冷たく冴えた夜の空気。
月が見えない新月の晩は、やけに周囲の闇が濃い気がする。
石造りのベランダの手すりに腕を組んで寄りかかり、はるか眼下にある城下町とその先の港を表情のない顔で見下ろしながら、イザークは軽く息をついた。
また、同じ夢だ。
耳元で囁かれた女の声は、まるでその吐息まで聞こえてきそうなほどリアルだった。
砂の塊を飲み込んでしまったかのようなざらついた感覚を胸の奥から消せなくて、イザークはそっと寝台を抜け出し、夜気に当たっていた。
(イルクを呼ぶべきか.....)
『元凶』との戦いの際にも、幾度となく自分達を助けてくれた朝湯気の木の精であれば、何か知恵をくれるかもしれない。もしくは、ジーナに占ってもらうべきか。
もう、単なる夢として片付けるわけにはいかない気がする。あの夢が意味するものがなんであるにしろ、ノリコに危害が及ぶような事態だけは避けなければならない。だが、ほかに何も兆候がないこの段階で、下手に騒ぐのも憚られる。
「......」
考えれば考えるほど、何が最良の道なのかわからなくなり、イザークは再び溜息をついた。
−−−−コンコン....。
不意に、硝子戸を軽く叩く音がして、イザークはハッと背後を振り返った。
寝室へ続く開き扉の向こうから、ノリコが小首を傾げてこちらを見ている。イザークと目が合うと、嬉しそうにニコッと笑って扉を開けてきた。
「イザーク♡」
「−−−どうした?眠れないのか」
「目が覚めたらイザークがいなかったから...。イザークこそ、眠れないの?」
開き戸をきちんと閉めて外気が中へ入らないようにしてから、大きな毛布を肩からすっぽりと被り、ノリコはトコトコとイザークのそばへと歩み寄ってきた。
「そんな薄着で外に出てたら、風邪引いちゃうよ」
毛布ごとぽふっと腰に抱きついてきたノリコに、イザークはフッと笑顔になった。
無言でノリコから両手で毛布を奪い、ふわりと自分の肩からかけ、ノリコを引き寄せて腕の中に抱きかかえる。
一瞬びっくりして目を丸くしたノリコだったが、イザークに背後から抱きしめられて一緒に眼下の町の夜景を眺める形になり、頬をうっすらと染めてくすぐったそうに笑った。
「あったかい....」
すっぽりと毛布とイザークの腕に包まれ、顔だけを外気にさらしながら、ノリコは、少し身を屈めて抱き寄せてくれるイザークの胸に背を預けた。
「......」
自分のことを信頼しきっているその細い肩を抱きしめる。甘い香りのする栗色の髪に頬を寄せ、イザークは、心地よい温もりに目を閉じた。
ノリコを腕に抱き、彼女の体温をこうして肌で感じている時間が、イザークにとっては何よりも至福の時だ。ノリコ以外のすべてのことは、なんの意味も持たなくなる瞬間。
「イザーク....何か悩んでない?」
眼下に広がる町の景色を何気なくみつめ、ノリコがぽつりと呟いた。
ノリコを両腕で優しく抱きしめた姿勢を変えずに、イザークが静かに目を開く。その漆黒の瞳は、どこを見るともなく、目前の闇に向けられたままで。
「−−−−−なんでもない。ノリコが気にすることはない」
「でも....」
「昼間のことは、すまなかった。どうかしていた。彼女にも、明日きちんと謝罪しておく」
「−−−−−−」
うまくかわされたことはノリコも気づいていたが、それ以上は追求することもできず、口ごもった。いつも自分を守ってくれる力強い腕にそっと下から手を添え、さらに深く身を預ける。
「−−−−サーリヤ様って....」
しばらくして、またぽつり、と呟く。
「...?」
ノリコの口調の変化に気づき、今度は顔を上げ、イザークはノリコの顔を覗き込んだ。
その顔をちらりと振り返ったあと、ノリコが少しきまり悪そうにイザークの腕の中に顔を埋めた。
