたまま、呼吸をすることさえ忘れてしまったのはほんの一瞬。
イザークの全身がカッと怒りの気に包まれ、長い漆黒の髪がその背に炎のように広がった。

「きさまッ!!」

地を蹴って間合いを詰めるのと同時に剣を抜き、男に斬りかかる。
当然のごとくなんらかの応戦があるとのイザークの予測に反して、もうひとりのイザークは、その場に立ち尽くしたまま身動きひとつしなかった。

−−−−ザンッ!

すれ違いざま大きく横薙ぎされたイザークの剣が、青年の胴をあっさりと切断した。

「−−−−−−−−!!」

ザッと勢いを殺して立ち止まり、即座に剣を構え直しながら振り返る。
イザークの目が鋭く細められたのは、青年を斬ってしまったことにではなく、その手応えの無さに、だった。

まるで、溶けかかった雪の塊を斬ったかのような−−−−−−。

「.......」

無言で剣の柄を両手で握り直したイザークの目の前で、男の身体は、胴体部分でまっぷたつになり、切り口のほんのわずかな傾斜に合わせて、ずるり、と上半身が右に滑り落ちた。

血しぶきもなく、ただ、氷でできた人形の胴が外れたような、そんな不自然な動きで。
芝生の上にそのまま胴体部分から落ちた上半身は、ガシャッと無機質な音を立て、まさに氷のような脆さで粉々に崩れた。その場に残っていた下半身も、バランスを失い、同じように芝生の上に崩れて細かな氷の結晶と化す。

「−−−−ノリコはどこだ」

大量の氷の破片が散在する位置から目を離さず、イザークが、低く怒りに満ちた声で問う。

その視線の先には、いつの間にか、腰までの艶やかな黒髪にドレス姿の女の後ろ姿があった。うっすらと向こうが透けて見ているのは、それが実体ではない証拠。

『....やはりこの身体は長持ちせぬな』

振り返らないまま、すうっとドレスの袖口から覗いた白い腕を持ち上げ、女が呟く。

やはり−−−−−。

その声と、白い腕には覚えがあった。
胸の中に蘇ってきた砂のようなザラついた苦い思いに、身構えたまま、イザークがギッと奥歯を噛み締めた。

「ノリコはどこだ」

もう一度、繰り返す。

やっとその声が耳に届いたかのように、女が、ゆっくりとイザークを振り返った。

闇のように深い漆黒の双眸が、イザークの怒りに満ちた視線を事も無げに受け止める。
血のように赤く細い唇が、にぃっと凍りついた笑みを浮かべた。

『「目覚め」を返してほしくば、来るがいい−−−−私のもとへ』

すうっと音もなく持ち上げられた右手の人差し指が、城の後方にそそり立つ切り立った山へと向けられた。

『もう、遅いがな....』

「!!待て−−−−!!」

ハッと慌てて手を伸ばしたイザークの目前で、スッとその姿が霞のように薄れて消えた。

「−−−−−−!!」



ほんのわずかに躊躇した後、イザークは顔をあげ、軽く膝を曲げて地を蹴った。
中庭を囲む回廊の屋根部分に飛び乗り、そのままもう一度ジャンプしてトントンッと何度か壁を蹴りながら、軽々と上へと飛び上がる。

タッと軽い身のこなしで最上階の城壁塔のすぐ横に降り立ち、視界を遮るものがなくなったイザークは、女が指差した方角−−−城の後方にそびえる切り立った岩肌の山を見上げた。

『−−−−あの山の峰に、伝説の神殿があるんですよ』

今朝の鉱山視察へ赴く際、同行してたタルメンソンの騎馬兵のひとりが言ってた。

『でも、実際には誰もそんな神殿を見たことはないって言うし...。きっと単なる作り話ですよね。だって、尊き王家の巫女姫を、わざわざ王都からはるか離れた孤高の山奥に作った神殿になんか、住まわせるはずがない。それじゃまるで−−−−』

