1/31/2015

氷の鏡 第13章

「きゃあ....!」

瞬間移動による吐き気にも慣れないまま、いきなり固い壁に叩きつけるように投げ出され、サーリヤは短く悲鳴を上げた。

薄暗く、ひんやりと肌に刺さるような寒い空間。

座り込んだまま、ここはどこかと周囲を見回すよりも早く、その絹糸のようなプラチナブロンドの髪を背後から鷲掴みにし、ぐいっと無理矢理に顔を上げさせる小さな手があった。

「見るがいい!」

「な−−−−」

サーリヤの目にまず映ったのは、鏡のように澄んだ氷の壁に向かって座り込んだ自分と、その髪を掴んで立つジーナハースの姿だった。

「何を−−−−−」

言いかけて、ハッと息を飲む。

氷の奥には、いくつもの人影が−−−−−。

「これは....!!」

ひとりは、ノリコ。
宙にふんわりと浮かんでいる姿は、まるで眠っているようだ。

そしてそのすぐ隣には、寄り添い、永遠の時を眠る恋人達の姿−−−−。

「ネッサ...姫?」

王家の間に飾られた肖像画の彼女よりもだいぶ歳が上だが、間違いない。

漆黒の長い艶やかな髪が、氷の中で滝のように広がり、抜けるような白い腕が、いくつもの矢に射抜かれて血を流している金の髪の青年を、愛おしげに抱きしめている。

その死に顔の、なんと哀しげなことか−−−−−。

「両親から『生まれてくるべきではなかった』と疎まれ、妹と同じ顔、同じ血を分けた王女であるにもかかわらず、首都から遥か離れたこの冷たい地に−−−昼も夜もわからぬような薄暗いこの神殿に、ひとり幽閉された。その気が狂いそうになるほどの孤独が、そなたに理解るか?そして、そんな私を愛してくれた唯一人の人間まで、目の前でなす術もなく奪われた。その恐怖が−−−絶望が、そなたに−−−カイヤーナに理解ると言うのか?!」

忌々しげに吐き出される言葉に、サーリヤは返す言葉がなかった。

確かにそうだ。

それは、王家の世継ぎの姫として、何不自由なく、繭に包むように大事に育てられてきた自分やカイヤーナ姫には、決して真から理解できるはずのない感情だ。

 『後悔できる立場にいると思うこと自体が、お前達の傲慢さだ』

投げつけられた言葉が、今になって胸を射抜いた。

「.....」

返す言葉もなく、両手をついたまま、氷の壁に額をつけて目を閉じたサーリヤの白い頬を、つと涙が伝った。自分には、とてもカイヤーナの想いをネッサに伝えることは適わないと実感させられていた。

「−−−−私には、もう流す涙さえ残っておらぬ」

打ちひしがれてうなだれるサーリヤの肩を無表情のまま見下ろし、ぽつりと呟く。

ジーナハースの姿をしたネッサは、サーリヤの髪を掴む手にぐっと力を入れた。

「助けられなかった後悔だと?そんなものが何になる。私が望むのは、私と同じ絶望をお前達にも味あわせることだけだよ」

「きゃ....!」

だんっ、と勢いよく壁に右頬を押し付けられ、サーリヤが悲鳴を上げた。子供とは思えない、ものすごい力が後頭部を押さえつけてくる。

「お前も、すべてを失うがいい」

背後から囁かれた言葉に、サーリヤは背筋がぞっと凍る思いだった。
深い海の色の瞳を、これ以上はないというほど見開く。

「お、大叔母様....」

「さあ−−−『壁に入りたい』と望め。それだけでいい。それですべてが終わる」

「あ−−−−−」

「言え」

抗うことを許さない、威圧的な声。
何を言おうとしたのかわからないまま、サーリヤが全身を小刻みに震わせながら口を開いた。その時−−−−−。



−−−−−ドンッ.....!!


