3/03/2014

氷の鏡 第4章

「おかえりなさい」

そっと静かに扉を閉めたその背後から嬉しそうな声が聞こえて、扉に顔を向けたまま、イザークはフッと笑顔になった。

「−−−先に寝ていろと言ったのに」

「だって...」

振り返ってみると、寝台の上に夜着姿で寝そべって書紙を広げ、日記を書いていたらしいノリコが、わずかに肩をすくめた。

「歓迎式典のほうで忙しかったみたいで、お風呂の準備に来てくれたのが随分遅くって。ついさっきジーナと一緒に入って、お部屋に連れてったばかりなの」

言いながら起き上がり、ノリコはてけてけとイザークに歩み寄ってきた。

「ごくろーさまでした、あなた」

ぽん、とイザークの胸に顔を埋めるように抱きついて、両腕をイザークの腰に回す。
まだ少し濡れた栗色の髪から、ふんわりと石鹸と花のような甘い香りがして、イザークの鼻腔をくすぐった。

「−−−ただいま」

ノリコがそばにいるというだけで、空気がやわらぐ。ホッとする。
華奢な妻の身体をぐっと両腕で抱き寄せ、イザークはやっと仕事モードから解き放たれたように肩の力を抜いた。

「どうだった?楽しかった?」

イザークに抱きついたまま、ノリコが顔を上げる。
答える代わりに、イザークは軽く肩をすくめた。

「仕事だからな」

「....黒髪の人、ほかにもいた?」

イザークの仕草に少し不安になったのか、ノリコがわずかに眉を寄せた。

船での会話以来、口にはしなかったけれど、黒髪黒瞳の人間−−イザーク−−がこの国では偏見を受けるかもしれない、ということが、ノリコの心の中でモヤモヤと不安をかき立てていた。

「みんな...優しくしてくれた?」

イザークの胸に頬を寄せ、きゅっとその腰に回した腕に力を込める。

「.....」

いつも、なによりも自分の身を想ってくれるノリコの気持ちが嬉しくて、イザークは目を伏せてフッと笑顔になった。

「−−−登城する途中はわりと多くの黒髪をみかけたが、さすがに貴族階級にはあまりいないようだったな。だが、物珍しく見られることも特になかった。気にすることはない」

ノリコの腕にそっと手を添え、腕をほどく。
まだ少し不安げな顔のノリコを安心させるように優しく微笑みながら、イザークは丈の長い正装の上着を脱いだ。自然な仕草でそれを受け取り、ノリコが、ほっと安心した様子で笑顔になる。

「そっか。ならいいんだけど」

ノリコの笑顔を確認するように軽く頷いて、イザークは、腰のベルトを外しながら、夜着に着替えようと、寝室の続き部屋である小さな化粧室兼浴室へと向かった。

「−−−それで、ガール様と王女様の初対面はどうだったの?うまく行った?すっごく綺麗な人なんでしょ?一目惚れとかしちゃったりして...」

イザークの上着をきれいに畳みながら、ノリコが少しうきうきした口調で話している声が、寝室のほうから聞こえてくる。

外したベルトを椅子の背にかけ、重ね着していたシャツもすべて脱ぐ。堅苦しい服からやっと解放され、前髪を搔き上げながらふうっと息をついたイザークは、棚に用意してあった夜着に手を伸ばしかけて、ふと目を上げた。

すぐそばの浴槽には、まだ湯が張られたままだ。
近づき、指先を水面に寄せる。

「−−−ノリコ」

「なあに?」

名を呼ばれ、ノリコがひょこっと寝室のほうから顔を出した。
浴槽の前に上半身裸のままで立っていたイザークが、肩越しに振り返る。

「まだ湯が温かい。一緒に入ろう」

「えっ....」

ぼんっ、とノリコの顔が真っ赤になる。

「で、でも−−−だいぶ時間経ってるから、ぬる過ぎるんじゃ...」

「そのほうが都合がいい。ノリコがのぼせる心配をせずにゆっくりできる」

「や、やだあ〜〜〜〜」

どこか悪戯っ子のような笑みを口元に浮かべてしらっと言うイザークに、一緒に風呂に入るのはもう初めてのことではないのに、真っ赤になった顔のままで、ノリコがごにょごにょと口ごもった。