鉱山へ向かう公道の左に広がる針葉樹の森の向こう、人を寄せつけまいとするかのようにそびえ立つ山を見上げ、年若い兵士は明るく笑った。

『それじゃまるで、牢獄じゃないですか』

「−−−−−−」

いつの間にかカタカタと小刻みに震えだしていた右手を握りしめ、バッと城壁塔の側面に拳を打ち付けて震えを止める。目前の山を見上げ、イザークはギリッと唇を噛んだ。

切り立った山には、人が通った山道の痕跡なども見当たらない。普通の人間であれば、馬を駆ったとしても、噂の神殿がある峰に到着するまでに少なくとも数刻はかかるだろう。超人的なスピードと体力の持ち主であるイザークでさえ、全速力で向かっても半時はかかるに違いない。

あの女が指し示したのは、本当にその神殿なのか?そもそもそんな神殿が、実際にあの山に存在するのか?

『もう、遅いがな....』

不意に、冷えきった女の言葉が脳裏で繰り返される。

一気に胸を浸食した闇に圧迫されて吐き気を催しそうになりながら、イザークは、その言葉を打ち消すようにブンッと大きく頭をひとふりし、城壁の外側へ一気に飛び降りると、そびえ立つ山に向かって全速力で走り始めた。

(ノリコ−−−−−−!!)


********


「う....ん」

ぴちょん、とちいさな冷たい雫が頬に落ち、ノリコは、うつ伏せになった姿勢のままで、ぴくりと睫毛を震わせた。

「−−−おねえちゃん!」

すぐ隣に寄り添うように座り込んでぴったりとくっついて震えていたジーナが、ハッとしてノリコの肩を精一杯の力で揺さぶる。

「おねえちゃん、起きてっ!」

「−−−−−−−!!」

その切羽詰まったトーンの声が耳に届いた途端、ノリコは弾かれたようにガバッと身を起こした。

「ジーナ?!」

「おねえちゃんっ!大丈夫?」

「ジーナこそ、大丈夫?!」

どのくらいの間、自分が目覚めるのを待っていたのだろう。小刻みに震えている小さな身体を、ノリコはギュッと両腕で力いっぱい抱きしめた。同時に、自分達が今置かれている状況を把握しようと、素早く周囲を見回す。

「ここは....?」

一体、何が起こったのだろう?

覚えているのは、イザークにそっくりな姿をした『何か』に抱きすくめられ、氷のように冷たい指先で額を触られたのが最後−−−−−。

はっきりしているのは、今、自分達がうずくまっているのが、明るい陽の当たるタルメンソンの城の中庭ではない、ということだけ。

「.......」

空気がひどく冴えている。
ブルッと一瞬身震いして、ノリコは軽く唇を噛んだ。

最初は薄暗くてよく見えなかったが、目が慣れてくるにしたがって、自分達ががらんとした廃墟のような場所にいることを理解した。天上は高くドームのようになっていて、周囲には太い列柱が何本も等間隔で並んでいる。板石を敷き詰めた床は荒れ果てているが、その中央には、周囲に数段の段差のついた円状の祭壇のような場所まである−−−−神殿、だろうか?

周囲に人の気配はない。

あの男の仕業だろうか?城の中庭からここまで、自分達は一体どうやってやってきたのだろう?

考えれば考えるだけ混乱してしまい、ノリコは、不安に圧し潰されそうになりながら、震えるジーナを抱きしめる腕に力を込めた。

(−−−−イザーク!イザーク!あたし、ここ!)

必死に心の中で呼びかけながら、何気に自分達の左側に目をやったノリコは、そこに動く人影をみつけてぎょっとした。

「!!!!!」

びくりと反射的に飛び上がったあと、それが、すぐそばにある大きな鏡に映った自分自身の姿であったことに気づいて、ホッと胸を撫で下ろす。いや−−−鏡ではなく...。

「....月貴石?」

ずっと以前に見た、『元凶』が巣食っていた洞の中に群立していた巨大な月貴石を思い出す。が、それよりも遥かに巨大で、壁一面を天井まですっかり覆いつくしている。壁全体が、まるで大きな鏡のようだ。

「何、これ.....」

「−−−−氷、だよ」

背後から不意に声がして、今度こそノリコは息が止まるかと思うほどビックリして飛び上がった。聞き慣れない女の声。反射的にジーナを背後に回して両腕で庇いながら、ノリコはバッと声のするほうを振り返った。