水の中で何かが爆発したようなどこかくぐもった衝撃音と、崖崩れのような鈍い振動。
と同時に、淀んだ気の満ちた神殿内に、冷気を含んだ新鮮な空気がフッとカーテンを押し開くように広がり、サーリヤの頬に触れた。

そしてその数瞬後に、ヒュッと風を切った矢がジーナの右頬をかすめ、壁に押さえつけられていたサーリヤの頭と右手の間の壁に突き刺さった。

チッと短く舌打ちし、サーリヤから手を離して少女が振り返るのと、その手を目指して新たな矢が飛んでくるのが同時だった。

が、絹布がふわりと風に舞うような動きで矢を避けたジーナは、そのまま一気に跳躍し、後方の祭壇へと飛び下がった。

二本目の矢が、サーリヤの頭のやや上の位置に突き刺さる。

「ネッサ....!」

眩いばかりの光の翼を大きく羽ばたかせ、射るようなスピードで神殿内へ飛び込んできたイザークが、ちょうど氷の壁と祭壇の間ぐらいの位置にザッと着地した。そのすぐ後ろから、神殿入口に着地すると同時に先程の矢を放ったガール、そしてアゴルが駆け込んでくる。

「姫!」

ネッサに解放されたサーリヤを確認し、ガールが弓矢を片手に駆け寄る。

「大丈夫ですか?!」

まだ立ち上がることさえできずにいたサーリヤは、目の前に膝をつき、自分に向かって伸ばされたその腕の中に躊躇わず飛び込んだ。肩を抱き寄せてくれるガールの腕の力に、胸が熱くなる。

「ガール様....!」

安堵の溜息とともに、その名を呼ぶ。
求めていたのはこの腕だったと、心の奥で理解した。




「−−−−この地の結界を破るとは、さすがは『天上鬼』といったところか」

震えるサーリヤを抱きかかえるようにして立ち上がらせ、ガールがイザークとアゴルの元へ移動するのを静かに目で追いつつ、ネッサが抑揚のない声で呟く。

ほのかな燭台の灯にぼんやりと照らしだされた祭壇の上に立つジーナを、翼を収め、両の拳を握りしめて立つイザークがまっすぐに見上げる。

「俺は、『天上鬼』じゃない」

その言葉に、ネッサがクククッと喉を鳴らす。

「そういえば、『目覚め』の娘も封印される前にそのようなことを言っておったな」

「−−−−−−−」

その言葉に、イザークは一瞬大きく目を見開いたが、すぐに気を取り戻し、鋭い視線でネッサを見返した。

「街の混乱ももうすぐ治まる。俺はもうあんたの思い通りにはならない。もう、あんたの目論見は叶わないとわかったはずだ。−−−−無駄な抵抗はやめて、ノリコを返してもらおう」

感情を抑えた低い声で告げるイザークに、ネッサはまたクッと嘲るように喉を鳴らした。

「無駄な抵抗?私の力なくば愛しい娘の封印を解くことさえできぬくせに、大層な口をきけるものだな」

言いながら、スッと右腕を持ち上げ、掌をイザークに向けてかざす。

「...まったく。そなたにはほとほと愛想が尽きたよ」

「−−−−−!」

その腕の動きに合わせて、イザークがわずかに腰を落として身構える。が、それと同時にネッサの掌はほんのわずかに左に動き、つい先程までサーリヤがうずくまっていた場所−−−いや、正確には、ガールが二本目の矢を打ち込んだ場所に向けて、冷気に包まれた鋭い気の塊がシュッと短い音と共に放たれた。

「!!」

その動きに気づき、イザークが即座に駆け出すが、間に合わない。

氷塊をその上から打ち込まれた矢は、そのまま深々と氷の壁に食い込み、その場所から、ビキビキビキッと小枝が裂けるような音とともに、大きな亀裂が上下に広がった−−−その中に眠る、ノリコに向かって。

