8/03/2014

氷の鏡 第8章

冷たい風が吹きつける、切り立った山の峰。

人ひとりがなんとか通れるほどの細い足がかりを難なく駆け上がり、イザークは、少し踊り場のように広まった場所にストンと降り立った。

「......」

広いこの山の中で、かすかながら人が踏み入った痕跡があるのはここだけ。少し下のほうには、以前は複数の馬を止めておくこともできたであろう、野営地にも似た広い空き地があったが、もう随分と永い間放置されて荒れ果てた状態だった。

本当に、ここが神殿の入口なのだろうか?

イザークの目前には、人工的に切り出された平らな岩壁が一面に広がっている。目線を上げると、随分と昔になんらかの文字が刻まれた痕跡があるものの、およそ入口と思しきものはない。

いや、違う−−−四角い枠の形に文字が刻まれた岩の中央には、確かに入口らしき部分がある。いや、あった、というべきか。上から大きな岩がいくつも落とされ、中へ入れないようにされている。

誰も入れないように封鎖したのか。それとも−−−−『誰か』が中から出ることを阻止しようとしたのか。

積み上がった岩の前に立ち、イザークは一番手前の丸い大きな岩にそっと右手を置いた。

「......」

大人10人がかりでも動かせそうにない大岩だ。普通の人間ならば、これだけの数の岩を退けて入口へ辿り着くことは不可能だろう。だが。

大岩に両手をつき、イザークはすぅっと大きく息を吐いた。

「ハアッ......!!」

イザークの力ならば、動かせないサイズのものではない。だが、両足を踏ん張り、さらに全力で押してみても、大岩はびくりとも動かなかった。

『−−−−ただの岩ではない。そなたの力でも動かぬよ』

不意に、女の言葉が直接頭に流れ込んできて、イザークは弾かれたように大岩から一歩後ずさった。

『さすがは天上鬼。早かったな』

淡々とした女の言葉が終わるよりも早く、幾重にも重なり積み上がった大岩の奥が、ポウッと青白く四角い扉の形に発光しだした。

先程はどんなに力を加えてもびくともしなかった大岩が、確かにまだそこにあるはずなのに、光を受けてうっすらと透けて見え始めたかと思うと、その奥にある大扉の姿を露にした。そしてその奥に続く、細い通路も−−−−。

『−−−−−おはいり』

かすかな残響を帯びた声が脳裏に響き、神殿内へと誘う。

大岩の前で躊躇したのもほんの一瞬。無表情のまま、イザークはゆっくりと神殿の中へ足を踏み入れた。

「......」

見えない重いカーテンをすり抜けたような、奇妙な感覚。

荒れた石畳の床の上に立った瞬間、それまで周囲から聞こえていた風などの雑音がフッと不自然なほどいきなり途切れた。まるで、見えない幕により完全に外界から防音遮断された異世界に迷い込んだかのように。

途端、さっきまではどこにも感じられなかったノリコの気配をすぐ近くに感じ取り、イザークは、ハッと息を飲んだ。

全身で警戒しつつも、焦る心のままに細い通路を駆け、数本の燭台の灯に照らされた薄暗い神殿内へ走り込む。

肌を刺すような冷気。大きな岩の支柱が、むき出しの荒れた岩壁に囲まれた広い部屋全体に等間隔に並んでいる。中央には小さな祭壇があり、右手には、岩肌全体を天井まで覆い尽くした分厚い氷の壁が。

「−−−−−−−−!!」

その氷の中にノリコの姿を目敏くみつけ、イザークは素早く駆け寄った。

「ノリコ....!」

床よりも少し高い位置に、ふわりと宙に浮いたような直立の姿勢で、目を閉じたノリコの姿があった。

「ノリコ!!」

ダンッと両の拳で壁を叩いても、ノリコから反応はない。
確かにそこに在ることは感じられるものの、その心に必死に呼びかけても、応えは返ってこない。

「ノリコ....」

とても息をしているとは思えない。まさか、という思いが脳裏をかすめる。
イザークは、自分の視線とほぼ同じ高さにあるノリコの血の気のない顔を愕然とした思いで凝視した。

「.....」

ノリコと自分の間を遮っているものは、この冷たい氷の壁だけだ。破壊できない厚さではない。

イザークは、左の掌を壁に当てたまま、右腕を引き、右の掌に『気』を集中させた。

(これさえ破壊すれば−−−−)

カッと目を見開き、右手に集めた『気』を一気に目前の氷の壁にぶつけようとした瞬間−−−−。

「−−−−いいのか?それはただの氷ではない。破壊すれば、中の娘もろとも粉々に砕け散るぞ」

先程までは頭の中に響いていた声が、今度は後方から直接背中に投げかけられ、イザークはハッと動きを止めた。

「きさまっ...!!」

壁に左手をついたままの姿勢で、振り向きざま、すでに右手に集中させていた『気』の塊を声のした方向へ素早く放つ。

−−−−−ドンッ....!

