春先、まだ夜風は冷たい。
暖炉のすぐそばに座り、ノリコはまだ慣れない手つきで編み物をしている。
小さな靴下。
「ーーーイザーク、どうしたの?」
少し離れた位置にある食卓で、ノリコの入れてくれたお茶を飲みながら書物の文字を目で追っていたイザークは、不意にそう聞かれて顔を上げた。
「?」
視線の先には、編み物の手を止め、真っ直ぐにこちらを見ているノリコの姿。
イザークと目が合い、ノリコがにっこりと笑った。
「何か心配ごと、あるよね?あたしには言えないこと?」
何も言わなくても、何か心を煩わせることがあれば、彼女には自然に伝わってしまう。
本を読んでいるつもりでも少しも内容が頭に入ってこないぐらい、深く考えこんでしまっていたイザークは、心をガードして彼女に伝わらないようにするのをうっかり忘れてしまっていたことに気づいて軽く苦笑した。
「ーーーノリコが心配するようなことではない。気遣わせて悪かったな」
「イザークってば」
なんでもない、と言うイザークに、最近ややふっくらとしてきたノリコが、ぷうっと大袈裟に頬を膨らませてみせる。
「またそうやって自分だけで抱えこもうとするんだから。あたしにはなんでも言ってって、あれだけいつも言ってるのに」
「いや、だから本当になんでもないんだ」
本当に。
ノリコが心配するようなことは何ひとつない。
こんなふうに不安になってしまうのは、自分が過去を捨てきれていないだけでーーー。
「ーーーイザーク。あたしたち、もうすぐ親になるんだよ」
だから。
隠し事なんてしないで。
なんでも言って。
あなたの不安は、私にも抱えさせてーーー。
「ノリコ...」
ノリコの、声にはならない想いを心で受け取り、イザークは苦笑した。
「すまない。本当になんでもないんだ。ただ...」
遂に観念したかのように、イザークが重い口を開く。
最近ふと急に、どうしようもなく苦しくなることがあって....」
椅子を引き、ゆっくりと立ち上がって近づいてくるイザークを、ノリコは静かに視線で見守った。
ノリコの前に立ち、大きくなった彼女のお腹を見つめる。
もうひと月もすれば、会えるはずの我が子ーーーー。
足元を確かめるようにゆっくりと一足ずつ膝をつき、やわらかい曲線を描くノリコの腹部にそっと労るように右手を乗せながら、イザークが呟くように言った。
「俺は...自分の本当の両親を知らない」
両親に愛されずに育ったことは、以前ノリコにも少しだけ話したことがあった。
だが、なぜ愛されなかったのか...そして、自分が家を出た後、彼らがどんな末路を辿ったかについては、一度も話したことはなかった。いや、とても話す勇気がなかっただけだ。
「イザーク...」
イザークが言葉にできなかった部分も心で感じ取り、ノリコが心配そうに声をかける。
「イザーク...」
イザークが言葉にできなかった部分も心で感じ取り、ノリコが心配そうに声をかける。
敢えて視線を合わせることはせず、イザークは続けた。
「育ててくれた夫婦を実の両親と信じていたが、物心ついた頃には、自分が普通の人間ではないことに気づいていた。母と信じていた人は、怪我をしてもすぐに治癒する俺に恐れおののき、日に日におかしくなっていった。−−−−俺に刃を向けたこともある。そしてその彼女を、俺は、無意識にとはいえ、逆に傷つけた」
その時の彼女の叫び声を、今でもまざまざと思いだせる。
畏怖と怒りにわなわなと震えていた彼女の姿が、脳裏に焼き付いている。
俯いたまま、イザークは苦しげに眉をひそめた。
「−−−そんな風に彼女を苦しめていることがたまらず家を出ようとした俺に、父は、俺が実は化け物が連れてきた赤子であったこと、俺が「天上鬼」となるその日まで育てる『契約』をすることで、一族に繁栄をもたらすという約束をもらっていたことを教えてくれた」
本当は、『教えてくれた』などという生易しいものではなかった。
彼は、戸惑うイザークの両頬をがっしりと骨張った両手で掴み、疎ましいものを見る目で、吐き捨てるように言ったのだ。
『お前は、化け物が連れてきたんだ。お前を育てているから、我らは繁栄できる。出て行くことは許さない』と。
−−−それまで信じてきた自分の世界が、音を立てて崩れ落ちた瞬間。