 『−−−破壊すれば、中の娘もろとも粉々に砕け散るぞ』

いつかの、ネッサの言葉が脳裏をよぎる。
ネッサの狙いに気づき、イザークの顔が一気に青ざめた。

「!やめろっ....!!」

素早く氷の壁に駆け寄るイザーク。その間にも、壁に入った亀裂はどんどん枝分かれし、放射線状にビキビキと広がっていく。

「ノリコ....!!」

ノリコの右手の上を横切り、大きな亀裂がその胸部を横断していくのを真っ青な顔で見ているしかなかったイザークが、咄嗟に両足を開いて踏ん張り、眠るノリコを氷の上から抱きしめようとするかのように両腕を開いて壁に手をついた。

「イザーク....!」

事の成り行きにただ唖然としていたアゴルとガールが、同時に声をあげる。

サーリヤの肩を抱き保護しているガールを神殿入口近くに残し、アゴルは慌てて壁際のイザークに走り寄った。

氷の壁に向かったまま、イザークは無言だ。

今、どれほどの力でもって壁の破壊を抑えようとしているのかは、その小刻みに震える緊迫した両肩を見ればわかる。だが、たとえイザークが持てるすべての光の力を費やしたとしても、壊れてしまったものを元に戻すことはできまい。

「イザーク、無理だっ....!」

亀裂は、ビキビキと音を立てながらどんどん大きくなっていく。ただ抑えているだけでは、いつまでも氷が砕け散るのを止められるわけがない。

かといって、イザークの必死の抵抗に加勢することも叶わず、アゴルは呆然と立ちつくした。このままでは、氷共々ノリコの身体が砕けてしまう!

どうすればいい?!

「無駄なことを....」

ぽつり、と愛娘の声でネッサが呟くのを耳にし、アゴルはギッと祭壇に視線を戻した。

「ネッサ!」

怒りに満ちた声で、初めて、その名でジーナを呼ぶ。

愛しい娘の身体を奪った怨霊が相手だと知りつつ、何事もなかったかのように『ジーナ』と愛しみを込めて呼びながら、無理に笑顔を作る必要はもうなかった。

「やめるんだ、ネッサ!」

中身は違うとわかってはいても、やはりその姿は愛娘のものだ。
完全には憎みきれぬままで、アゴルは身体ごとネッサに向き直り、声を張り上げた。

「こんなことをして何になる?!お前の復讐劇にノリコ達を巻き込むな!」

「......」

厳しいその声に、氷の壁の前に立つイザークの背中を愉しげにみつめていたネッサが、ふと視線をアゴルに向けた。

「−−−−『お父さん』。あなたにはまだ役に立ってもらわないといけないから、できれば傷つけたくはないの。下がっていて」

『ジーナ』を装っていた時の口調に故意に戻して、にやりと笑う。

同じ顔なのに、中身が違うだけでこうも印象が変わるものか。背筋がゾッとする思いで立ちつくすアゴルから、ネッサは再び視線をイザークに戻した。

「私の役に立たぬのならば、『天上鬼』と『目覚め』など目障りなだけ」

冷ややかに、呟く。

と同時に、どこからともなく飛んで来た無数の細い紡錘のような氷柱が、ガガガガガッとイザークの背に容赦なく突き刺さった。

「イザーク!!」

「......!!」

身動きできないまま、イザークが大きく目を見張る。

氷の紡錘が突き刺さったその肩から、背から、上着の布地の上に赤い血の染みが広がっていく。

それでも、イザークは微動だにしない。
集中を解き手を離せば、目の前の氷は瞬く間に砕け散る−−−−。

(ノリコ−−−−−−!!)

顔を上げ、動かないノリコの青白い顔を食い入るようにみつめる。

ノリコをこの氷から解き放つためには、ネッサが封印を解くか、ノリコ自身が『出たい』と望むしかないのだ。

(ノリコ、目を覚ましてくれ−−−−−!!)

背中の無数の傷よりも、ノリコを永遠に失うかもしれない恐怖に、背筋が凍る。息ができないほど苦しくなる。

なのに自分には、こうして破滅の時を遅らせることしかできないのか。

(ノリコ....!!)