だが声のした場所にはすでに女の姿はなく、投げつけた『気』の塊は、祭壇の右の支柱の中央に大きなクレーター状の穴を作り、ガラガラと粉砕された岩石の破片が床に散らばった。

「...そう熱くなるな。『天上鬼』に真っ向から戦いを挑むほど、私は愚かではない」

まったく気配を感じなかった−−−−いや、感じる余裕がなかったのか。今度はいきなり右の耳元で女の声がして、イザークは弾かれたように振り返った。

が、またも女の姿はそこにはなく、薄暗い闇だけが目に入る。
イザークはギリッと奥歯を噛み締めた。

「...俺をここまで呼び出したのはお前だ」

目前の闇を怒りに満ちた瞳で見据え、低く唸る。

壁の奥のノリコを守るようにその前に立ち、腰の剣の柄にかけた左手は、無意識のうちに小刻みに震えていた。それは、ノリコを失うことを恐れた恐怖のためなのか、今までに感じたことがないほどの憤りのためなのか。

「姿を見せろ」

突き上げてくる怒りをなんとか抑えながら低く呟かれたイザークの言葉に応えるかのように、すうっと音もなく、祭壇の上に人影が現れた。

ゆっくりと視線をそちらの方角へ移したイザークは、途端、虚を衝かれて大きく目を見張った。

「ジーナ?!」

数段の段差がついた祭壇の上からこちらを見下ろしているのは、中庭で見た黒髪の女ではなく、今朝ノリコと一緒にタルメンソンの城に置いてきたはずの少女だった。

両手をそっと重ね、どこか大人びた姿勢で立つジーナハースは、見えるはずのない目でしっかりとイザークを見下ろし、にっこりと、らしくない冷たい笑みを口元に浮かべた。

「求めたのは『目覚め』だけだったが、こうも相性の良い身体まで手に入るとは嬉しい誤算だったよ。しかも、これの占者としての力もなかなかのもの。私の力を増幅させてくれる」

聴きなじんだ声のはずなのに、まるで異質な声音に聞こえる。

乗っ取った身体の使い勝手を確かめるかのように、悠然とした仕草で両手を持ち上げてしげしげと眺めながら、『ジーナ』が嬉しそうに言った。

「この姿であれば、今度はもう少し幸せな人生が歩めるやもしれぬな」

「....ジーナを盾にしてノリコを閉じ込めたのか」

怒りに満ちた低い声を漏らし、イザークは、内に沸き上がってくる怒りを抑えようと、ぐっと両手をきつく握りしめた。

そんなイザークの反応が愉しくてしかたない様子で、ジーナの姿をしたネッサが、わずかに小首を傾げて微笑む。

「−−−羨ましいほど幸せな娘だよ。憎しみひとつ知らず、大切なものを数多く抱えて...。この娘の命と引き換えに、自ら進んで中に入った」

「きさま....」

「だが、『目覚め』との約束は守っているぞ。この娘の命は助けた−−−今は私の意識下で眠っているが、この身体には傷ひとつつけてはいない」

クククッと喉を鳴らすその姿は、イザークには、もうジーナには見えなかった。

だが、間違いなくその身体はジーナのもの。その精神も、その中に囚われたままのはず。安易に傷つけることなど、もちろんできない。

「−−−−あんたは一体何者だ」

自分達のことを、『天上鬼』と『目覚め』と呼ぶ女−−−−。

「最初から、俺とノリコをここに呼び寄せるための計画だったのか」

ノリコを氷の中に閉じこめ、ジーナハースの身体を奪い、自分に有無を言わせず従わせる状況を用意周到に作り上げた。ここまで手の込んだ方法で自分達を呼び寄せた以上、その目的は、『天上鬼』の力を利用することに間違いないだろう−−−−あの、『元凶』のように。