指先から血の気が引いていくような、足元に大きな暗い穴がぽっかりと開いてズブズブと沈んでいくような、そんな絶望感と孤独に苛まれていた日々を鮮明に思い出していたイザークは、ハッとノリコの腹部に当てていた右手を引っ込めた。
その問いを初めて言葉にし、喉の奥で言いかけたイザークは、不意に、ふわりと両手を広げて身を乗り出したノリコに頭を抱きかかえられ、目を見張った。
「イザーク」
やわらかい、笑みを含んだノリコの声。
「イザーク、大丈夫だよ」
細いノリコの両腕が、そっと優しくイザークと−−−腹の子を同時に包む。
「イザークとあたしの赤ちゃんだよ。光の力に包まれて、優しく、強い心を持って生まれてくるよ。『普通』かどうかは...わらかないけど、もしイザークみたいに能力者として生まれてくるとしたら、それには何か理由があるはず。その時は、あたし達がこの子を光に向かって導いてあげれば良いんだよ」
穏やかで、しっかりとした声。
イザークの頭ごとお腹の子を抱きしめたまま、ノリコは、イザークのこめかみにそっと優しくキスを落とした。
「大丈夫だよ」
まるで、呪文のように。
「育ててくれた夫婦を実の両親と信じていたが、物心ついた頃には、自分が普通の人間ではないことに気づいていた。母と信じていた人は、怪我をしてもすぐに治癒する俺に恐れおののき、日に日におかしくなっていった。−−−−俺に刃を向けたこともある。そしてその彼女を、俺は、無意識にとはいえ、逆に傷つけた」
その時の彼女の叫び声を、今でもまざまざと思いだせる。
畏怖と怒りにわなわなと震えていた彼女の姿が、脳裏に焼き付いている。
俯いたまま、イザークは苦しげに眉をひそめた。
「−−−そんな風に彼女を苦しめていることがたまらず家を出ようとした俺に、父は、俺が実は化け物が連れてきた赤子であったこと、俺が「天上鬼」となるその日まで育てる『契約』をすることで、一族に繁栄をもたらすという約束をもらっていたことを教えてくれた」
本当は、『教えてくれた』などという生易しいものではなかった。
彼は、戸惑うイザークの両頬をがっしりと骨張った両手で掴み、疎ましいものを見る目で、吐き捨てるように言ったのだ。
『お前は、化け物が連れてきたんだ。お前を育てているから、我らは繁栄できる。出て行くことは許さない』と。
−−−それまで信じてきた自分の世界が、音を立てて崩れ落ちた瞬間。
『父』の手を振りほどき、無我夢中で家を飛び出した。
化け物との契約を破ったことになる「両親」に、どんな末路が待っているかなど、露ほども知らず。...。
(俺は、逃げたんだ...)
自分の過去を捨てたかった。
なにより、家族でさえ無意識に傷つけることのできる自分が怖かった。
すべてのしがらみを捨て去ることで、「天上鬼」となる未来も捨てれたらーーー。
そんな思いで、すべてのことから逃げていた日々。
ノリコと出逢い、様々な苦難を経て、共に光の側を選び、これ以上はないほどの幸福を手に入れた今でさえーーーいや、だからこそ、なのか。
身に余るほどの幸福を得られた今だからこそ、余計に、過去に置いてきたはずの闇が、実はすぐそばで今も渦巻いていて、ちょっと隙を見せればすぐにもその魔手を伸ばしてきて、自分を闇に引き戻してしまうのではないかーーーそんな不安に駆られるのか。
「イザーク....」
気遣うノリコの声。
指先から血の気が引いていくような、足元に大きな暗い穴がぽっかりと開いてズブズブと沈んでいくような、そんな絶望感と孤独に苛まれていた日々を鮮明に思い出していたイザークは、ハッとノリコの腹部に当てていた右手を引っ込めた。
自分の闇が、ノリコやーー生まれてくる子にまで伝染しそうで。
「俺には...自分が誰の子なのか、どこから来たのかさえわからん。『天上鬼』となるためにタージ家で育てられていたのはわかるが...実際、人間なのかどうかさえ−−−−」
そんな自分の子供は、一体『何』になるのだろう?
今まで考えないようにしていた不安が、一気に胸を締めつける。
引っ込めた右手を無意識にきつく握りしめ、イザークは唇を噛んだ。
「俺の子は、『普通』の子として生まれるのか−−−−」
そんな自分の子供は、一体『何』になるのだろう?