イザークの必死の心の声が聞こえたかのように、ネッサがクククッと笑い声を上げた。

「無駄だよ。その中に望んで入った者が、自ら目を覚ますことは決してない。私がそう術をかけているのだから」

イザークの一縷の望みを踏みにじるかのように、ネッサは愉しげに言った。

「『目覚め』をそこから出せるのは私だけだよ。だが、もうそなたにチャンスを与えるつもりはない」

それは、死の宣告にも等しい一言だった。

両手を壁につき、ノリコの眠る顔を食い入るようにみつめたまま、イザークはぐっと奥歯を噛み締めた。

どうすればいい?!

「−−−もう苦しむな!」

唐突に、吐き出すように叫ぶ。
その言葉に、ネッサがわずかに目を見張った。

「...なに?」

「あんたの....気持ちはわかる。ノリコだけが、俺をありのままに受け入れてくれた。俺の孤独を癒してくれた。そのノリコを失えば、俺も光を失う。あんたと同じようにきっと狂うだろう。だが....」

ノリコの顔から、氷の壁に映っている祭壇上のジーナに視線を移し。

「俺からノリコを奪っても−−−−あんたの一族に復讐を果たしても−−−あんたの乾きは止まらない!あんたが囚われてるその闇から、解放されることはないんだ!」

呼びかける−−−その心に。

「これ以上、苦しむな!その苦しみから解放されたければ、恨むことをやめ、自分でそこから抜け出すしかないんだ!」

「な..に...」

口元に嘲笑を浮かべていたネッサの表情が凍りつく。
そんな彼女の表情の変化までは氷の鏡からは読み取ることはできないまま、イザークは続けた。

「あんたは、独りじゃない」

...『彼』は、今ここにいるのだろうか。

昨夜以来、彼は姿を見せない。

周囲を占める闇が濃すぎて、イルクツーレはこの神殿の中に入ることさえできない。
が、この神殿の中で息絶え、ネッサの魂が闇に堕ちてもなお、永い時を彼女に寄り添い続けてきたシュラクであれば、今この瞬間も、彼は彼女のそばにいるのかもしれない。

「...すべてを失ったあとも、あんたは真に孤独じゃなかった」

氷の紡錘は今もイザークの背に刺さったままのため、傷が癒え始めることがない。
出血のせいだろうか。膝から下の感覚が鈍りはじめている。

ハア、とやや苦しげに小さく息を吐きながら、イザークは壁に両手をついた姿勢のまま、静かに目を閉じた。

「あんたには−−−−いただろう。本当のあんたをちゃんと見てくれてたヤツが」

 曇りのない目で、本当の自分をみつめ−−−無償の愛を与えてくれた相手が。

 俺の−−−ノリコのように。

「見失うな。あんたも−−−−俺も、そんな相手に巡り会えただけで、充分恵まれていたんだ」

もっと不幸だった奴がいた。

そんな唯一無二の存在にも出会えず、子供の頃からの飢餓感に逆らえず、闇の中に心の隅まで飲み込まれてしまい、『元凶』に利用されて朽ち果てた男が−−−−。

それに比べれば、自分達はどれだけ幸福だったことだろう。

「思い出せ−−−あんたの、『希望』を」

言いながら、イザークの脳裏に浮かぶのは、花のようなノリコの笑顔。

(ノリコ....)