「この神殿は、山の神を祀るためにもう何百年も昔に建てられた神聖な場所。その壁を覆う氷は、永い永い年月をかけて滴り落ち、蓄積されてできあがったものだよ」

抑揚のない、静かで、冷たい声。

その声に合わせて、中央の祭壇上にある二本の燭台にポッポッとかすかな音とともにひとりでに灯が点されたあと、そこから、周囲の列柱に設置された小さな燭台へと徐々に灯が広がっていった。

祭壇のすぐ下、ノリコ達の真正面の位置に浮かび上がったのは、漆黒の髪を腰まで伸ばした黒いドレス姿の女。

「−−−−−−!!」

視えるはずはないのに、ノリコが息を飲んだのと同時に、ジーナが小さく悲鳴をあげて、ノリコの背中にしがみついてきた。

「だ、誰?!」

必死に絞り出した声は、知らず震えていた。

けれど、負けるものか、と自分に気合いを入れながらキッと睨みつけてくるノリコを見て、女は、クッと喉を鳴らして笑ったようだった。

(イザーク....!!)

「−−−−『天上鬼』を呼んでも無駄だ、『目覚め』の娘よ。この地には、私が固く結界を張り巡らせている。そなたの声は、誰にも届かぬ」

助けを求めて必死に叫んだノリコの心の声を聞き取ったかのように、女が楽しそうに呟いた。その言葉に、ノリコがビクッと身体を震わせる。

『天上鬼』と『目覚め』−−−−−その名で呼ばれるのは、随分と久しぶりだ。

そして、初対面からその名で自分達のことを呼ぶ人間に、これまで一度も会えて良かったと思った試しはなかった。

危険。危険。危険。

頭の中で警鐘が鳴りはじめる。ジーナを背中に守った姿勢のまま、少し離れた位置に立つ女から視線を外さず、ノリコはゆっくりと立ち上がった。ノリコの腰にしっかりと掴まったまま、ジーナも一緒に立ち上がる。

「お、おねえちゃん.....」

消えそうな震える声で。

「その人...さっき、中庭で会ったおにいちゃんと同じ....」

やっぱり。

理屈では説明がつかないが、そうではないかとノリコも考えていた。

何がなんだか訳が分からないことばかりだけれど、ひとつだけ確かなのは、この人は自分達の味方ではないということ。逃げなければ−−−−なんとしても。

(なんとか結界を解く方法は.....)

とにかく、イザークに居場所を伝えなければならない。

結界を張るのに使われているのが月貴石であれば、部屋の四隅に石が置かれているはずだ。それを外せば、イザークに連絡が取れる。そう思い、ノリコは素早く周囲を見回してみたが、残念ながらそれらしきものはどこにも見当たらなかった。

「結界を張るのに、月貴石など使ってはおらぬ....」

ノリコの考えが手に取るようにわかるのか、女がまたもクッと喉元で笑った。

「月貴石の力など借りるまでもない。−−−−この地を覆いつくす氷には、元々特殊な力が秘められていた。そこに、私の怨念を吸収させて作った最強の結界だよ。この結界を破ることは、誰にも叶わぬ。ここから出るも入るも、私の許しなしには無理−−−」

「お、怨念って−−−なんのことなの?」

月貴石の力を上回るほどの結界を作り出せる−−−。そこまでの憎しみを、どうして。

その憎しみの対象は何なのか−−−−誰なのか。

人はひとりでは生きられない−−−−。この世界のすべてが、誰もが、ほかの誰かに支えられ、つながって生きていることを光の世界に学んだノリコには、自分とどこかでつながっているこの世のすべての存在に−−−たとえあの『元凶』にでさえ−−−『憎む』という感情を持つことができない。わからない。

それなのに、この女(ひと)は、想像を絶するほどの強さで、『何か』を憎んでいる。恨んでいる。

「......」

困惑するだけでなく、なぜか哀れみさえ覚えてしまい、ノリコは顔を曇らせた。
それを見て、女が再び可笑しそうにクククッと喉を鳴らす。

「幸せだな、『目覚め』の娘は」

「え?」

「人を憎むという感情を知らずに生きてこれるとは、なんとも幸せなことだ」

「う....」

(ば、馬鹿にされてる.....)

