「−−−−−よいしょっ、と!」
夕暮れ時。つい先程隊商から仕入れたばかりの異国の小物がたくさん詰まった大きな木箱をどすん、と店の奥隅に降ろし、ガーヤはふうっと息をついた。
昔から力自慢ではあったけれど、さすがに50を優に超えた今では、あまり無理もできない。左手を腰にあて、ポンポンと軽く右手で自分の肩を叩きながら、ガーヤはくるりと背後を振り返り、女手ひとつで切り盛りしてきた自慢の店を見回した。
以前はザーゴ国の片隅の小さな町で雑貨屋を営んでいたが、ジェイダ左大公のクーデター騒ぎのイザコザで駄目になった。『元凶』との戦いが終わった後、一度はあの町に戻ろうかと考えたこともあったが、最終的には、たったひとりの家族である双子の姉、ゼーナが暮らすセレナグゼナに落ち着いた。
戦いでの功労を認められ、グゼナ国王から頂いた功労金のおかげもあり、城下町でも特に人通りの多い一等地に新しい雑貨屋を開くことができ、それなりに繁盛している。
(色々あったけど、幸せだねぇ....)
波瀾万丈な半生だったが、残りの人生はゆったり穏やかに過ごしていけそうだ。
満足げにニッコリと笑ったガーヤの笑顔の先には、ホウキを手に甲斐甲斐しく店の軒先を掃除しているノリコの姿があった。
(ノリコ.....)
『元凶』との戦いが終わって1年半ほどは、光の力を世界に配る役目を果たすため、イザークと共に各地を転々としていたノリコだったが、今はイザークと結婚し、この街に落ち着いていた。
グローシアやバーナダムなど、歳の近い仲間達が多くいるザーゴにいずれは落ち着くのだろうと思っていたガーヤは、ふたりがセレナグゼナに居を構えることになったのを知った時、心から驚いた。が、『おばさんのそばで暮らしたいの』とノリコに言われ、顔の筋肉がこれ以上はないというほど緩んでしまった。
(娘ってのは、きっとこんな感じなんだろうねぇ....)
イザーク達が仕事で数日家を空ける時など、ノリコはよく店を手伝いに来てくれる。小さな店なのでひとりでもなんとかなるが、やはり話し相手がいるというのはなんとも嬉しいことだった。
(ああ、幸せだねぇ....)
ガーヤの暖かい視線に気づき、ノリコが振り向く。
「おばさん。こっち、もうすぐ終わるから」
「いつもありがとね、ノリコ。でも、もうそろそろ帰ったほうがいいんじゃないかい?今日はイザークが帰ってくる日だろ?」
「大丈夫。今回は、終わったらここに迎えに来てくれることになってるの」
「そうかい。じゃ、今日はうちで夕飯を食べて帰りな。腕を振るうよ」
「うわぁ、嬉しい!おばさんの料理ってホントに美味しいんだもん」
心から嬉しそうに、ノリコが満面の笑みを浮かべる。その笑顔があまりにも愛しくて、ガーヤはずんずんと大股でノリコに歩み寄ると、その頭をぐいっと力強く両腕で自分の胸に抱き寄せた。
「あー、ノリコってホントに可愛いっ!!」
「お、おばさん〜〜〜〜」
ガーヤの厚みのある大きな胸の谷間に顔を押し込まれる形になり、ホウキを手放し、ノリコが苦しそうに手足をジタバタさせた。ガーヤは構わずギュッとノリコを抱きしめたまま、その栗色の髪に頬をすり寄せている−−−−と。
「−−−−ガーヤ。すまんが、俺の妻を窒息死させないでくれるか」
すぐそばから、わずかに笑みを含んだ穏やかな声が降ってきて、ガーヤはノリコを抱きしめる腕の力を緩め、笑顔のままで顔をあげた。
「おや、イザーク。おかえり」
長い艶やかな漆黒の髪をバンダナで押さえた、いつものスタイル。肩にかけた荷袋の紐を軽く片手で握り、もう片方の手を店先の壁に添えて立った青年が、名を呼ばれてかすかに口の端を上げた。
「−−−イザーク!」
ガーヤの腕の中から脱出してぷはっと大きく息をついた後、ノリコも、すぐそばに立つ愛しい青年の姿を振り返り、パッと花が咲いたような笑顔になった。
てててっと駆けてイザークの前に立ち、照れたようにうっすらと頬を朱に染めながら、改めてにっこりと微笑む。
「ごくろーさまでした、あなた」
出会って間もない頃、この世界の言葉をまだ十分に理解していなかったノリコが誤ってイザークをそう呼んでしまい、お互いに色々と居心地の悪い思いをしたあの日。言葉が堪能になった後、その言葉の意味を初めて理解したノリコの慌てに慌てた姿を思い出すと、今でもイザークは思わず吹き出してしまう。
だが結婚してからは、仕事から帰宅したイザークに頬を染めながらそう告げるのが、ノリコの習慣になった。