「目的はなんだ」

フッと何かのスイッチが切れたかのように、イザークの中で、急にすべての感情が掻き消えた。いや、消さなければ、怒りのあまり女を殺してしまいそうだった。

「さすがは『天上鬼』、といったところか」

祭壇上のジーナが、愉しそうにまたクッと喉を鳴らす。

「そなたには、直接『見せて』やるのが早かろう...」

「何?」

言葉の意味をイザークが理解するよりも早く、見えない衝撃波がドンッと正面から打ち寄せてきて、超音波のようなキィィィィンという音とともに、イザークの全身が瞬時に闇に飲み込まれた。

「うあ?!」

まるで過去の自分の記憶を辿っているかのように、脳裏に鮮明に浮かび上がってくる情景−−−−。足元さえ見えない闇に身体の自由を奪われたまま、イザークは大きく目を見張った。見たくもないのに、有無を言わさず映像が脳に流れ込んでくる。

(これは.....)

光に満ちあふれた、タルメンソン城の中庭。

髪と瞳の色を除けばうりふたつの姿の幼い少女達が、花冠を作りながら笑い合っている。突如駆け寄ってくる、乳母らしき女性−−−−怯えたように周囲に気を配りながら、わたわたと黒髪の少女に頭からすっぽりショールを被せ、嫌がる少女の手をもうひとりの少女から強引に引き剥がし、連れ去って行く。

切り替わる映像。

美しく成長した黒髪の娘を遠巻きに取り囲む、いくつもの邪気に満ちた視線。クスクスと、嘲笑の渦に飲み込まれる。悔しげに、ギュッと両の手を握りしめる少女の後ろ姿。

徐々に、その姿を闇が覆っていく−−−濃くなっていく。

『なぜこの私の娘が−−−』
『姿だけではありません!あの娘には奇妙な力まであるのです!』
『あの闇のような目!ああ、恐ろしい!』

顔を両手で覆い、大袈裟に嘆く王妃らしき女性の姿と、それを扉の向こうから怯えた瞳で見つめる少女−−−−少女の姿に気づいた女性が忌々しげに手を払い、侍従達によって、少女の目の前で扉が固く閉じられる。

『父上、なぜです?!私が一体何をしたというのですかっ!』
『そなたがそばにいるだけで、あれが心を狂わせる−−−そなたは、生まれてくるべきではなかったのだ。私達の娘は、カイヤーナひとりで良かったのに....』
『父上...!』

兵士達に無理矢理馬車に乗せられ、長い長い時間をかけて連れてこられた、山奥の古びた神殿。窓ひとつない薄暗い神殿の奥に作られた自室には、たくさんの書物が積み上げられていたことだけが、せめてもの救い。

神殿の入口付近には、常に見張りの兵士が立っている。が、食事などの必要最低限の世話をする以外、少女とは口をきこうともしない者ばかり−−−−ただひとりを除いては。

『ネッサ様』

少女を中心に渦巻いていた闇が、ふわりと、溶けた。

肩までのやわらかい春の木もれ日のような色の髪−−−氷さえ溶かすかと思われるような、穏やかで温かい笑顔。刺すような神殿内の空気に心まで冷えきっていた少女の、ただひとつの希望−−−光。

『姿形など関係ない。あなたはあなたです』
『私はいつでもあなたのおそばに。何があっても。だから、あなたは決して独りではない』
『愛しています−−−心から。誰よりも』

ほかの兵士に気づかれないように、旅支度をするふたり−−−−。神殿の入口からどっと押し寄せてきた兵隊と−−−父王。

『やはり最初から情けなどかけるのではなかった』
『お前が国外に駆け落ちなどすれば、この国の醜聞となってしまう』
『これからカイヤーナの婚姻の儀があるというのに』

忌々しげに吐き捨てるように言い、ふたりを取り囲んだ兵士達に少女に矢を向けるように指示を出す王。愕然とする少女。

『父上、あなたは−−−−!』

何か言いかける少女の言葉を遮るように、腕を振り下ろし、死の宣告を行う。降り注ぐ矢に言葉もなく壁際で目を閉じて立ち尽くす少女−−−−と、少女に正面から覆い被さった広い背中。

『シュラク...!!!!』

悲痛な叫び声が神殿中に響く。幾本もの矢に背を余すところなく射抜かれ、少女を覆うように壁に両手をついたまま、青年が弱々しく微笑む。

『ネッサ様....』
『忘れないで....あなたは、独りでは、ない....』

『い..や...私を独りにしないで...シュラク....!』

少女の頬を、大粒の涙がぽろぽろと伝い落ちる。

口元にいつも通りの優しい笑みを浮かべたまま、力尽きた青年がぐらりと揺らぐ。反射的にその身体を両腕で抱きとめ、一緒に床に膝をつきながら、少女はさらに獣の咆哮のような叫び声を上げた。