それまでに感じていた危機感も一瞬忘れて、ノリコはぐっと口ごもった。それからハッと我に帰り、改めて女を睨みつける。

「だ、だから!あなた−−−誰なの?!あたし達に何の用よっ!」

「おや−−−−−」

必死に虚勢を張って声を上げるノリコを見て、それまで少し離れた位置から話かけていた女が、すーーっと音もなく、地を滑るような不自然な動きで二人に近づいてきた。

ビクッと身体を強ばらせたノリコの目と鼻の先まで顔を寄せ、ニィッと笑う。

「まだ気づいていなかったのか。つい昨日、私の顔を見たばかりだというのに」

息がかかるほどの至近距離にいながら、まるで人の気配が感じられない、なんてことがあり得るのか。覗き込んでくる漆黒の双眸を見返しながら、ノリコはあっと息を飲んだ。

陶器のような白い肌。この、闇を埋め込んだような瞳は−−−−−。

「ネッサ...姫?」

まさか、という思いのままに愕然として呟いたノリコを満足そうにみつめ、女は、フフフッと血のように赤い口の端をつりあげた。

「まさか、そんな.....」

城の『王家の間』に掲げられていた肖像画の少女よりは、だいぶ大人びた印象。だが、最初に顔を合わせた瞬間に気づかなかったのが不思議なくらい、間違いなく同じ顔。

だが、ネッサ姫はもう百年以上も前に非業の死を遂げたはず−−−−−。

「.......」

こちらの世界に来たばかりの頃なら、相手が幽霊であるとわかっただけでパニックに陥ったかもしれない。が、この世界で3年以上を過ごし、様々な体験をし、人ではない存在にも多々出会った今では、それぐらいではさすがに腰を抜かすこともなくなった。

が、それでも、今目の前にしている相手は、見つめられるだけで背筋が寒くなった。彼女の内に渦巻いている怨念の正体が、一瞬、垣間見えたような気がして。

「−−−−−−」

一気に自分の顔から血の気が引いていくのを、ノリコは自覚した。

ノリコが自分のことを認識し、改めて畏怖の念を持ったことに満足したのか、女−−−ネッサは、唇を笑みの形に歪めたまま、すうっと滑るように再び二人から身を離した。

「−−−−お目にかかれて光栄だよ、『目覚め』の娘よ」

「どうして....あたしのことを....」

「そなたのことも、『天上鬼』のことも、良く知っているよ。私の血族の娘−−−あれの目を通して、私は色々なものを見ているからね」

「....サーリヤ様?」

まだよく意味がわからず困惑の表情を見せるノリコを、ネッサは面白そうに見つめている。

「伝承では、私は稀代の巫女姫だと伝わっておるらしいが、そうではない。私が仕える神などおらぬ....占者として、多少の術は心得ておったが、な」

すっと持ち上げた自分の白い右手をすぐそばの列柱に設置された燭台の灯にかざし、灯が透けて見える様を、ネッサは無表情にみつめた。

「...もう元の身体には戻れぬが−−−その代わり、心を飛ばして様々なものを視る術(すべ)を手に入れた。あの娘に自覚はあるまいが、あれは巫者として私の目になってくれた。あれの目を通して、私は世界が視える。動かす事ができる−−−−あの娘の中に入り、その意識を操り、ザーゴの王子との婚姻を希望し、その警備団に『天上鬼』を加えるように指示することも、な」

「−−−−−!!」

徐々に事の次第が明らかになってきた。

ネッサの目的は、最初からイザークをこの国に呼び寄せることだったのだ。ザーゴ国への婚姻の申込みも、ガールの警備隊長にイザークが指名されたことも、すべて彼女によって計画されたことだった。

「どう...して、イザークを....?」

「力を借りたいのだよ。『天上鬼』と−−−−そしてそなたの、な」

「あたし....?」

「私の力のみで『天上鬼』をそうやすやすと動かせるとは思っておらぬ。−−−−あれは、自分の信念以外では決して動かぬ者だ。が、愛しいそなたを守るためであれば、どんなことでもやってのけよう?」