「今日話してて思ったんだけど−−−サーリヤ様って、もしかしたら、イザークのことが好きなんじゃないかなって....」
ぼそっと囁くような声で続けたノリコに、イザークは一瞬、意表を突かれたように目を見張ったが、すぐに元の穏やかな表情に戻った。
「−−−さあな」
「さあなって、イザーク....」
妻としては変にドギマギされても困るが、相手は絶世の美女で一国の王女なのだ。あまりにも興味なさそうに答えられるのもどうしたものかと。思わず肩越しにイザークを振り返り、ノリコは困ったように眉を寄せた。
そんなノリコの反応が面白くて、イザークは思わず口の端が緩む。
「珍しいな。ノリコがやきもちを焼いてくれるのか」
「ちっ、違うもん!そんなんじゃなくて...。だって、相手は王女様だよ。そんな人が本気でイザークを望んだら、そう簡単に断れるものじゃないでしょ」
顔を真っ赤にして焦るノリコを抱きしめる腕にぎゅっと力を込め、イザークは、ノリコの頭に顎を乗せて遠くを眺めた。
「−−−俺には、ノリコだけだ」
ほかには何も要らない。
欲しいのは、この温もりだけだ。
「イザーク....」
「それに−−−−」
言って、頬を染めているノリコの顔を横から覗きこみ。
「−−−俺には、すでに生涯の忠誠を誓った王女様がいるからな」
「!!」
しれっと言うイザークに、今度はノリコが大きく目を見張った。アイビスクの小さな村での出来事を思い出し、その顔が見る間に耳まで真っ赤になる。その動揺しきった顔を見て、イザークが楽しそうにクッと喉を鳴らして笑った。
「もおおーーーっ!イザークったら、またっ!」
毛布の中でくるりと身体ごとイザークに向き直り、ノリコはその胸をぽかぽかと軽く叩いた。
「もおっ...!」
「からかっているわけではない。俺はあの時本気でノリコに忠誠を誓ったんだ」
「だーかーらー、そんなこと真顔で言わないでぇーー」
いつものことながら、イザークの言葉にすぐに動揺してしまう自分を悔しがるノリコにひとしきり楽しそうに笑ったあと、イザークは、ノリコの肩に腕を回してもう一度抱き寄せた。
「−−−−早くグゼナに帰りたいな」
「イザーク...」
「ノリコとまたふたりで旅に出るのが、今から楽しみでならん....」
ノリコを抱きしめたまま、その頭に頬を寄せ、イザークが呟く。
その逞しい背に腕を回しながら、ノリコは少し躊躇した様子で恐る恐る口を開いた。
「あの、そのことなんだけどね....」
「?」
イザークが、少し怪訝そうに顔を覗き込んでくる。途端、ノリコは慌ててふるふると頭を横に振った。
「あ、なんでもない!−−−それより、そろそろベッドに戻ろうよ。明日はガール様達と遠出するんでしょ?あんまり夜更かししてると明日に支障が出ちゃうよ」
「ああ....」
イザークは何か言いかけたが、にっこりと笑ったあとするりと自分の腕の中を抜け出して歩き出したノリコの温もりを追うように、そのまま部屋の中へと戻った。
*********
正面城門に続く広々とした石畳の前庭には、朝早くから、多くの警備兵達が馬と馬車の準備をしていた。今日は、サーリヤ王女が同行して、ザーゴ使節団を近郊の鉱山の視察に案内することになっている。サーリヤ、ガールとリヤッカが乗る豪奢な馬車を中心に、相当数の騎馬兵が立ち並んで、一同の出発を待っていた。
「−−−じゃあ、行ってくる」
ガールに手を借りてサーリヤが馬車に乗り込む姿を見届けた後、自分に与えられた馬の鞍に手をかけながら、イザークがそばに立つノリコを振り返った。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
ノリコがにっこりと笑顔を返す。
「ノリコのほうこそ、あまりうろちょろするんじゃないぞ」