『−−−−−−!!』

何かを叫んだ少女を中心に、カッと広がった閃光と衝撃波−−−−ふたりの周囲にいたすべての人間が、足元から大きく吹き飛ばされて地面に転がった。

『シュ..ラク...』

事切れる青年の身体を抱きしめ、その顔に頬を寄せたまま、少女が、怒りに満ちた視線を静かに上げる。その頬を伝う涙は、いつの間にか血の色に変わり−−−地面に尻餅をついたまま、恐怖におののき後ずさりを始めた父王をその眼差しで射抜く。

『赦さない....』

地の底から吐き出すような声で。

『お前も!王妃も!我が妹も!私からすべてを奪ったお前達すべての血筋が絶えるまで、呪ってやるっ!−−−−忘れるなっ!絶対に赦さない....!!!』

どろどろと渦巻く憎しみ。最後に残った一筋の光までも奪われた少女は、濃い闇に自分から身を投じ、この世のすべてに憎しみを向けた。

『赦すものか...っ!』

−−−−暗転。


「.....!!」

少女の最後の叫びがこだまのように耳に残ったまま、地面がぐらりと揺れたような気がして、イザークは、ガクッとその場に片膝をついた。

唯一無二の存在を目の前で失った瞬間のネッサの痛みが−−−悲しみが、直接心に流れこんできて、苦しさのあまり息が止まりそうになる。

狂ったほうがまだマシだと思えるほどの、底のない絶望感。

「−−−−そなたならば、きっとわかってくれると思っていたよ」

同じものを視ていたのか、ネッサが抑揚のない声で呟いた。

「家族からも愛されず....異端者として忌み嫌われ、独りで生きることを余儀無くされた。誰からも必要とされず、彷徨い....そして、出会ったのだろう?『目覚め』の娘に。ただひとりの−−−理解者に」

その姿はまだ祭壇上にあるのが見えるのに、その声だけは、まるですぐそばに立っているかのように耳元で聞こえる。

「私もそうだったよ....。あれが、私の唯一の希望だった。あれさえそばにいてくれれば、ほかに何も要らなかった。それを−−−奪われたのだ。私の目の前で」

「−−−−あんたと一緒にするな」

壁に手をついてゆっくりと立ち上がりながら、イザークは吐き捨てるように言った。
盲目の少女の姿を借りたネッサが、わずかに目を細める。

「....なんだと?」

「あんたには同情する。だが、俺は自分の憎しみのために罪もない女子供を利用などしない。俺は、あんたとは違う」

壇上のジーナを、まっすぐに見上げて。

断固とした態度のイザークを冷めた表情のまま無言で見返し、そしてしばらくの間を置き、ジーナは目を伏せてフッと笑った。

「....それはどうかな」

「何?」

「−−−『元凶』は、そなたを覚醒させて世界を手に入れようとしたらしいが、やつは『目覚め』の使い方を間違えた」

かつん、と靴音を響かせ、ジーナがゆっくりと確かめるような歩調で段を降り始めた。

「やつは『目覚め』を殺してそなたを狂わせ、自分の支配下に置こうとした。が、本当にそなたを−−−『天上鬼』を自由に操るつもりだったならば、やつは『目覚め』を殺す代わりに、決して逃げられぬ場所に捕らえ、その命を盾にして指示を出すべきだったのだ−−−『世界を滅ぼせ』、とな」

この、私のように。

ほんのわずかな段を降りきり、祭壇の前に立ったジーナは、再び両手を前で合わせ、王座に立つ王女のような凛とした佇まいで正面のイザークを見据えた。

「確かに、そなたと私は違うかもしれぬ。そなたは、たとえ『目覚め』を奪われたとしても、その憎しみのために人を利用する事はないやもしれぬ−−−が、『目覚め』の命を救うためならば、いかなることでも厭わずやる−−−−。違うか?」

「.....」

ネッサの見立ては、間違ってはいない。

この世の中に、ノリコ以上に大切なものなど何もない。ノリコの幸せのためならば−−−−彼女の笑顔を守るためならば、自分はどんなことでもやってのけるだろう。たとえそれが、世界中のすべてを敵に回すことを意味していたとしても。