「な−−−−!?」

イザークを思い通りにするために、自分を人質にしようとしている。それを理解して、ノリコの顔がさらに青ざめた。自分の存在が、イザークの重荷になろうとしている。

「そんなことさせないっ!」

思わず叫んだノリコに、ネッサがにぃっと口の端を歪めて笑った。

「ほぉ....そなたに何ができる?」

呟いて、再びノリコ達のそばに近づいてくる。

「あ、あたしは....」

確かにその通りだ。自分には、なんの力もない。
イザークを守りたくても、いつも守られてばかりだ。

でも。

怖がってばかりはいられない。なんとかして守らなければならない。自分を姉のように慕ってくれているこの少女と、そして−−−この身に宿っている、小さな命を。

キュッと小さく唇を噛み締め、ノリコはまっすぐにネッサの瞳を見返した。

「−−−イザーク、よ」

「何?」

「『天上鬼』じゃない。イザークは、イザークよ。その名で彼を呼ばないで。−−−−イザークの力は、光の力。たとえあたしを人質にしても、光の力は、あなたのものになんか決してならない。あなたの憎しみが誰に向かっているのか知らないけれど、イザークの力をそんなものに使おうなんて、間違ってる!」

「−−−−そんなもの....?」

自分が無力であると知りながら、それでもきっぱりとした態度で挑むように自分を見据えてくるノリコをやや感心した様子でみつめていたネッサの表情が、不意に凍りついた。

「無知というのは幸せなものだな」

先程までの、どこか戯れているようだった口調が瞬時に消え去り、凍てつくような冷ややかな眼差しをノリコに投げかける。

「−−−−見るがいい」

スッと右手を上げ、ノリコの後ろを指差す。その指の動きに促されるように無言で背後を振り返ったノリコの目の前には、先程と同じ、天井まで続く巨大な氷の壁があった。

「....?」

「そなたの左、だ」

促され、素直に視線を壁の左側に移動させたノリコは、壁の向こう−−−−分厚い氷の中に、先程はわからなかったが、何か黒い塊があることに気がついた。

「え...?」

自分の目の高さよりもやや低い位置に、大きな黒い影が−−−−ふたつ。

「おねえちゃん....」

腰にしがみついてくるジーナの肩を抱き寄せながら、目を凝らす。

「−−−−−−!!」

思わず、息をのんだ。

ノリコ達からほんのわずかに左にずれた位置−−−−それまで死角になっていた位置には、金髪の青年の頭を両腕で胸元に抱き寄せた姿で目を閉じた、長い黒髪の女性の姿があった。まるで寝台の上で抱き合って眠っているかのような姿勢で、垂直の−−氷の壁の、中に。

「これは....」

「−−−それを見てもなお、『そんなもの』と言えるか?」

ネッサの声を背に受けながら、ノリコは、氷の中で抱き合うふたりの姿から目を離せなかった。

印象的な漆黒の瞳は閉じられているものの、長い黒髪の女性のほうは、間違いなくネッサだ。ただ、ノリコが目を離せずにいたのは、ネッサに愛しげに抱きしめられている男性のほうだった。

腰に剣を携えた兵士姿のその背には、何本もの矢が深く刺さったままだ。口元から滴り落ちる血もそのままの姿は、まるでつい先程、息絶えたばかりのように見える。

「これは....」

ノリコが聞いた話では、彼は、ネッサとふたりで逃げる途中で誤って谷へ落ちて亡くなったはずだ。なのに、これではまるで−−−−−。

「それが、谷へ落ちた者の姿だと思うか?あれは−−−−殺されたのだ。我が父が放った刺客に。私を−−−−守ろうとして」

いつのまにかノリコのすぐ傍らに移動してきていたネッサが、無表情に氷の中を覗きこみながら呟く。まるで抑揚のないその声が悲しみに満ちていることに、ノリコは初めて気づいた。

悲しみが強すぎて、この人は、すべての感情を失ってしまったのだ。

「私の異端な姿を忌み嫌い、この果ての地に幽閉しただけでは足らず、この地を去り安住の地を探そうとした私達を、国の醜聞になるとして殺そうとしたのだ、我が王は。私の−−−実の父が、な」