...結婚してまだ数ヶ月。なかなか慣れない『あなた』という言葉が照れくさい反面、イザークと家族になったことを実感させてくれるその言葉は、口にするたびにノリコを幸せな気持ちにしてくれる。
あの時はただ面食らってうろたえるだけだったイザークも、今は、その言葉を聞きたいがために、家路を急ぐこともしばしばだった。
「−−−−ただいま」
愛しい新妻の頭にぽんっと手を置き、イザークはにっこりとその心のままに暖かい笑みを口元に浮かべた。
********
「あー、おいしかった!おばさんってホントにお料理上手だよね。あたしももっと頑張らなくっちゃ!」
「−−−−ノリコの料理も同じぐらい美味い」
「あ、それはどー考えてもお世辞っ!この間、煮物焦がしちゃったの知ってるくせに〜」
ぽかっと軽く肩を叩かれ、イザークが声を出して笑った。
以前は本当に珍しかったその笑い声も、結婚してこの地に落ち着いてからは聞くことが増えた。以前そのことをノリコが指摘したら、イザークは、『お前のせいだ』と言って少し照れくさそうにノリコの頭をわしゃわしゃとかき乱した。
「あー、お月様きれいだねー」
ガーヤのうちで夕食をご馳走になり、ふたりがやっと帰途に着いたのは、もうだいぶ夜も更けた時間だった。夜空に浮かぶ明るい満月を見上げ、ノリコが感嘆の声を上げる。
首都の少し郊外にあるふたりの新居。最初は道の両脇にびっしりとあった家々が徐々にまばらになるにつれ、だんだんと周囲から人影も少なくなり、気がつくと、月明かりに照らされた石畳の道をふたりきりで歩いていた。
「−−−おかえりなさい」
イザークの右腕に両腕をまわし、そっとその肩に頭を寄せて、ノリコは改めてイザークがそばにいる幸せを噛み締めた。その嬉しそうな横顔を見やり、イザークは、無言のまま、ぽんぽん、と自分の腕に回されたノリコの手の甲を軽く叩いた。
「......」
ゆっくりと、寄り添って歩く。
こうやってふたりで静かに歩く時間が、イザークにとってはひどく心地よい。特に何も言葉も交わす必要も感じず、ふたりは歩調を合わせながらゆっくりと夜道を歩いた。
「犬を−−−−」
もうすぐふたりの家が見えてくる、という頃、イザークがぽつりと口を開いた。
「犬を飼おうかと思うんだが、どうだろう?」
「え?」
イザークの腕にぴったりとくっついたままで、ノリコがきょとんと顔をあげる。
「犬?」
「ああ。ノリコは−−−子供の頃、犬を飼っていたと言っていただろう?死んでしまったあと、特にお兄さんが辛くてもう飼わなかったそうだが....。いまでも、生き物を飼うのは反対か?」
すっと立ち止まり、イザークは、ノリコの反応を伺うようにその瞳を覗き込んだ。
「−−−イザーク?」
なぜ、急に。
つられて立ち止まり、無表情のイザークの顔を見上げながら、ノリコがわずかに小首を傾げた。
「どうしたの、突然?そりゃ、イザークが飼いたいんだったら、あたしは構わないけど...。何か理由があるんだったら、言って?」
まっすぐに見上げてくるノリコの瞳はとても澄んでいて、何も隠し事ができない自分を実感する。自嘲気味にわずかに口の端を上げ、イザークはしかたなさそうに小さく息をついた。
「最近−−−泊まりがけの仕事が多くて、ノリコに寂しい思いをさせているんじゃないかと」
ぽつりと呟いたイザークを、ノリコは大きく目を見開いて見上げた。
「えーっ?なになに?それじゃ、犬を飼いたいって...あたしのためなの?」
「いや....。ノリコも、いつもガーヤのところに手伝いに行ってばかりもいられないだろう。犬でもいれば、少しは気も紛れるんじゃないかと思ったんだが」
ちょっとした思いつきだったのだが。
少し気まずそうに続けるイザークを見上げたまま、ノリコはほんのわずかに眉を寄せた。
「うーん。そりゃ、イザークがいない間はすごく寂しいけど....。でも、長くてもほんの数日だし、あたしのところへ帰ってきてくれる、イザークの帰りを待ってる−−−って、それだけでも、実はすごく嬉しかったりするの。なんだかとっても妻らしいっていうか。それに−−−−」
言いかけて、ノリコは一瞬間を置き、それからそっと様子を伺うように上目遣いにイザークを見た。
「−−−それに、いつかはわからないけど、家族だって増えるかもしれないし」
「え?」
「赤ちゃん−−−−できるかも、しれない...でしょ?」
ボソボソと語尾を濁したノリコは、恥ずかしそうに頬を染めて俯いた。
(−−−−子供....?!)