「−−−−条件はなんだ」

ノリコを。あの氷の縛めから解き放つための。

その代償がたとえどれほど大きかろうと、断る術はないのだと十分承知していながら、訊かずにはいられない。

すべての感情を押さえつけた抑揚のない声でイザークが呟くのを、自分への抵抗を放棄したのだと解釈したネッサは、口の端を歪めてニィッと笑った。

「−−−三日後に、ザーゴ国使節団歓迎行事の締め括りとして、恒例の狩猟の会が行われるはずだ。タルメンソン中から、名のある貴族や王族はすべて参加する。その最中に...そなたが『天上鬼』としての姿を露にし、衆人環視の中でザーゴの王子を殺したら、どうなるだろうな?」

「−−−−−!!」

予想外の要求に、イザークは息を詰まらせ、目を見張った。

「何を...企んでいる...?」

動揺を隠せずに絞り出した声は、知らず震えていた。
冷めた笑みを口の端に貼りつけたままで、ネッサが続ける。

「ザーゴのパロイはどう出るか?その力を信じて任せた大事な息子を、『天上鬼』の手で無惨に殺害されたと知ったら。そしてその『天上鬼』が、王子が妻に迎えるはずだったタルメンソンの美姫を、『目覚め』の娘の代わりに妻に迎えたと知ったら?」

「な....!?」

パロイ国王だけでなく、ジェイダ左大公、そして自分達を知るすべての人間が、そんな馬鹿げた話を信じるはずがない。だが、自分が実際にガールを殺害する現場を、ロンタルナやバーナダムが目撃し、事実であることを彼らに報告したとしたら?

そして、衆人環視の中で力を発揮してしまえば、今は各国の首脳陣しか知らない自分の正体を、公に広めてしまうことになる。『天上鬼』の存在が、知られてしまう。

その『天上鬼』が、ザーゴ国王子を殺害し、タルメンソンに『寝返った』と広まったら。

今や大陸一の勢力を誇るザーゴを筆頭に、同盟国が一斉にタルメンソンへ攻め込んでくるだろう−−−−『天上鬼』を取り戻そうと。

これまで、自分達が時間をかけて光の力を各地に広め、少しずつ固めてきた平和が崩れてしまう。『天上鬼』の力を手に入れ、世界制覇をしようと願う『魔の種』を心に住まわせる人間が、また生まれてしまう。

「−−−戦争を始めるつもりか」

愕然と、呟く。

「あんたがそこまで憎んでいる相手は、もうとっくにいないんだ。その血筋だというだけで、王家を−−−この国を滅ぼすつもりか」

「そうだとしたら?」

あっさりと受け流すネッサが幼い少女の姿であればこそ、その言葉はひどく残酷に聞こえる。

「案ずるな。私の望みは戦乱ではない。この国の軍事力は微々たるものだ。常に保守ばかり考える王族だからな−−−軍はあれど、実際の戦を経験したことはない。だからこそ、先の『天上鬼』争奪戦の際にも、敢えて表立って動かなかったぐらいだ。ザーゴを筆頭に、大陸の主だった国々が一気に攻め込んでくれば、この国は一気に陥落する」

「あんたは...」

「そして首都陥落の直前、絶望に打ちのめされ、最後の希望としてお前にすがりついてくる国王一家を、その手で殺してほしい。自害したと見せかけて、な。そうすれば、『目覚め』を解放しよう」

「あんた−−−自分の言っていることがわかっているのか?」

愕然とした思いで、イザークは身を乗り出した。

「戦乱が望みじゃないだと?大陸中の国々から攻め込まれれば、あんたが憎んでる王族だけじゃない。まったく関係のない一般市民まで、何千という人間が犠牲になるかもしれないんだぞ?!」

「−−−忘れるな。ただ王家の血を絶やすだけならば、私ひとりでも十分できる。だが私の望みは、父王や−−−私の苦しみなど知らずに幸せな人生を送った妹カイヤーナの血筋の者達に、私が味わったのと同じ苦しみを....絶望を、味わわせてやりたいのだ。戦火に喘ぐ民の姿を目の当たりにし、自分達の無力さに打ち拉がれながら、絶望の中で死なせてやる」

ほかに何もすがるものを持たなかった者が、最後の光を奪われたことへの怒りの深さを目の当たりにし、イザークは声を失った。

今まで、志を同じくする者達と共に、時間をかけて各地に光の力を広める努力をしてきたのに。これほどまでに深く闇の世界に身を投じてしまった存在が、まだこの世には残っていたのか。