「そんな...」

「幽閉された私の見張りを任されたわずかな兵士のひとりだったあれが...私にとっては唯一の希望だった。私を私として愛してくれた、ただひとりの人間だった...」

まるで独り言のように続けるネッサの無表情な横顔を、ノリコは無言でみつめた。その姿に、なぜかイザークの面影が重なる。

「私の願いはただ、私を異端と見なさぬ国で、彼(か)の者とふたりだけで静かに暮らすことだった。それだけのことが、なぜ適わぬ?なぜ、この運命から逃げることさえ許されぬ?それほどまでに、この私が疎ましかったということか....」

「ネッサ姫....」

何か言葉をかけたくて、ノリコは口を開いた。が−−−−どんな言葉も慰めにさえならないことは明らかで、その後を続けることはできなかった。

「....この世で唯一自分を愛してくれた者をその腕の中で失い、耐えきれず、自らも舌を噛んで死を選んだ。それでも死ねずに魂だけになって彷徨うこの身...」

この人が唯一愛した人間は、すでにこの世にはいないのだ。

何を言っても、何をしても、もう戻らない。この人は、すべての光を奪われてしまった−−−−−真の闇の中に、ただひとり、取り残されてしまった。

心が、壊れてしまった。

愛する者を失った暗闇の中で、この人は、百年以上の永い歳月を過ごしてきたのだ。おそらく−−−−愛する者を奪った父王への怨念だけを増幅させながら。

「あたし.....」

あの時、『王家の間』で自分に問いかけてきたのは、本当にサーリヤだったのだろうか?イザークのいない世界で生きていくことなど想像できない、と答えた自分の言葉を思い出しながら、ノリコは打ちのめされていた。

ネッサの憎しみを、もう、『そんなもの』とは呼べなかった。

それでも−−−−−。

「間違ってる」

ネッサに同情せずにはいられなくなりながらも、ノリコは、左手薬指の蒼銀の指輪を親指でそっと触れながら拳を握り、胸元に寄せた。

「それでも、イザークを自分の復讐のために使おうとするのは間違ってる」

毅然とした態度で繰り返したノリコに、ネッサはフッと目を伏せたあと、ゆっくりと顔を向けた。再び開いた漆黒の瞳には、なんの表情も浮かばない。

「−−−無駄話はそろそろ終わりにしよう。不毛なことだ。所詮、幸せな人生しか知らぬそなたには理解できぬことだろうからな」

「そんな...!」

「私の計画には『天上鬼』が必要だ。そしてあれを動かすために、そなたにも力になってもらう」

有無を言わせぬ口調で言い、ネッサは身体ごとノリコ達のほうに向き直った。再びジーナを背に庇う。

「あ、あたしをどうするつもり?」

「私など、単に少し特殊な力を得た占者にすぎぬ....。所詮、『天上鬼』の敵ではない」

「が−−−−−」

言って、ネッサはスッと白い右手を持ち上げた。同時に、ノリコの後ろに隠れていたジーナが、小さな悲鳴を上げて喉元を押さえた。

「ジーナ?!」

「実体を失った今、この手で子供の喉を握りつぶす力はなくとも、その小さな肺の中の空気を瞬時に凍らせ、呼吸を止めてやることは容易くできる−−−−−」

淡々と言いながら、持ち上げた右手の白い指先を、まるで薔薇の花を一本持つような優雅な動きで握る。

「おね...ちゃ....」

その指の動きに合わせるように、ひゅうっとかすかな息を漏らしながら、ジーナが掠れた声を上げた。その顔が、見る間に土気色に変わっていく。

「−−−−やめてっ!!ジーナに手を出さないでっ!!」

ノリコが悲痛な叫び声を上げた。
なんとか止めようとネッサに飛びかかったが、ノリコの身体はするりとネッサの姿をすり抜け、勢いあまってばたっと床に手をついて転んだ。

「−−−−−!!」

「....ちゃ...ん」

慌てて膝をつき、立ち上がろうと振り返ったノリコの目の前で、ジーナの小さな身体が、がくんっと床にくずおれた。やっと呼吸ができるようになった様子で、床にうずくまったまま、ごほごほと苦しげに咳き込みはじめる。

