8/31/2015

迷い子 第4章

薄紅色の大輪の花々が咲き乱れる大樹−−−桃忘花の木。

その太い幹の前に、どこからともなく、やわらかい光に包まれて、銀の髪に菫色の瞳をした細身の少年が、ふわりと現れた。

「そこにいるんだよね?話をしないかい?」

朝から降り続いている雨は途切れることなく、森全体をうっすらと灰色に染めている。

大きく枝を広げた桃忘花の木の下にも、びっしりと咲き誇る花の隙間を辿って雨がパタパタと不定期に降り注いでいるが、実体のないイルクツーレが濡れることはもちろんない。頭上に覆い被さるように広がった満開の花を見上げたイルクの頬を、大粒の雨がすり抜けて落ちていく。

「これだけ降り続けると、せっかくの花も枯れてしまうかな...」

雨の重さで大輪の花びらはどこも重そうにしなだれている。この雨がこのまま数日降り続けば、さすがの桃忘花も期を満たさずに花の季節を終えてしまうかもしれない。

「−−−余計なお世話だね」

美しい薄紅の花の命の短さを想って、イルクがわずかに顔を曇らせた途端、どこからともなく、突っぱねるような強気な声が聞こえた。

「別に木(僕)自身の命が消えるってわけじゃないんだし、お前に気遣ってもらう必要なんてないよ」

声と同じぐらい唐突に、イルクよりもさらに若い少年の姿をしたユッグが現れた。
大きく右に伸びた枝の上に腰掛け、地上のイルクを見下ろしている。

「...はじめまして、ユッグ」

降りてくる様子のないユッグを見上げたまま、イルクツーレはにっこりと、いつも通りの穏やかな笑みを口元に浮かべた。

が、対するユッグは、怒ったように顔を強ばらせたまま、フン、と鼻を鳴らす。

「お前(朝湯気の木の精霊)の噂は聞いたことがあるよ。随分遠くからお越しだね。単なるご機嫌伺いなんてもんじゃないだろう?なんの用だよ」

「そう邪険にしなくてもいいんじゃない?僕らは、長い時間を人間達と共に過ごしてきた仲間なのに」

言って、イルクはふわりと浮き上がり、ユッグと目線の高さを揃えた。

菫色の瞳と、紅い瞳が、視線を交わす。

双方、大地に大きく根を張り、地下深くの「気」の流れに沿って世界中の様々な物を見聞きし、人間よりもはるかに長い時間を生きていくうちに、いつのまにか人間の姿さえ取れるようになった精霊だ。

人間のように言葉にしなくても、意思の疎通は簡単にできる。

こうして視線を合わせただけで、ユッグは、なぜイルクツーレが彼のもとを訪れたのかを悟った。

子供の姿には不似合いな、人間臭い仕草で腕を組み、面白くなさそうにふうっと溜息をついてみせる。

「−−−あの人間にも言ったけど!ノリコの記憶を戻すなんて芸当、僕にだってできないんだからね。お前まで送りこんできたって無駄だって、帰ってあの男に伝えたら?」

「...ノリコの記憶を操作したのは君なんだ。その記憶を元に戻す方法、まったく思い当たらないなんて言い訳、信じると思うの?」

静かな口調にはまだ笑みが残っているが、じっとユッグをみつめるイルクの瞳には、やや咎めるような鋭さが宿っていた。

「ノリコもイザークも、僕にはとても大切な友達なんだ。彼等に害をなすようなら、僕も黙ってはいないよ」

「友達?」

イルクの言葉をハッと鼻で笑い、ユッグは大きく目を見開いた。

「たかが百年足らずの生命しかない人間を、『友達』だって?」

「−−−−−」

わざと喧嘩を売るような調子で声を上げたユッグに、イルクはただ、静かな視線を投げるのみだ。

...少年の姿をしてはいても、何世代もの森の住人達に支えられ、愛されてきたイルクツーレの瞳には、長い年月を生きてきただけでは得られない、深い慈愛と叡智の輝きがある。彼の姿は、住人達の愛情に応える形でできあがったものだ。

だが、イルクよりもさらに長い歳月を生きてきたユッグは、しかしそのほとんどを孤独の中で過ごしてきた。その彼には、イルクのように『家族』とも『友達』とも呼べるものはなく、その子供の姿と同じ程度の、善悪の違いしかつけられない。

本当はユッグのほうが随分と歳自体は上のはずなのに、歳の近い兄に叱られる男の子のように、ユッグがふてくされて悪態をつく。

「お前はいいよな。森の住人達に愛されて、さっさと名前までつけてもらって、さ。死んだあとでさえ、彼等があんたと共にいてくれるから、お前はこうして世界中どこでも自由に動き回れるんだもんな」

木の精霊は、本来ならば、木(本体)のある場所からそう遠くへは行けない。

「気」の流れでつながっている大地であれば、どこへでも跳べるのは間違いないが、それでも、自身からそれほど遠く離れては、精気が続かない。いつまでも本体から離れているわけにはいかないのだ。