「あれを−−−『元凶』を倒したぐらいで、この世が光だけで包まれるとでも思ったか?光が強ければ強いほど、より濃い闇ができる。人の心は、光だけでは満たされぬよ。常に、憎しみや欲望と隣り合わせで生きている−−−闇が付け入る隙は、どこにでもある」

愕然と打ちのめされているイザークの表情からその思いを読み取り、ネッサが諭すように告げた。

「『天上鬼』の力を我がものにできるやもしれぬ、と知っただけで、一体どれぐらいの人間があっさりとその心に闇を受け入れるだろうな」

無邪気な顔で、クククッと喉を鳴らす。

目の前にいるジーナの姿をした過去の魂と『元凶』の大きな違いを実感して、イザークは言葉もなく目を見張った。

「.....」

当代無比の能力者であった『元凶』は、不死身の術に失敗して精神体となった後も、自身の復活を願い、『天上鬼』の力を手に入れて世界を自分のものにしようとした。

だがネッサは、世界など欲してはいない。自身の復活などどうでもいいのだ。彼女が求めているのは、この国の破滅だけ。自身が唯一愛した存在を奪った父王の−−−自分の血筋すべての根絶やしにし、復讐することだけを目的にこの世に心を残している。

欲を出すと、人は本来の目的を見失いがちだ。が、復讐さえ果たすことができればこの世に何も執着するものがない存在のほうが、自身の目的を見失わずに手段を選ばずまっすぐに突き進む分、より恐ろしいのかもしれない。

「無理だ....」

仁王立ちになり、握りしめた両の拳が小刻みに震える。

「俺には−−−できん」

ガールを殺すことはもとより、それが原因で戦争が起こり、罪もない何千もの命が失われてしまったら。たとえそれでノリコを救うことができたとして、自分達の正体が公に知れ渡ってしまったら、ノリコの安住の地はこの世界のどこにもなくなってしまう。また、明日も知れぬ逃亡の旅を死ぬまで続けなければならなくなる。

ノリコに平和な暮らしを取り戻してやるためには、元いた世界に送り返してやるほか、なくなるかもしれない。

「−−−それでも、生きていてくれるだけマシではないのか?」

私には、その選択肢さえなかったのに。

イザークの心中を読んだかのように、ネッサがふっと独り言のように呟いた。その瞬間だけ、憎悪に心を失う前の、彼女本来の姿が垣間見えたようだった。

が、次の瞬間にはその影さえ残さず、冷酷な闇の魂の化身に戻っていた。

「本当に残念だよ。お前なら−−−きっと私の思いを理解してくれると思い、ずっと待っていたのに。お前に逢えることだけを、まるで恋い焦がれるように待ち望んでいたのにな」

言葉とは裏腹に、蔑むような冷ややかな口調で言い、ネッサはまたクククッと笑った。

「『目覚め』もさぞ残念だろうよ...そなたにもう二度と会えずに永遠の時をこの地で眠ることになろうとはな」

その言葉にハッと息を飲み、氷の壁の中に眠るノリコの姿を振り返る。

ノリコの顔の前に右手をつき、イザークは、言葉にできない思いに切れるほどきつく唇を噛んだ。

(ノリコ.....)

すまない。

お前を守るためならば、化け物に変わることも厭わないと言ったはずなのに。

この世にノリコ以上に大切なものはない。だが、だからといって、何千もの罪もない人々を見殺しにすることはできない。そんなことは、ノリコも望みはしない。

それが、わかるからこそ−−−−−。

(−−−−−俺は.....)

「『目覚め』だけではない−−−その腹の子も見殺しにするか?」

「−−−−!!」

その言葉に、愕然として振り返ったイザークのすぐそばには、楽しそうに口の端をつりあげたジーナが立っていた。

「な..に..?」

「ああ、そうか。そなたはまだ知らんのだったな。『目覚め』の娘は、子を宿しているよ−−−お前の子を。『天上鬼』と『目覚め』の子であれば、さぞかし強い魂の輝きを持つ子だろうな」

どこかワクワクとしたような口調のジーナとは逆に、再び氷の中のノリコに視線を戻したイザークの顔は、今にも泣きそうな、苦しみに満ちていた。

(俺とノリコの....)

「なぜ....言ってくれなかった...」

ドンッと『鏡』を両の拳で叩き、額を押しつけ、イザークは苦渋に満ちた声を絞り出した。
応える声は、ないとわかっていながら。

(ノリコ.....)