*********

「−−−でね、冬になると、いつも家族みんなでこたつに座って、テレビドラマとか見ながらみかん食べてね。寒いから、台所にお茶とか取りにいくのもおにいちゃんといつもなすりつけあいになって...」

膝を立てたイザークの足の間、その胸に背を預けるような形で湯船に浸かって座り、ノリコはさっきからずっと立て続けに話しつづけている。肩越しに何度もイザークを振り返るその顔は、ほんのりと上気していた。

緊張すると口数が多くなる、ノリコの癖。

湯の中でノリコの肩からすっぽりとその身を包むように腕を回し、イザークは、口元に笑みを浮かべたままノリコの話を静かに聞いていた。

「......」

以前は、ノリコが元いた世界の話をするたびに、いつか彼女が自分の目の前から消えてしまうのではないかと、心のどこかで怯えていた。が、『ずっとそばにいたい』とノリコに言われ、夫婦となり、その恐怖心も、今はすっかり掻き消えていた。

「−−−−この国って、あ、まだ冬じゃないってわかってるんだけど、夜なんか空気がもうすっごく冷たくって、なんだか、日本の冬の雰囲気にとっても似てるの。それで、やたらに紅白歌合戦とか、こたつとか、そういうの思い出しちゃって....」

ノリコが早口に話す異世界での習慣や物事は、聞き慣れない言葉ばかりで半分も内容がわからなかったが、イザークは問い返すこともなく黙って話を聞いている。まだ会ったこともないのに、ノリコと家族の楽しそうな姿が想像できて、聞いているイザークもなんだか幸せな気分になっていった。

「.....」

濡れないように緩く結い上げた栗色の髪。早口に話すノリコの動きに合わせて、後れ毛がうなじで揺れる。

ノリコの身体を両腕で包みこんだまま、イザークは、その耳元から白い首筋にかけて、ゆっくりとなぞるように唇を当てた。ノリコが、ひゃあっと小さく声を上げる。

「イ、イザーク....」

「この仕事が終わったら....ふたりでどこかへ旅に出よう」

「え?」

「この仕事の報酬はだいぶ大きい。今度グゼナに戻ったら、どこか...まだノリコが行ったことのない国へ、ふたりだけで旅に出てみよう。仕事がらみじゃなく、誰にも邪魔されないようにふたりだけで、しばらく色々な場所を見てまわろう」

「イザーク....」

意外なイザークの言葉に、ノリコが思わず身体ごと振り返った。ちゃぽん、と湯に波が立つ。

「−−−−セレナグゼナに腰を据えて、初めて帰る家ができた。仕事を終えて帰途につき、ノリコが待つ家に灯りが点っているのを見ると、不思議なくらいホッとする...」

幼少の頃に家を飛び出してから、ずっと根無し草だった。
『天上鬼』という運命から逃れることだけを考えて、常に心が落ち着くことはなかった。一カ所に長く留まったこともなければ、心を触れ合わせた人間もないままに生きてきたのに....。

「『還る場所』があるということがこんなに幸せなことかと...ノリコと結婚できてよかったと、心から思う」

ノリコの頬に濡れた指先で触れ、いつになく雄弁なイザークが続ける。

「だが...俺にとっての『還る場所』は、あのグゼナの家ではなく、ノリコだ。ノリコが俺の妻になってくれたそのずっと前から、俺にとっては、ノリコといるところが常に俺の居場所になっていた。安らぎの場だったんだ」

「イザーク....」

「−−−けっして、今の生活に不満があるわけじゃない。逆に幸せすぎるぐらいだ。だが、時々ふっと懐かしくなる。ノリコとふたりだけで旅をしていたあの頃が。ノリコとふたりで野宿して、見上げた満天の星空が。『天上鬼』と『目覚め』として追われる身で、お前にも辛い思いばかりさせていた旅だったのに....おかしな話だな」