「もおーー。あたしがまた迷子になると思ってるの?もしかして、それでロンタルナにあたしのおもりを頼んだりしたの?」
ノリコが不服そうに上目遣いにイザークを見上げた。
今朝になって急に、一日中ノリコとジーナだけを城に残すのは不安だからと、イザークはロンタルナに一緒に城に残るように依頼したのだ。
イザークとしては、本当はアゴルに残ってもらいたかったところだが、リヤッカに『警備費の無駄だ』などと散々言われそうだったため、ジェイダ左大公の息子であり、警備隊員というよりはガールの友人として今回の旅に参加しているロンタルナに、『任意で』残ってもらうことにしたのだった。
「−−−−用心のためだ。ロンタルナ、あとは頼んだ」
「ああ、任せといてくれ」
ノリコの少し後ろにジーナと一緒に立っていたロンタルナが、にこっと笑って片手を上げる。軽く頷き、イザークはノリコに視線を戻して、その細い肩に手を添えた。
「何かあったら、必ず俺を呼ぶんだぞ」
「う、うん...」
「あー、まーたやってんのか、お前らは」
すぐそばから、大袈裟な溜息とともに呆れたような声が降ってきた。
イザーク達が同時に顔を上げると、イザークの馬の向こう側に並んだ馬の上で、バラゴが腕を組んでこちらを見ていた。
「バラゴさん...」
「たかが日帰りの視察ぐらいで、なーにを大袈裟な。今生の別れじゃねえんだし、過保護もいい加減にしとけ、イザーク」
「え?イザークって結婚しても相変わらずなのか?」
「おうよ。グゼナでも、毎回ちょーっと遠出するたびにこうやってイチャイチャしやがってよ。なっかなか出発できねえし、独り身の俺には堪えるんだっつーの。なあ、アゴル!」
「俺を引き合いに出すな、バラゴ....」
「へええ〜」
バラゴの大声を耳にして、コーリキやアゴルも馬を寄せて会話に加わってきた。
「だってよ、結婚して少しは落ち着くかと思ってたのに、ますます所構わずイチャイチャするしよ。もういい加減にしろって言いたくなるってもんだろ」
「いや、だから、それを見ないフリして見守るのが大人じゃ....」
「へー、イザークっていちゃいちゃするんだ....」
固まっているイザークとノリコを振り返りつつ、気の毒そうにフォローを入れるアゴルと、感心したように頷くコーリキ。その後ろでは、会話を耳にしたバーナダムも頭痛がするかのように額を押さえている。出発の準備をしていたタルメンソン国王の警備兵達も、何事かとチラチラとこちらを見始めていた。
「〜〜〜〜〜〜〜」
なんとも言えない表情で、イザークがノリコから手を離し、真っ赤になった顔を押さえた。もうこれ以上おちょくられるのに耐えられず、素早く腰の剣を確認した後、ひらりと軽い身のこなしで馬に跨がる。
「−−−行ってくる」
「うん」
こちらも少し照れくさそうに頬を染めながら、ノリコは馬上のイザークを見上げてにっこりと笑った。
「いってらっしゃい。早く帰ってきてね」
「ああ」
片手を軽く上げて一行に出発の合図をし、イザーク達が隊列に加わると、隊が一斉に動き始めた。
「いってらっしゃーい!」
一行が出発し、彼らの背後で重い城門が閉められるまで、ノリコ達は前庭でその姿を見送っていた。
********
「ホントにごめんね、ロンタルナ。退屈だよね、こんなの」
曇り硝子越しにやわらかい陽の光が差し込む、静かな図書室。隣に座るジーナに読み聞かせていた本をぱたんと閉じて、ノリコはすまなさそうにテーブルの向かい側に座るロンタルナを見た。テーブルに両肘をついて歴史書を熱心に読みふけっていた青年が顔をあげ、にこりと笑う。
「いいんだよ、ノリコ。俺はもともと読書好きだし、こうして静かに好きな本を読んでいられるなんて最高の贅沢だって思ってるんだ。退屈な鉱山視察に行かなくて済んだんで、逆にイザークに感謝しているくらいさ。コーリキなんか、『なんで兄さんだけ!』って悔しがってたんだよ」