「−−−そう気に病む事はない。『目覚め』もほんの先程知ったばかりのようだったよ。そなたに一刻も早く知らせたい、と目を輝かせてあの庭で『私』に抱きついてきたわ」

「......!」

面白がるような声に、全身に殺気を漲らせたイザークがバッと勢いよく振り返る。と同時に、ジーナの小さな身体は、尋常ではない跳躍力でふわりと宙に舞ったかと思うと、そのまま一気に祭壇の上まで飛んで、ほのかな燭台の灯の影の闇にその姿を隠した。

「言っておくが、『目覚め』をそこから出す方法は二通りしかないぞ。閉じ込められた自身が『出たい』と願って出てくるか、もしくは、術をかけた私が呼び出すか----。それ以外の方法で無理に解放しようとすれば、その娘を包む氷もろとも粉々に砕け散る」

「.......!!」

ハッと氷の中のノリコを振り返り、壁に両手をつく。

ノリコを永遠に失うかもしれない、という事実が改めて恐怖となって足元からイザークを震え上がらせた。

(ノリコ.....!!)

脳裏に、いつも自分に向けられていたやわらかな笑みが浮かぶ。
まだ見たこともない自分達の赤ん坊を、幸せそうに両腕に抱きしめているノリコの幻影がかすめる。

もう随分と前に消し去ったはずの闇が、イザークの中でゆっくりと頭をもたげ、その全身を包もうと蠢きだす−−−−−。

(ノリコ....俺は.....)



凍てついた暗闇の中に、クククククッ...と忌まわしい笑い声が響く。

「さあ−−−どうする、『天上鬼』よ?」

暗闇に再び浮かび上がる、小さな人影。

イザークが、拳を壁に打ちつけたまま、ゆっくりと顔を上げる。

振り返らないまま、目の前の『鏡』を睨みつけるその漆黒の瞳は、怒りと憎悪に満ちていた。ぐっと握った拳が、小刻みに震える。

「......」

鏡を挟んで、イザークの拳の向こう側には、薬指に蒼銀色の指輪がはまった、白い手。
凍りついて、動かない−−−−。

そのすぐ横の闇に映し出されたのは、祭壇の上に立ち、まっすぐにこちらを見下ろしている、ジーナの姿。

「もう一度、答えを聞かせてもらおう。『天上鬼』」

神殿中央の祭壇上に置かれた燭台の灯りの中に、一歩踏み出し。
イザークに向かって、小さな右手を差し出す。

「『目覚め』を生かすも殺すも、そなたの答え次第−−−−」

ジーナハースの声と姿で、『それ』はイザークに語りかける。

「簡単なこと。そうであろう?」

クククククッ.....。

(ノリコ−−−−−−)

一瞬、ぐっと固く目を閉じて。

ゆっくりと、本当にゆっくりと、イザークが振り返った。


*********


「−−−−イザーク!?」

自分達に与えられた客室の扉を開けて外へ出ると、近くにいたらしいアゴルとバラゴが駆け寄ってた。

「一体どこへ行ってたんだ?!」

「てめぇー、視察から帰ってきた途端に急に飛び出して行ったかと思ゃー、城中探しても見当たらないし、ロンタルナは変なこと言いやがるしよおー。まったくどこをほっつきまわってたんだよ、お前?」

「それに、ノリコやジーナの姿も見えないんだ。今、皆で手分けして城中探しまわってて−−−−」

「−−−−お父さん、あたしはここよ」

アゴルとバラゴが口々に畳み掛けると、イザークに続いて客室から出て来た『ジーナ』が、青ざめた顔でイザークに掴みかからんとしているアゴルの言葉を遮り、イザークのコートに掴まったままでニッコリと笑った。

「心配かけてごめんなさい。おねえちゃんが中庭で気分悪くなっちゃって...。それに気づいたおにいちゃんが飛んできてくれたんだけど、部屋で介抱するのに必死でもう随分時間が経っていたことに気づかなかったの」

「え?ノリコが?」

「大丈夫なのかよ?」

「大丈夫、ちょっと貧血だったみたい。今はもう寝ちゃってるから、安静にしてれば良いと思うよ」

「−−−−そうなのか?」

さっきから一言も口をきかず、伏し目がちに立ちつくしているイザークの顔を覗き込み、アゴルが確認するように問いかけた。

まだ目を合わせる余裕がなく、イザークは目をそらしたまま小さく頷く。

「大好きなおねえちゃんが倒れちゃって、おにいちゃん、大変だったんだよ。まだショックから立ち直れてないんでしょ。ね?」

コートの端を掴んだままで、フォローするようにニッコリと笑うジーナを思わず見返しても、イザークは返す言葉がなかった。


....ネッサの力で、あの神殿から瞬時に城まで戻って来た。

まるで、チモを使ってシンクロをした時のように。だが、チモの時とは違い、瞬間移動が完了した瞬間、どす黒い煙に肺を埋め尽くされたような感覚に、イザークは吐き気を覚えていた。