だがイルクの場合、亡くなった森の住人達が、いまでも彼を愛して彼の周りにいるおかげで、精気を失うことなく、どこへでも好きな時に移動ができる。

「お前は、いいよな」

ユッグは、どこか遠くを見ながらそうひとりごちた。

「僕だって、ずっと一緒にいてくれる誰かが欲しかっただけなのに」

それが、本音。

長い長い時を生きてきて、たくさんの人間に出会いはしたものの、彼等は皆、催眠効果のある花を手折って持ち帰ることばかりが目的で、立ち止まって自分に話しかけてみたりするどころか、名前なんて付けようとは思いもしない者ばかりだった。

だからこそ、彼等に悪戯してやりたくなった。森の中で迷ったり、足を挫いたりして慌てふためく彼等の姿を眺めることで、自分自身の寂しさを紛らわしてきた。

なのに。

『だ、大丈夫!』

自身も怖くて足を震わせながら、それでも身を呈して獣から自分を庇おうとしたあの娘。
今まで見たどの木よりも大きく綺麗だから、と『世界樹』と名付けてくれた初めての人間。

ぱっと花のように笑うあの娘がそばにいてくれれば、この孤独も癒されるのではないか−−−−。

そう思った、ただそれだけ....。

「君の気持ちもわからなくはないけど、相手が悪いよ」

言葉にはならなかったユッグの気持ちを汲み取り、宙に浮いたまま、イルクがしかたなさそうに溜息をついた。

「イザークを敵に回すのは、やめといたほうが良いと思うけどね」



********


雨が降り続ける町。

やっと足首の腫れが引いたノリコに無理をさせたくないこともあり、ノリコと一日一緒にいる約束をしたイザークは、ノリコを連れて町に出る代わりに、一日の大半を宿屋の一室で過ごしていた。

窓際に置かれた小さなテーブルにノリコと向かいあって座り、宿屋の主人から借りたカードゲームをプレイして時間を潰す。

二枚ずつ対になったカードの絵を合わせていくだけのゲームなので、言葉がわからずともノリコにもすぐにルールがわかったようだった。それに、カードに描かれている絵の名前を繰り返し発音してみせることで、言葉の勉強にもなっている。

『ほ−−ほち?』

「星、だ」

『ほし』

「そうだ、星」

『星』

そんなやりとりを、もう何度繰り返したことだろう。訛はもちろん抜けないものの、うまく発音できる度に、ノリコはひどく嬉しそうな顔でにこっと笑った。

そしてその笑顔を見るたびに、心が和む思いで、イザークもテーブルに肘をついた姿勢のまま、口元にわずかな笑みを浮かべていた。

「.....」

窓の外をたまに行き交う人々の声と、雨の音だけが響く、小さな空間。

やわらかな、空気。

言葉が通じなくても。
想いを交わせなくとも。

ふたりだけでいるこの時間が−−−空間が、これほどまでに心地よい。

このままノリコの記憶が戻らなかったとしても、きっとふたりは大丈夫だ。

そう、イザークが思いはじめた瞬間−−−−。

「−−−−−!」

新しいカードをめくるノリコの指先をみつめていたイザークが、ハッと顔を上げた。同時に、立ち上がる。

『?』

同じ絵柄のカードを上手く引き当てて嬉しそうだったノリコが、その様子にびっくりして目を丸くした。

『イザーク、どうしたの?』

きょとん、とした表情でノリコが声をかけた−−−その瞬間。

ズズズ...と低い地鳴りのような音がかすかにし、その後、一瞬の間を置いて、ズンッ!と巨大な岩が崖から落ちてきたかのように、地面が縦に大きくぶれた。

『きゃー!』

すぐに今度は壁や床が横に大きく揺れはじめた。テーブルの上に置いてあった飲み物のグラスが倒れ、窓ガラスがジジジジジッと小刻みに震える。

『きゃー!きゃー!きゃー!』

地震だ、と気づいたものの、どうしていいのか分からず真っ青になって立ちつくすノリコを、イザークが素早く抱き寄せた。

「ノリコ!」

無意識に両手で頭を庇うようにして身を縮ませるノリコを包むように抱きしめ、イザークが、ふたりの周辺に「気」を張り巡らせて半球状のバリアにする。

ユッサユッサと揺れはしばらく続いたものの、木造の宿屋が破壊されるほどの規模ではなく、すぐに収まった。



「−−−もう大丈夫だ」

完全に揺れが収まったのを確かめてから、イザークは腕をほどき、ノリコの両肩に手を置きながらそっと声をかけた。

が、揺れが止まったことさえまだ気づかないかのように、畏縮しきったノリコは、イザークの腰にしっかりと両腕で抱きついたまま、ギュッときつく目を閉じ、ガチガチと小刻みに震えている。

「ノリコ...」

これまで、心配かけまいと和やかな素振りは見せていたものの、内心は、突然記憶を失い、言葉もわからぬ異世界にただひとりだという心細さに、圧し潰されそうだったのかもしれない。

そこに突然襲ってきた地震に、先行きのわからぬ不安が爆発したのだろう。

真っ青になったまま胸に顔を押し付け、ガクガクと震え続けるその姿が痛ましく、イザークは、少し切ない気持ちになりながら、そおっと壊れ物に触れるように、ノリコの震える細い肩を両腕で包んだ。

(ノリコ...)