「そうなの?ならいいんだけど...」
「ま、馬車の中であのガールがサーリヤ姫とどんな会話してんのかっていうのは、気になってはいるんだけどね」
サーリヤの前に出ると途端に冷静さを失うガールのことだ。リヤッカも同行しているとはいえ、密室の中でサーリヤと数刻一緒に時間を過ごしているのだから、きっと傍目には非常に面白い事態になっているはずだ。
「いやあ、どんな結果が出るのか、今から楽しみだなー」
本当に楽しそうにニヤニヤするロンタルナに、ノリコも思わず笑顔になる。
「ガール様達、うまくいくといいね」
「まあ、あいつは間違いなくあの姫君に惚れちゃってるね。彼女の気持ちはどうだか俺にはわからないけど、元々、婚姻の申込みをしてきたのはあっちなんだから、ガール自身がOKなら、話は早いと思うよ」
「ロンタルナは、ガール様とは子供時代からの友達なんだっけ」
「そうそう。あいつ、頭は切れるし要領も良いけど、女の子にはからっきしだからなー。誰かを好きになったらバレバレだよ。この調子なら、近いうちに俺達も国に帰れるんじゃないかな。で、来年の春には婚姻の儀ってところだね」
「今回の求婚には何か裏があるんじゃないかって言ってる人もいるんじゃないの?」
「まあね。でも、『元凶』も滅びて、イザークやノリコ達のその後の努力もあって、今じゃどの国も平和になったし。裏があったにしても、勢力のあるザーゴ国と同盟を結ぶことで、大陸中央部との貿易を盛んにして自国をさらに潤したいってぐらいなんじゃないのかな。だから、お父さんもあまり心配はしていなかったよ。一番大事なのは、ガールがこの婚姻に納得するかどうかだって言ってたから」
「そっか。ジェイダさんも心配してないんだったら、安心かも」
「あのお....」
−−−−−ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅ.....。
ノリコとロンタルナの話の腰を折りたくなくてずっと遠慮していたジーナが、たまりかねておずおずと声をかけたのと、少女のお腹が部屋中に鳴り響くような大きな音を立てたのが同時だった。
「ジ、ジーナ?!」
「ごめんなさい....。お腹、空いちゃった....」
両手を膝の上で握りしめ、恥ずかしさに耳まで真っ赤になったジーナが、蚊の鳴くような声で呟いた。慌ててノリコが立ち上がる。
「やだ!ごめん、ジーナ!お昼とっくに過ぎてたね!気づかなくってごめーん!」
「あ、本当だ。すっかり読書に夢中になってしまってたよ」
「そうだ!厨房の人にお願いして、お弁当作ってもらおっか。今日は天気も良いし、中庭でピクニックしちゃおうよ」
「うん♡」
ノリコの提案に、ジーナも嬉しそうに笑顔になった。
*****
大きなアーチ型の支柱が並ぶ回廊に囲まれた中庭には、小さな噴水を中心に、丁寧に手入れされた植込みが花を模したパターンをきれいに描いている。回廊から中庭に降りる階段が四方にあり、その両脇に数本ずつ植えられた木々の葉は、秋らしく鮮やかな紅に染まっていて、ノリコはもみじのようなだな、と少し懐かしい気分になっていた。
「あー、食った、食った!」
天に向かってめいっぱい両手を伸ばしてから、ロンタルナがごろんと芝生の上に横になった。その様子に、そばに座ってデザートの果物を摘んでいたジーナがクスクスと笑う。
「おにいちゃんもお腹空いてたんだねー」
「いやあ、読書に夢中になってて、まさかこんな時間になってたなんてさ。ジーナがお腹空かせるはずだよ。お昼というより、もう午後のおやつの時間だったもんな。ガール達も、もうそろそろ帰ってくるんじゃないかな」
「−−−−あ!」
ロンタルナの言葉に、ノリコがハッとして飛び上がった。