「色々大変だったし、あたしも疲れちゃった。お父さん、もうお部屋に戻ろうよ」

いつの間に学んだのか、実の父親にさえ気取られないほど巧くジーナハースの声音を真似るネッサに、イザークは堪らないほどの憤りを覚えながら、それさえ表に出すことは適わず、ただぐっと拳を握りしめた。

「探してくれた皆には、ちゃんとあたしから謝っておくから、おにいちゃんは早くおねえちゃんのそばに戻ってあげて?」

目が見えない者の仕草らしく、両手を前に出して探りながらアゴルの元へ歩いていき、ジーナはイザークを振り返ってふふふ、と笑った。

「ね?それでいいでしょ、お父さん?」

「あ、ああ....」

腰にしがみついてくる娘の肩に手を回しながら、アゴルは、まだ少し納得いかなそうな表情でイザークをみつめていた。その肩を、アゴルがぽんぽん、となだめるように叩く。

「まーったく人騒がせな奴らだぜ。ちったーこっちの身にもなれっつーんだよ。あーあ、心配して損したぜ」

大袈裟に声を上げ、バラゴは組んだ両手を禿げた頭の後ろに回しながら、先頭を切って歩き出した。

「ほかの奴らには俺から連絡しておく。アゴル、あんたも早くジーナを部屋に連れてってやんな」

「ああ....」

「−−−−おやすみなさい、おにいちゃん」

アゴルの手を取り、イザークを振り返って、『ジーナ』がにっこりと笑った。

イザークは、口角をわずかに引き上げて笑みを作ることさえできなかったが、彼の常を知っているアゴルは、別に変とも思っていない様子だった。

「おやすみ、イザーク。ノリコ、お大事にな」

「...ああ」

精一杯の努力でそれだけ喉から絞り出し、ふたりの背を見送ることさえできず、イザークは部屋の中へ戻り、後ろ手に扉を閉めた。

「......」

遠ざかっていく三人の気配を扉の向こうに感じながら、扉に背を預けたままもう立っている気力さえ失い、ズルルッとその場に膝を立てて座り込む。

きつく目を閉じ、イザークは、握りしめた両の拳で顔を覆った。

  『おかえりなさい』

その脳裏に浮かぶのは、寝台に寝そべったまま、こちらを見て、花のようににこやかに微笑むノリコの姿。

(ノリコ−−−−−−!!)

拳を一層強く瞼に押し付けながら、イザークはきつく奥歯を噛み締めた。

なぜ、自分の直感を信じなかったのか。
過保護と呼ばれようとも、束縛となじられようとも、決して離れるのではなかった。

悔やんでもどうしようもないとわかっていながら、強い自責の念に苛まれる。

(俺は.....)

光の世界に触れ、この世のすべてのものが根底でつながっていると理解した。
特に、自分とノリコのつながりの強さを再確認した。

が、今、この世界のどこにもノリコを感じられない。

あの鏡の中に眠る愛しい妻の意識は、冷たい氷の結界に閉ざされ、光の世界からも遮断された場所にあるため、この場所からはその存在を感じとることさえ適わない。

どこにも、いない。

まるで、もうこの世に彼女自身が存在していないかのように。

「......」

ノリコのいない世界で生きて行くことを想像しただけでも、足下から瞬時に凍りつくようにぞっとするのに、なぜ、自分は今ここにこうして独りで在るのか。呼吸をしていられるのか。

(−−−−−ノリコ....!!)

イザークの頬を、一筋の涙が伝った。



********************

<あとがき>

こんにちは。おひさしぶりです。

サイトを立ち上げてから、まるまる1ヶ月何もアップしなかったのは、これが初めてかもしれません。それだけ本職が忙しかったということなのですが、同時に、このイザークとネッサの対峙のシーンは非常に行き詰まりがありました。ストーリーはもう全部決まっているのですが、このふたり、なかなか思うように喋ってくれなくて....(涙)

でも、最後に城に戻ってきたイザークの涙を書きたくて、頑張りました。

読んでくれた皆さん、ありがとうございます。もう少し、おつきあいください。

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