8/06/2015

迷い子 第3章

「そんなことが....」

静かな声で淡々と事情を説明したイザークに、イルクは大きく目を見開いた。

「それはきっと、桃忘花の樹だね」

「桃忘花の樹...」

丘の上で、枝を四方に大きく伸ばして薄紅色の大輪の花を満開にさせたあの樹。ノリコに初めて名をもらったことに、ひどく嬉しそうに笑っていた少年。確かにあの樹をそのまま具現化させたような彼の姿を思いだし、イザークは苦々しく呟いた。

「この近辺に、昔はそりゃ見事な大樹が何本もあったらしいけど、もうずいぶん以前に、原因不明の疫病にかかってそのほとんどが朽ちてしまったんだ。今じゃ、もうその一本だけしか残ってないはずだよ。あの樹の精霊も、人の姿を取っていたのは知らなかったな」

「...精霊同士でも、交流があるというわけではないのか」

もしイルクがあの精霊を知っていれば、ノリコの記憶を戻してもらえるように説得してもらえるのでは、というイザークの考えは甘かったらしい。

少々短絡的であったことは否めないが、藁をも掴む思いだったイザークは、知らず肩を落とした。

その様子を見ていたイルクが、クスリと笑う。

「?」

その様子に、イザークがやや怪訝そうな顔を上げると、慌ててイルクツーレが両手をひらひらさせた。

「あ、不謹慎だね。ごめんよ。だけど、その精霊が消そうとしたのは君の記憶だけだったのに、こちらの世界に来てからのすべての記憶を失ったっていうことは、ノリコにとっては、やっぱり君が彼女の世界のすべてなんだなーと思ってさ」

ややからかうような口調で言われ、イザークもわずかに頬を染めた。

「何を言って...」

「それはさておき、どうしたものかな...。僕が彼のところに直談判に行ってもいいけど、話を聞いてる限りでは、一筋縄ではいかないっぽいよね」

ふと真顔に戻り、イルクツーレが考え込むように腕を組んだ。その姿を見て、イザークも再び真剣な面持ちになる。

「−−−お前にも、なんともできないのか」

イザークの切羽詰まった声に、イルクはすまなさそうに軽く首を振った。

「人間の記憶を操作する能力なんて、僕にはないよ。でもその精霊にだって、ノリコの記憶を完全に消せたわけじゃないと思うんだ」

「何?」

「君のことだけにしろ、こちらの世界に来てからの記憶すべてにしろ、人間の心の中に複雑に編み込まれた特定の記憶だけを選択して抜き去るなんて芸当、誰にもできることじゃないよ。可能性としては、彼はノリコの記憶になんらかの方法で封をしたとか、膜を貼って思いだせないように暗示をかけたとか、そういう類いのものなんじゃないかな。だとしたら、何かの拍子でその膜が破れさえすれば、記憶は元に戻ると思うんだけど」

「膜を...破る」

そんなことが可能なのかどうかさえ、わからない。

途方に暮れる思いで、イザークは屋根の棟にストンと腰を降ろした。立てた右膝の上で祈るように指を組み、額を乗せる。

「.....」

どうすればいい?

どうすれば、再びノリコが自分にあの笑みを向けてくれるのか。

「−−−ノリコを元の世界に返すことは、考えているの?」

見るからに落ち込んでいるイザークを宙に浮いたまま気の毒そうに見下ろしていたイルクツーレが、ポツリと聞いた。

その声に、イザークがハッと顔をあげる。 

「それはない」

きっぱりと、答える。

「それだけは、ありえない」

「でも今のノリコは、この世界に飛ばされてきたばかりの頃の、不安な思いしかないんだろう?もしこのまま記憶が戻らなかったら、彼女にとっては、このままこちらの世界にいることが本当に幸せなのかな?」