しまった。すっかり忘れていた。
イザークが帰ってくる前にはっきりさせておきたかったのに。
「ジーナ!ちょっとお願いが...」
「うん。なあに?」
「あのね−−−−」
両の手を握りしめ、隣のジーナに向き直って何か言いかけたノリコは、すぐそばで横になったまま、何事かとこちらを見ているロンタルナの視線に気づいてはた、と口を閉じた。
「あ、あの、ロンタルナ、ちょっと席を外してもらえる?」
「え?何、俺には内緒?」
「うん、あの、ちょっと−−−−。女の子だけの会話なの」
「あー、はいはい....」
グローシアという妹がいるだけあって、『女の子の会話』に関して余計な詮索をするのは身のためではないと重々承知しているロンタルナは、特に気にした様子もなく、ノリコの言葉にすっくと立ち上がった。
「じゃ、俺はあっちの階段のとこにいるから」
「ありがと、ロンタルナ」
これがバラゴだったら、『なんだなんだ、俺にも教えろ』となっていたことだろう。
中央入口に向かう階段を指差しながら歩き出す気のいい青年に心から礼を言い、彼が実際に階段のところまで辿り着いて、よいしょ、と腰を下ろすのを見届けてから、ノリコはもう一度ジーナを振り返った。
「ジーナ、あのね....」
少し躊躇ったあと、ノリコは、周りに誰もいないにもかかわらず、ジーナに顔を寄せてボソボソッと耳打ちした。
最初はなんのことかときょとんとした表情だったジーナの顔に、ゆっくりと嬉しそうな笑みが浮かぶ。
「−−−−できるかな?」
ジーナから顔を離し、少女の前にちょこんと正座した状態でノリコが首を傾げる。その言葉に、ジーナはこっくんと大きく頷いてみせた。
「うん。それぐらいだったら、占石を使わなくてもできると思うよ」
言って身を乗り出し、そおっと伸ばしてきたジーナの右手を誘導して、ノリコは自分の下腹部に当てた。ほんの少しだけ、緊張した面持ちになる。
「....どお?」
「うん」
ゆっくりとノリコから手を離し、ちょこんと座りなおして。
確信に満ちた表情で、ジーナがにっこりと笑う。
「間違いないよ。小さな小さな光が、お姉ちゃんのお腹の中にいるよ」
「......!」
ここ最近の自分の身体の変化に、もしかしたら、と思っていた。
でもぬか喜びだったら...とつい慎重になり、まだ言えずにいたのだけれど。
(あたしとイザークの.....)
ジーナの言葉に、無意識に下腹部を包むように両手で押さえ、ノリコの顔にゆっくりと、満面の笑みが浮かんだ。今までに経験したことのない、恐れと悦びが入り交じった不思議な感覚に、居ても立っても居られない気分になる。
(イザーク−−−−)
思わずイザークに呼びかけそうになって、ノリコは慌てて意識を閉じた。
これはやっぱり、面と向かって伝えたい。分かち合いたい。
「......」
感極まって、ノリコの頬を知らずぽろぽろと涙が伝った。
(−−−−何を話してるのかなあ?)
ジーナに向かって何やら話しているノリコの背中を遠くからみつめながら、ロンタルナは軽く溜息をついた。女の子というものは、どうしてこうも内緒話が好きなのだろう?
(まあ、いいけどね....)
あまり深くも考えず、階段に腰掛けたまま自分の膝に肘をついていたロンタルナは、階段の上にいつの間にか立っていた人影に気づいて、ん?と顔を上げた。
「あれ−−−イザーク、いつの間に...」
名を呼ばれ、漆黒の髪の青年がゆっくりと階段を下りてきた。階段の途中に腰を下ろしているロンタルナと目の高さを合わせ、立ち止まる。
「−−−−正面広場でガールが呼んでいる」
表情を欠いた平坦な声。
イザークがノリコ以外の人間に対してあまり感情を見せないのはいつものことだが、ここまで無機質で乾いた表情をする男だっただろうか?