今まで考えないようにしていた不安が、一気に胸を締めつける。
引っ込めた右手を無意識にきつく握りしめ、イザークは唇を噛んだ。
「俺の子は、『普通』の子として生まれるのか−−−−」
ノリコのお腹が目立ちはじめたぐらいから、何度となく、ふとしたきっかけで脳裏を過り始めた問い。
その問いを初めて言葉にし、喉の奥で言いかけたイザークは、不意に、ふわりと両手を広げて身を乗り出したノリコに頭を抱きかかえられ、目を見張った。
「ノリコーーー」
抱き寄せられた頬は、ノリコの腹部に寄せられている。
戸惑い、離れようとするイザークの頭を抱き寄せるノリコの手に、力がこもった。
「イザーク」
やわらかい、笑みを含んだノリコの声。
囁くように。
「イザーク、大丈夫だよ」
細いノリコの両腕が、そっと優しくイザークと−−−腹の子を同時に包む。
「イザークとあたしの赤ちゃんだよ。光の力に包まれて、優しく、強い心を持って生まれてくるよ。『普通』かどうかは...わらかないけど、もしイザークみたいに能力者として生まれてくるとしたら、それには何か理由があるはず。その時は、あたし達がこの子を光に向かって導いてあげれば良いんだよ」
穏やかで、しっかりとした声。
イザークの頭ごとお腹の子を抱きしめたまま、ノリコは、イザークのこめかみにそっと優しくキスを落とした。
「大丈夫だよ」
まるで、呪文のように。
幼子をあやす母のように。
その言葉は、イザークの胸に不思議なほど素直に染み込んでいく。
「大丈夫だよ、イザーク」
何度もそっと繰り返しながら、ノリコは、イザークの漆黒の髪を優しく撫でた。
幼子をあやすような、そんな優しい手で。
(ノリコ...)
椅子に座るノリコの前に跪き、片耳を彼女のお腹に当てたまま、イザークは両手を伸ばして、自分を抱きしめるノリコの腰に回した。
心の中に燻っていた不安の影が、ノリコの手の動きに合わせて暖かい光に浄化され、押し流されていくような気がする。
ああ。
母の手とは、こんなにも暖かいものだったのか。
不安の代わりに胸を満たしていく幸福感に心地よく身を委ねながら、イザークはかすかに安堵の溜息を漏らし、目を閉じた。
==================
<あとがき>
うわー、最後のお話を書いてから、一体どれぐらい経ったのでしょう?
この数年の間に、プライベートでも色々ありましたが、世界も大変なことになってしまいましたね。皆さん、このCOVID-19パンデミックの中、無事にお過ごしであることを祈っています。
この度やっとラップトップを新調し、サイトにも戻ってきました。前々から書きかけてたものや、頭の中で構想を練っていたものなど、まあ、色々懲りもせずありますので、またゆっくりマイペースで書いていきたいと思います。
もう以前読んでくださっていた方達もいらっしゃらないかもしれませんが、もしまだ訪れてくださっているようであれば、お暇な時にでも読んでやってください。
私の漫画好きも相変わらずで、好きな漫画もたくさんありますが、やっぱりイザークよりカッコいいキャラクターってなかなかいないなーと思う日々。www
みなさま、良いお年を。
初めまして!以前から読んでいましたが、ふと今日飛んできたら更新されていてビックリしました!嬉しいです^_^
返信削除こんな世の中だからこそ、イザークの話で元気が出るのでまた更新楽しみにしています!
あかりさん、早速のコメント、ありがとうございます。
削除しばらくブレイクを置いたためか、また書きたい、と思う意欲が湧いてきました。今、すでに次のお話の構想も練っていて、近いうちにアップできそうです。次はちょっと甘々かも、です。お楽しみにー。
すごくすごく楽しみにしていました!ありがとうございます。
返信削除私も、イザークが一番好きな男性キャラです。なかなかイザークを超える男性がいなくて(笑)
何度も原作の「彼方から」を読み返し、そして、ここの小説を読みあさり、余韻にふける。。。
ここにくると、イザークと典子に会えるので、本当にうれしいです。
今回のお話も、イザークが不安に思う様とか、優しく包み込む典子とか、しっかりとイメージができて、本当に原作の続きのショートストーリーを読んでいるかのような脳内映像で。
書き始めていただいて、本当にありがとうございます。
きぃさん、コメントありがとうございます。気に入っていただけてよかったです。
削除イザーク、本当にかっこいいですよねー。ひかわ先生に、是非続編書いて欲しいです、私も。。。
うわー!更新されてる!
返信削除めっちゃ嬉しいです!!
おおっと!今ちょうど新しい話をアップしたところで、このコメントが。母の手、読み終わったら、ぜひ「招かれざる客」の方も読んでみてくださいー。ちょっと甘々ですw
削除もう更新はされないのだろうな…
返信削除と思いつつちょくちょく覗きに来ていました…諦めなくて良かった(泣)
今日ちょうど久しぶりに彼方からを読み返していたところです。
新作読ませていただきます(泣)
久しぶりに更新されててうれしいです。
返信削除新作、楽しみにしてます!
Noaさん、コメントありがとうございます。今年は少しずつまた書いていきたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。
削除