その、心の声が聞こえたのかどうか。

トクン。

無我夢中でイザークの腰にしがみついていたノリコが、ふ、と目を開けた。

トクン。

トクン。

トクン。

規則正しい、心臓の鼓動が聞こえる。

暖かい人の体温が、全身を包んでくれている。

トクン。

(この音....)

憶えていないはずなのに、やけに懐かしいリズム。

きつく抱きついていた腕の力を緩め、ノリコはゆっくりと顔を上げた。

『イ..ザーク』

目に入ったのは、静かに見下ろしてくる優しい眼差し。

その漆黒の瞳に、吸い込まれてしまいそうだ。

『イザーク...』

無意識に、繰り返す。

名を呼ばれ、イザークは、右の掌でノリコの後頭部を優しく撫でてやりながら、にっこりと微笑んで頷いた。

「−−−ここにいる。大丈夫だ」

その声のトーンに、なぜかひどく安堵する。

言葉の意味もわからないのに、この腕の中にいる限り何も心配しなくてもいいのだと言われているようで、ほんわかした暖かい安心感に包まれ、ノリコの目がとろんとなった。

そのまま意識を手放し、腕の中で重みが増したノリコの身体を、イザークはそっと抱きとめた。


「−−−イザーク!...っと!」

そこにフッと現れたイルクツーレは、ノリコの後ろ姿を見て、しまった、という顔をした。

イザークから、記憶を失った後にユッグに遭遇したノリコが幽霊でも見たように真っ青になっていた、という話を聞いていたので、こうして自分まで宙から飛び出してきては、ノリコの心臓に悪いと思ったのだ。

「...大丈夫だ。眠っている」

ノリコの膝裏に腕を回して抱き上げながら、イザークが目線を上げた。

「昨日からの緊張が解けたんだろう。ノリコは、安心すると眠ってしまう癖があるんだ」

言いながら、軽々と抱き上げたノリコを寝台に運び、素早く靴を脱がせて横にしてやる。

その、ひとつひとつの動きにイザークのノリコに対する愛情を垣間みながら、宙高くに浮いたままの姿勢で、イルクが微笑む。

「さっきの地震、大丈夫だったかなと思って慌てて来てみたんだけど、心配いらなかったみたいだね」

「ああ...」

安心しきった寝顔のノリコに毛布をかけてやるイザークの顔には、慈しみに満ちた笑みが浮かんでいる。が、身体を起こしてイルクを振り返った時には、その笑顔は完全に姿を消していた。

「−−−あいつとは話ができたのか?」

「うん...。でも、ノリコの記憶を戻す方法は、正直わからないみたいだったよ」

単に記憶を戻すことを拒んでいるわけではなく、本当にその方法を知らないらしいことは、実際に会ってみてよくわかった。それに、同じように長い時間を生きてきたイルクだからこそ、ノリコをそばに置きたいと思ってしまったユッグの孤独も、わかるような気がしていた。

会うまでは、イザークの怒りに感化されていたこともあり、とにかくノリコの記憶を戻すためなら手段は選ぶまい、とまで考えていたイルクだったが、会って、彼の心を覗いた後は、同情に近い思いまで感じずにはいられない。

「彼に会っても、何かできるかどうか....」

言いかけるイルクツーレを遮るように、イザークは軽く目を伏せて、静かに首を振った。

「−−−それでも、やるだけのことはやるしかあるまい」

固い決意に満ちた漆黒の瞳が、複雑な面持ちのイルクの菫色の瞳を見返した。


2 件のコメント:

  1. 精霊は寂しかったんですか…イルクのことは羨ましくて…そうなのか…でもな~
    ノリコ、やっぱりイザークの鼓動の音で落ち着くんですね。なんか、ほっこりしました。でもやっぱり切ない(泣)
    早く記憶を取り戻す手がかりがみつかりますように。

    返信削除
    返信
    1. リョウさん、お久しぶりです。
      コメントありがとうございます。やっぱね、精霊でも人間でも、孤独って辛いじゃないですか。誰かそばに射てほしいって思う時ってあると思うのです。ユッグの場合は、ちょっと歳のわりに子供のまま育っちゃって、自分のことしか考えてないというか...。まあ、悪気はないんですけどねー。
      今回のエピソードでは、まあ色々理由があって、敢えて原作であったことを思い起こさせるようなシーンを結構入れてます。反則かな....汗

      削除