フッとどこか自嘲気味に口の端で笑うイザークをじっと見ていたノリコが、珍しく自分から身を乗り出し、目を閉じて、イザークの唇に軽く口づけた。

「あたしも....」

少し気恥ずかしそうに頬を染めながら、ゆっくりと目を上げ、イザークをみつめる。

「イザークとふたりで旅をしていた頃、とっても楽しかった。明日がわからなくてとっても不安だったけど...イザークと一緒にいられるだけで、とっても幸せだったよ」

にっこりと、笑う。

「もちろん、なんていっても今が一番幸せだけど...。あたしも、あの頃が懐かしいって思うこと、あるよ。もし、またふたりだけで旅ができたら、すっごく嬉し−−−」

湯が跳ねる。言いかけるノリコの細い腰をぐいっと勢いよく引き寄せ、イザークがその唇を塞いだ。拍子に、緩くアップにしていたノリコの髪がぱさっと濡れた肩に落ちた。

片腕でノリコの腰をしっかりと抱き寄せたまま、もう片方の手でノリコの頭をさらに引き寄せる。やわらかい朱の下唇を甘噛みし、わずかに角度を変えてから、甘い吐息とともにわずかに開いた唇の間にイザークは舌を滑り込ませた。

「あ.....」

両手を胸の前に寄せたまま、イザークにしっかりと抱きしめられ、ノリコは目を閉じた。かなりぬるくなった湯でのぼせるはずもないのに、身体中がかあっと熱くなってくる。頭の芯が真っ白くなっていく。

「ノリコ....」

深い口づけの合間に、口の端で息をつきながら、イザークが甘く囁く。
うっすらと潤んだ目を開けたノリコは、闇を閉じ込めたようなイザークの漆黒の瞳に捉えられて、もう何も考えられなくなっていた。

「イザーク、愛してる...」

そう呟くのが、精一杯だった....。



********


「−−−−クククククッ.....」

ずるり、と虚空の闇の中から、血の気のない真っ白な女の腕が、土を掻くような仕草でのびてきた。見えるのは、闇に浮かぶ二本の白い腕だけ。

「やっと...」

地に爪を立て、ずるり、と身体を引きずるような音がする。

「やっと、逢える....」

ずるり。

ずるり。

闇の中で、音だけが聞こえる。

まだ距離がある位置から聞こえていたその音が、ぱたり、と止み−−−−−。

「逢いたかった」

唐突に、耳元で、聞き覚えのない女の声が、ぼそり、と囁いた。



「−−−−−−ッ!!!」

暗闇の中で、弾かれたようにガバッとイザークが跳ね起きた。

(.....夢?!)

本当に、ただの夢なのか。

全身がガクガクと小刻みに震えている。冷や汗が額に滲む。一瞬、夢とは信じられないほど、耳元で囁かれた女の声が生々しく記憶に残っている。

大きく肩で息をしながら、イザークは大きく目を見張り、素早く周囲を見回した。

薄暗い寝室。しんと静まりかえった室内には、奥の暖炉の炎だけが小さくパチパチと音を立てている。ハッと傍らを見ると、すぐそばに寄り添って眠るノリコの姿があった。

「ノリコ.....」

ぐっすりと眠るノリコは目を覚まさない。
むき出しの白い肩が、規則正しく上下している。

その姿を確認し、イザークはやっと深く息をついた。

(−−−−−ただの夢、だ....)

跳ね起きた拍子に乱れた髪を無造作に搔き上げながら、イザークは、自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。

もう一度ベッドに横たわり、傍らのノリコに腕を回して自分の胸にしっかりと抱き寄せる。愛する妻のぬくもりを全身で確かめることで、自分の言葉を肯定するかのように。

それでも、胸の中にわき起こったザラリとした感触はなかなか消せなかった。

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