知らず口元に微笑みを浮かべたイザークの背に、次の瞬間投げかけられた言葉には、しかしなんの感情も含まれてはいなかった。

「希望など、ない−−−−」

やはり、もう駄目なのか。
何を言っても、ネッサの心に響くことはないのか。

シュラクが求めていた、彼女を救うための『一瞬』を、イザークは作ることができなかった。

もはや、ネッサを−−−ノリコを救う術は、残されていないのか。

絶望の闇がじわじわと背後からにじりよってくる感覚に、イザークの肩の力がわずかに抜ける。その姿をさも愉快そうにみつめたまま、ネッサが再び右手を上げた。

「−−−茶番は終わりだ。目の前で『目覚め』の砕け散る姿を見て、そなたも狂うがいい」

向けられた右手から放たれる冷気の矢は、イザークの背に追い打ちをかけるためのものなのか。それとも、氷の壁自体に致命的な一撃を与えるものなのか。

どちらにしても、その一撃が投げつけられれば、すべてが終わる。

「.....!」

相手がジーナのため、それまで我慢していたガールが、思わず弓を構えた。
たとえ少女の身体を傷つけることになっても、イザーク達を助けなくては−−−−−。

「−−−−やめてくれ!」

今まさにネッサが攻撃を放とうとし、ガールがジーナの腕に向かって矢を向けた瞬間、バッと両手を広げたアゴルが、ネッサとイザークの間に割って入った。

「ネッサ−−−−いや、ジーナ。やめるんだ」

まっすぐに壇上のジーナを見上げたまま、アゴルが一歩前に出る。
その右手には、小さな巾着袋が握られていた。

「....なにを?」

「これは、ジーナの占石だ。これを渡す。だから、イザークとノリコからは手を引いてくれ」

必死の形相で見上げてくるアゴルに、ネッサは一瞬虚を突かれたように目を見開いたあと、クククッと可笑しそうに笑った。

「何を言い出すかと思えば....そんなもので命乞いとは、な」

「ただの占石じゃない。ガールも言っていただろう?ジーナの占者としての真の力を発揮させるには、この占石が必要だ」

言って、もう一歩踏み出す。

「ジーナの身体に取り憑いて、あんたも気づいたはずだ。ジーナの未知数の力に」

もう一歩。

「これがあれば、あんたはジーナの力を最大限に生かせるようになる。これから−−−ジーナとして、俺の娘として生きていくんだろう?だったら、必要な力じゃないのか?」

「アゴル?!」

「−−−−アゴル、やめろ!」

今のネッサにそれを渡すことは、狂気の沙汰でしかない。今以上に力をつければ、誰もネッサを倒せなくなってしまう−−−最終的に、彼女が復讐を果たすために悪用されてしまう。