「ジーナっ!!!」

「次は手加減はせぬ。それとも−−−次は、そなたの腹の子の息を止めてみせようか?」

冷ややかな声に、ネッサの本気が伺える。妊娠していることまで把握されていたことに初めて気づき、ノリコはぞっとして、床にひざまづいたままの姿勢でぐっと震える両手を握りしめた。

「....あたしにどうしろって言うの?」

自分の無力さが呪われる。

悔しさに奥歯を噛み締めながら、ノリコは青ざめた顔でネッサを見上げた。

「壁の前に立て」

圧力的な態度でノリコを見下ろし、ネッサが静かに口を開く。

言われるままにゆっくりと立ち上がり、ノリコは、まだ床にうずくまったまま肩で荒い息をしているジーナのすぐ横に立ち、氷の壁に向かった。ごくっと喉を鳴らした後、顔だけを向けてネッサを見る。

勝ち誇ったように、ネッサがにぃっと口の端をつり上げて笑みを作った。

「言ったであろう?それは、この神殿が建てられた時から永い永い年月をかけて蓄積され、特殊な力を得てできあがった壁だよ。ただの氷ではない。その上で、私の術がかけてあるのだ。自らの意思で入ると決めた者しか、中には入れないのだよ」

「あたしに....この中に入れっていうの?」

「心配せずともよい。命まで奪おうというのではない。しばらくそこで眠ってもらいたいだけだよ。『天上鬼』が協力してくれさえすれば−−−私の悲願が達成できさえすれば−−−すぐにも解放しよう」

そんな言葉を信頼できるわけがない。が、今の自分に、ほかにどんな選択肢が残されているだろう?

「−−−−どうすればいいの?」

固い声で、尋ねる。

苦しむノリコの心を悦ぶかのように、ネッサは微笑んだ。

「簡単だよ。壁に両手をつき、入りたいと願いながら一歩踏み込むだけで良い。あとは私が手伝おう」

「−−−−−−」

言われるままに氷の壁にそっと両手をつき、ノリコはキュッと唇を噛んだ。

(イザーク....)

迷惑をかけることになってしまう。苦しめてしまう。けれど、今はほかに方法が思い浮かばない。

(ごめんなさい.....)

苦しげに目を伏せ、ノリコは心の中で何度も何度もイザークに謝った。

ジーナの命を救うために。
イザークと自分の子供を、守るために−−−−。

(イザーク、愛してる。誰よりも−−−−−)

「おねえちゃん....ダメっ!!」

まだ苦しげに肩で息をしながら、ジーナが必死に訴えかけた。その姿を心配げに振り返り、そしてまたネッサに視線を移し、ノリコはその人形のように端正な顔を睨みつけた。

憎しみ、という感情がどんなものであるのか、真に理解した瞬間だったかもしれない。

「ジーナを助けるって約束して」

「−−−−約束しよう。この娘の命は助ける」

にぃっと笑い頷くネッサを確かめたあと、ノリコは、意を決したようにぐっと顔をあげ、鏡に向かってまっすぐに歩を踏み出した。

(イザーク.....!!)

5 件のコメント:

  1. リンドロス2014年6月30日 4:59

    キャー、続きが気になって今晩寝れません・・・・・いつも楽しみに読ませていただいてます。早く安心させてくださーい!!

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  2. 初めましてです。彼方からの大ファンで、偶然こちらにお邪魔して、ハマってしまってます!
    続きが気になります~!
    こちらを楽しみに仕事頑張ってきます(*^^*)

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  3. お待ちしておりましたーー!!!ノリコが強い!展開が楽しみすぎます。ワクワクハラハラでお待ちしております!!

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  4. ストーリーの奥深さに引き込まれてしまい、頭から離れません。
    続きが、待ち遠しいですー!

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  5. 皆さん、温かいお言葉ありがとうございます!なんかまた仕事忙しくて、なかなか仕上げられませんでした。スミマセン。ご期待に添えたでしょうか?ああ、ここからが大変....頑張ります!

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