ノリコに言われて初めてそんな可能性があることを知ったかのように、イザークは目前の闇に顔を向けたまま、大きく目を見張った。
イザークの動揺を感じ取ったノリコは、イザークの右腕からそっと両腕を離し、胸元に手を寄せた。無言で立ち尽くす夫の横顔を見上げ、少し不安になる。
「イザーク−−−−もしかして、子供、欲しくない...?」
明らかに沈んだ声にハッと顔をあげ、イザークは、うろたえたように首を振りながら、ノリコの両肩を掴んだ。
「違う−−−!!」
細い肩を掴んだ手に、知らず力がこもる。
「違う、そうじゃない!」
「でも....」
なんだか泣きそうなノリコの顔を見ているのがたまらず、イザークはその身体を両腕で抱き寄せた。自分の背に回るノリコの腕の温もりを感じながら、その髪に頬を寄せる。
「....ノリコと俺の子供を、欲しくないわけがない。すまん。ただ−−−−考えてもいなかったんだ。今よりももっと幸せになれる方法があるなんて」
「イザーク....」
ハッと顔を上げたノリコを、ほかの誰も知らない、甘い笑顔のイザークが見下ろす。
「俺は−−−ずっと独りだったからな。ノリコという家族を得られただけでも、俺にとっては奇跡に近いことだった。だから....『家族』というものが、ノリコひとりだけでなく、これからもっと増えていけるものだということに、気がつかなかったんだ。すまん−−−」
ノリコの頬を両手で優しく包み、イザークはその唇に口づけを落とした。
最初は軽く。そしてうっすらと開いたノリコの唇の間に舌を滑り込ませ、さらに深く、ゆっくりと口内を侵略していく。
「....イザ...ク...」
くらくらと眩暈がする。呼吸ができない。
腰がくだけてがくりと膝から崩れ落ちそうになったノリコの身体を抱き寄せて受け止め、イザークは、それでも口づけをやめなかった。
愛しさが溢れる。身体の芯が疼く。
月明かりの中、思う存分愛しいノリコの唇を味わった後、イザークはやっと腕を緩め、その細い腰を両手で支えながら、ノリコの顔を覗き込んだ。
「−−−−ノリコと俺の子供、か....」
呟いた声にも、喜びが滲む。
「家路を急ぐ理由が、またひとつ増えそうだな」
「あ、あの、でも、まだできたわけじゃない...から...」
先程の熱烈なキスでまだ頭の芯がぼーっとしたままのノリコが、身体に溢れる熱を解放しようとほうっと大きく息をつきながら、イザークの胸に力なく頭を乗せた。少し舌足らずになりながら、なんとか誤解のないようにと言葉を紡ぐ。
「い、いつかは−−−−って話、だからね....」
そんなノリコの頭に右手を添えて愛しげに抱きしめながら、イザークは、少し先の未来図を想像しているようなそんな遠い目を一瞬した後、今度は、限りなく嬉しそうに、にやりと悪戯っぽい笑みを口元に浮かべた。
「−−−だが、練習しておくに越したことはないな」
「え?」
言われている意味がわからず、ノリコが思わず顔を上げる。
「え?なに?」
「帰ろう−−−俺達の家に」
キョトンとしたノリコの顔を見てくすりと笑い、イザークは、その手を取って再び歩き出した。引っぱられて少し前のめりになりながら、つられてノリコも歩き出す。
「練習って....あ−−−−−っっっっ!!!」
振り返らなくても、耳まで真っ赤になったノリコの顔が容易に想像できる。
妻の手を引いて家路を急ぎながら、イザークはハッと声を出して笑った。
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