「.....」

もし、このままノリコの記憶が戻らなかったら。

その問いにはすでに何度も行き当たり、そのたびに、イザークは身体を強ばらせていた。

だが。

「−−−−『元凶』との戦いを終えたあと、俺は、一度はノリコを元の世界へ還すことも考えていた。だがそんな俺に、ノリコは、ずっと一緒にいたいと言ってくれたんだ。たとえ今は記憶を失くしているとしても、こちらの世界に残りたいというのが彼女の意思だと、俺は信じている。それに...」

言いかけて、イザークはふと目を伏せた。

「たとえ記憶が戻らなくても、再びノリコに慕ってもらえる男になりたい」

もう、彼女を失うことはできない。
ノリコのいない世界で生きることは、考えられない。

過去の記憶がなくても、ノリコがノリコであることに変わりはない。

記憶が戻らないのであれば、また最初からふたりで新しい記憶を作っていくまで、だ。

「何年かかったとしても、必ず『ノリコ』を取り戻す」

改めて、強い決意を込めた眼差しで宙を見据えたまま、誰にともなく呟いたイザークに、イルクツーレも、どこか嬉しそうに口元に笑みを浮かべた。

「じゃあ、僕も協力させてもらうよ」


******


「−−−腫れも引いている。もう大丈夫だな」

翌朝、イザークは、目覚めたノリコの足首の湿布を換えてやった。
これなら、今日一日休んでいれば、明日にはもう不自由なく歩けるだろう。

『だ..だいじゃぶ?』

また言葉を覚えようとしているのか、イザークの顔を真剣な眼差しで見返しながら、ノリコがたどたどしく繰り返す。その姿がいじらしく、イザークは知らず口元に笑みを浮かべていた。

「大丈夫、だ」

『だいじゅぶ?』

「大」

『だい』

「丈夫」

『だい、じょぶ』

よし、と頷くイザークに、ノリコが嬉しそうに微笑む。
その屈託のない笑顔があまりに眩しくて、イザークは目を細めた。

肩を抱き寄せたい想いを抑えつつ、行き場のない右手を、ノリコの頭に乗せてぽんぽんと軽く叩く。

「.....」

初めて出会ったばかりの頃は、自分自身に余裕がなくて、ノリコに優しくすることができなかった。いつも理不尽に突っぱねるような言動ばかりして、何も分からない彼女を傷つけ、怯えた表情をさせてしまったことも多い。

ノリコが自分を忘れてしまったことへの痛みは消えないものの、まるであの頃の自分の過ちをやり直しているかのような気持ちになり、イザークは寂しさと同時に、どこか救われるような思いもしていた。

(罪滅ぼし、か....)

自嘲ぎみに口元を歪め、イザークは立ち上がった。

「−−−少し出かけてくる。ノリコはここにいてくれ」

『?』

言われたことがわからず、ノリコは寝台に腰かけた姿勢のままキョトンとしていたが、イザークが腰に剣を携えて戸口に向かおうとするのに気づくと、慌てて立ち上がり、イザークに駆け寄った。

『イザーク!』

ドアノブを握った途端、左腕の袖口を掴まれ、イザークが大きく目を見張る。

「ノリコ...」

『イザーク、どこに行くの?!あたしを置いてかないで』

ひとりにしないで。

必死の形相で何か訴えかけてくるノリコに、イザークはしかたなさそうに軽く息をついた。きっと、自分が彼女を置いてどこかへ行ってしまうと勘違いしたに違いない。

実際、これからまたあの丘に戻り、ユッグを探そうと思っていたのだが、もちろん夕方には宿に戻ってくるつもりでいた。宿の主人にも、ノリコの面倒を見てくれるように頼むつもりではいたのだが。

「...ちょっと出かけてくるが、すぐに戻る。足のこともあるし、ノリコはここで待っていてくれ」

言ってもわかるはずもないだろうが、ゆっくりと子供にでも言い聞かせるように語りかける。が、ノリコは、しっかりと掴んだイザークの袖口を離そうとはしない。

『置いていかないで』

繰り返し訴えかけてくる瞳は、真剣そのものだ。
言っている言葉はわからなくとも、思いは直に伝わってくる。

(ずっとそばにいてね)

ふと、あの満天の星空の下での出来事が思いだされた。

(もう絶対、置いてったりしないでね)