振り返ることも適わないままイザークが−−−弓を構えたままのガールが、叫ぶ。

が、まるで彼等の声が聞こえていないかのように、巾着袋を持った手をネッサに向かって差し伸べたまま、アゴルは動かない。

「どうだ?悪い取引きじゃないはずだ」

固いその声に、ネッサがふっと目を伏せて微笑んだ。
イザークの背に向けられていた右の掌をひっくり返し、アゴルに向かって指先で手招きする。

「−−−−よかろう。こちらによこせ」

言われて、だが巾着袋をネッサに投げやる代わりに、アゴルは袋を手にしたままゆっくりと踏みしめるように祭壇へ向かう階段を昇った。

ほんの数段の階段を昇りきり、目の前のジーナを見下ろす。

「.....」

無言で、ネッサが、『渡せ』と右手で催促する。
その口元には、どこか優越感に満ちた満足げな笑みが浮かんでいる。

「−−−ちょうだい、『お父さん』」

神経を逆撫でする気なのか、わざとジーナの声音を真似てみる。

次の瞬間、ネッサの目の前ですっと膝を折ったアゴルは、ジーナの小柄な身体を両手で強く抱き寄せた。

「なっ....?!」

啞然とするネッサ。

愛娘の身体をきつく包み込むように抱きしめたまま、アゴルが目を閉じる。

「ジーナ!戻ってきてくれ、ジーナ!」

ネッサの魂に押しのけられ、今はその身体のどこか奥深くで眠らされているジーナハースの魂に直接呼びかける。

「ジーナ!!」

「おのれ....!」

アゴルの真意に気づき、ネッサの形相が豹変する。

アゴルの腕を解こうともがくが、背中でがっちりと組まれたアゴルの腕はびくともしない。

「ジーナ!」

目を閉じたまま、祈るような気持ちで繰り返したアゴルが、次の瞬間、カッと大きく目を見張った。

「ウッ....!」

胸の奥が焼けつくような感覚。

肺の中の空気が瞬時に凍らされたのだと気づき、アゴルは酸素を求めて口を開いたが、凍りついた肺は息を吸い込ませてはくれない。

「ジ..ナ...」

それでも、愛娘を抱きしめる腕を緩めようとはせず、苦痛に顔を歪めながら、アゴルは顔を上げ、ジーナの菫色の瞳をじっと覗き込んだ。

「還って...おいで」

その瞳の奥にいるはずの娘をみつめ、アゴルは微笑んだ。最期に、愛しい娘の顔を記憶に焼き付けようとするかのように。

(ジーナ....)

その顔が徐々に土気色になり、腕から力が抜け、ジーナの肩にくずおれるように倒れる。

その、瞬間。

「や....」

明らかに、ネッサとは違う声が、少女の細い喉の奥から漏れた。

「やだ...」

菫色の瞳から、わっと涙が溢れ出す。
小さな手が動き、アゴルの肩を上着の上からくっと握りしめた。

「死んじゃやだ、お父さん...っ!!!」


−−−−−パンッ!と何かが弾けたような感覚。


一瞬の眩い光のあと、そこには、わんわん大泣きしながらアゴルにしがみついている『ジーナ』がいた。

「お父さんっ!」

急に呼吸ができるようになった瞬間、肺一杯に大きく息を吸い込む。何度か過呼吸になったあと、アゴルはハッと我に返って起き上がり、泣きじゃくるジーナの両頬を掌で包んだ。

「ジーナ....!?」

確かめるように、名を呼ぶ。

涙に濡れた両頬を包まれたまま、何度も何度も、ジーナが大きく頷いてみせた。

間違いない。還ってきた。

俺の、娘だ。

「ジーナ.....!!」

万感の思いで、アゴルは愛娘の身体をしっかりと抱き寄せ、深く深く安堵の溜息をついた。



『おのれぇ.....!』

地の底から沸き上がるような低い声が、再会を喜び合う親子を現実に引き戻す。

ハッと顔をあげたアゴルは、祭壇上に膝をついた姿勢から素早く起き上がり、ジーナハースを背後に回した。

「ネッサ.....」

祭壇の中央近くに、うずくまった人影。
長い黒髪が、その背に、床に広がっている。

初めて目にする、ネッサの真の姿。

向こうが透けて見えるその姿にただならぬ脅威を感じ、アゴルがごくりと喉を鳴らした。

「おとう...さん....」

その姿は見えぬものの、黒いねっとりとした闇の塊だけは感じ取り、ジーナが恐怖に震えながらアゴルの背にしがみつく。

後ろ手に娘の身体を支えながら、アゴルはゆっくりと階段を一段ずつ慎重に確かめながら降りきった。


『よくも....』

怒りにわなわなと肩を震わせながら、ゆっくりと、ネッサが立ち上がる。

『誰も、生きてここを出れるとは思うな....!』

音もなく静かに一同を振り返ったその漆黒の瞳の奥には、闇よりも濃い『無』の影が広がっていた。



*********************

<あとがき>

ス、スミマセン....。「次でクライマックス」とか言っときながら、なんかちょっと思ったより長くなりそうなので、ここで一旦切らせてください。いや、もう、ホント、次で間違いなく最期です。スミマセン!!!(汗)
(あ、でも、終章も書く...ということで、あと2回か)

2 件のコメント:

  1. 凄いです。
    一気に読んでしまいました。原作の登場人物達がそのままに脳裏に浮かんで目の前で動いてるんですよ。
    続きが待ち遠しいです。がんばってください。

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    1. コメントありがとうございます!気に入っていただけてなによりです。イザークとノリコを苛めすぎちゃっててごめんなさい。次の章でなんとかまとめます。今度は1ヶ月もお待たせせずにアップできるようにがんばりますね。
      これからもよろしくお願いします!

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