わずかな違和感を覚えつつも、ロンタルナはすっくと立ち上がった。
イザークが戻って来たのであれば、ノリコの護衛としての自分はお役放免だ。邪魔者はさっさと退散するとしよう。
「わかった。じゃあ、あとはよろしくな」
さっと片手を上げて挨拶し、軽い足取りで階段を登って行く。ほんのわずかに顔を傾けてその気配が遠ざかるのを確かめたあと、イザークは、中庭の中央近くにいるノリコ達に向かって音もさせずに歩き始めた。
**
「−−−−−−!!」
座ったまま、ノリコと手をつないで喜びを分かち合っていたジーナが、急にハッと表情を凍りつかせた。その小さな手を通じて様子の急変に気づいたノリコも、ふっと真顔に戻り、小首を傾げる。
「ジーナ?」
「.......」
金縛りにあったように全身を硬直させたまま動かないジーナを不思議に思いながら、ノリコは、ふと後方に動く気配を感じて振り返った。そして、パッと花が咲いたように笑顔をほころばせる。
「−−−−イザーク!!」
考えるよりも先に身体が動いていた。
ジーナと手をつないだまま即座に立ち上がり、こちらに向かってゆっくりと歩いてくる夫に、少しでも早くこのニュースを伝えたくて歩き出そうとして−−−。
「−−−−だめっ!」
ノリコにつられて立ち上がったジーナが、歩き出そうとするノリコの左手を掴んだまま、必死で足を地面に踏ん張らせ、鋭く叫んだ。
「行っちゃだめっ!!」
「ジーナ?!」
訳が分からない。
早くイザークに抱きつきたい一心で、少し煩わしげにジーナの手を振りほどこうと振り返ったノリコは、見たこともないような必死の形相でこちらを見上げているジーナに気づき、ハッと目を見張った。
「ジーナ....どうしたの?」
ノリコの左手を両手で握りしめたまま、ジーナの全身がガクガクと小刻みに震えはじめていた。見る間に顔色を失っていく。
「だめ....」
震える声で。
「『アレ』は、おにいちゃんじゃないよ.....」
「えっ?」
視えないものが視えるジーナハースの目に映っているのは、慣れ親しんだ背の高い青年の暖かい光の色ではなかった。まるで実体を持たない幽霊のように、ゆうらりと左右に揺れながら近づいてくる『ソレ』は、ドロリとした濃い闇をぐっと収縮したような、邪気に満ちた人影。怖くてすぐにも逃げ出したいのに、目が離せない−−−−。
「ジーナ、何言ってるの...?」
ジーナの様子の変化に困惑しきった様子で、ノリコは身を屈めて少女の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だよ。イザークが帰ってきただけだよ」
安心させるように笑顔を作りながら、ジーナの両手に右手を添えて、左手を離してくれるように促す。うつむき小刻みに震えながら、ジーナは遂に、観念したようにノリコの手を離した。
「ありがと、ジーナ−−−−わっ!」
呟いて、振り返ったノリコは、すぐ目と鼻の先にイザークが立っていたことに気づいて思わず声を上げた。
「イ、イザーク....」
つい驚いてしまった自分が恥ずかしくて、顔を赤らめる。が、喜びのほうが先に立って、ノリコは即座に目の前の逞しい胸に飛び込んでいった。
「イザーク、あのね!聞いて−−−−」
いつものように腰に両腕を回して抱きつき、顔をあげ−−−−−。
「−−−−−−−−−」
その漆黒の瞳を見た瞬間、ジーナが言おうとしていたことを理解し、ノリコはそのまま凍りついた。
自分を見下ろしているふたつの瞳には、いつも自分を愛しげに包んでくれるやわらかな光はまったく存在していなかった。そこにあるのは、ただどこまでも深い、虚空の闇−−−−。
(−−−−コレハ、イザークジャナイ)
腰の部分から、ぞわり、と悪寒が背筋を駆けのぼった。
反射的に腕をほどいて離れようとしたノリコの肩を、『イザーク』の両手が上からがっちりと押さえつける。ものすごい力。動けない。
「は、離して....」
震える声で懇願するノリコを、乾いた虚無の闇が見下ろしている。
左手でノリコの肩を押さえたまま、イザークの右手がすうっと動き、恐怖に目を見張ったまま身動きできずにいるノリコの額に触れた。氷のように冷たい指先−−−−−。
「おねえちゃんっっ!!!」
背後で自分のスカートにしがみついていたジーナの必死の叫びが聞こえた。
(イ−−−−−−−)
助けを呼ぼうとした声ごと、ノリコの意識は闇に飲まれた。
こんにちは。
返信削除こちらを拝見して久しぶりに「彼方から」にハマりました。
続きを楽しみにしております♡
コメントありがとうございます!今、ちょうど7章目を書いています。あと数日中にはアップできる....かな?
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