初めて天上鬼としての姿をノリコに見られ、ぼんやりとかすんでいた意識の中で、二度と彼女のそばにはいられないと考え、立ち去ろうとした自分。その見るも恐ろしい姿にも臆することなく、キスをして引き止めてくれたノリコ。

多数の落石のために全身怪我だらけで動けなかったノリコが、皆と合流した後、夜中にふと目覚め、焚火のやわらかい灯りに照らされながら甘えた声でそう言ったあの晩のことは、今でもはっきりと覚えている。

あの晩の、どうしようもなく持て余した胸の高鳴り−−−−−。

今思いだしても、赤面せずにはいられない。

「〜〜〜〜〜」

恥ずかしさに内心とんでもなく動揺しながら、イザークは、表面上だけは冷静さを装い、顔がにやけないように口元を無理にキュッと結んだ。そして気を取り直し、ノリコを見下ろす。

置いていくのではない。
すぐに帰ってくるのだから、心配しないでほしい。

また言いかけて、だが今の彼女には言葉で理解させることはできないことを思いだし、口を半開きにしたまま止まる。

どう説明すればわかってもらえるものかと思案に暮れたイザークだったが、潤んだ瞳でじっと見上げてくるノリコの視線に捉えられては、降参せざるをえなかった。

「...わかった」

軽く息をつき、肩を落とす。
イザークはドアノブから右手を離し、自分の左袖を握るノリコの手にそっと添えた。

「今日はどこにもいかない。ノリコのそばにいる」

『.....!!』

その態度だけで答えがわかったのか、ノリコがぱあっと嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。

眩しい、笑顔。

愛しさに、胸が締めつけられる。

軽く右手を添えていたノリコの手を、ギュッと力強く握りしめ、そのまま腕を引いて抱きしめたくなる衝動を、イザークは必死で堪えた。

ふと、絡み合う視線。

「.....」

触れたくても触れられないもどかしさをひた隠しにし、敢えてスッと物遠い動きで視線を外す。

ふと視線を上げて窓の外を見ると、灰色に染まった空からは、しとしとと雨が降り注ぎはじめていた。




6 件のコメント:

  1. 第3章待ってました!ありがとうございます!
    イザークの心がとっても切ないですね。けどイルクの存在が頼もしいです。ノリコ、心細くてたまらないでしょうね。イザークは何か方法を探しに出かけようと焦る気持ちはわかるけど、ノリコのそばにいてあげてほしいですね。言葉もわからないし、イザークの留守中に何が起こるかわからないし。
    記憶はないけど夫婦だということはわかってるし、優しく抱きしめるとか…それだけでもダメですかね…ノリコびっくりしちゃうのかな(^^;)

    返信削除
    返信
    1. リョウさん、

      コメントありがとうございます。ちょっと3章短くてごめんなさい。もう少し先まで書こうかな、と思ってたのですが、ここで区切ったほうが良いということに。

      まあ、イザークはねえ、もともと奥手?だったじゃないですか。彼のことなんで、きっと記憶もないのに抱きしめたりとかって、たぶん躊躇するのではないかなー、と。遠慮しそうでしょ、彼なら?でも、まあ、記憶が戻ったら知りませんが。。。。www

      削除
  2. 待ってましたー!
    真摯なイザークにキュンキュンです。
    私もノリコになりたい...
    いや、なったつもりで読ませて頂いてます(笑)
    続きが気になってたまりません。
    楽しみにしてます!

    返信削除
    返信
    1. ミランダさん、

      こんにちは。コメントありがとうございます。
      今回はあんまり長くするつもりはありませんが、なかなか続きを書く余裕がなくてごめんなさい。できるだけ早く続きを書くようにしますね。これからもよろしくお願いいたします。

      削除
  3. そうなんですね!記憶が戻ったら、思う存分ぎゅーーしてください!
    楽しみにしてます!

    返信削除
    返信
    1. ははは。ぎゅー、じゃ済まないでしょうね、イザークの場合www

      削除