11/23/2013

月下草

満月の夜。

開け放たれた窓から差し込む月明かりに、部屋中が青白く照らし出されている。

アイビスクの首都、クレアジータの邸宅の一室で、イザークは目を覚ました。

(−−−−中庭か....?)

かすかにする人の気配を察して、イザークは頭をもたげて窓のほうを見た。窓のすぐ下は、中庭のはずだ。特に心配するような禍々しい気配ではないが....。

身体を起こそうとして、同時に、左腕にかかる心地よい重みに気づき、イザークは目線を落とした。

その腕の中で安らかな寝息を立てている、栗色の髪の少女。

いや、もう少女と呼ぶのは不相応しくないだろう。イザークの逞しい胸に安心しきって身を預けて眠るその横顔は、もう十分に『女』だ。

「......」

愛しさに、その漆黒の瞳が優しく微笑む。

起こさないように細心の注意を払いながら、イザークはそっとノリコから腕を外してベッドから滑り降りた。

「う...ん...」

わずかに身じろぎしたノリコの肩に毛布をかけ、その額にそっとキスを落とす。

ノリコの寝息が深く規則正しい音に変わるのを待ってから、ベッド脇の椅子にかけてあった夜着に腕を通し、イザークは静かに寝室を出た。

********

中庭を囲むように四角く建てられた邸宅。
寝室のある二階から階段を降り、イザークは中庭へ向かった。

政府高官宅であるから、建物の要所要所には夜間の警備兵が立っているが、それ以外は、もう使用人達も皆自分達の寝室に下がっていて、あたりはしんと静まり返っている。

遠くから微かに聞こえる虫の声。夏の夜の空気は澄んでいて肌に心地よい。

甘い香りのする花々が植えられた花壇のそばにある涼台に、「彼」はひとり腰を下ろして月を眺めていた。

「−−−−アゴル」

驚かせないように、少し離れた位置からイザークが声をかける。
シンプルな夜着に身を包み、今は金の波打つ髪を下ろしてリラックスした姿のアゴルが、葡萄酒の入ったグラスを片手に振り返った。

「イザーク。起きていたのか」

「いや。あんたの気配がしたので目が覚めた」

静かに歩み寄り、イザークは、アゴルの横に並んで腰を下ろした。

「−−−−珍しいな。なにか気がかりなことでもあるのか?」

アイビスクに到着してから、もう数週間になる。

隣国のモーズクやトラハンとの国境沿いで多少のいざかいが起きてはいるものの、それほど深刻な問題には今のところつながっていない。イザーク達も、数日置きにクレアジータや他の高官達の領内視察などに付き添って出かけてはいるが、アゴルが眠れなくなるほど心配するようなことは何もないはずなのだが。

「大丈夫。そういうことではないんだ」

にこり、と笑い、アゴルは、イザークに自分のグラスを差し出した。

「あんまり満月が綺麗だったからな。ちょっとお月見でも、と思っただけさ」

「......」

アゴルの言葉を鵜呑みにするわけでもなく、イザークは、受け取ったグラスから挨拶程度に一口だけ飲み、またアゴルの手に返した。

「−−−−ノリコとは、うまく行ってるみたいだな」

唐突に言われて、イザークは一瞬うっと言葉に詰まった。
一瞬、かあっと頬が赤らむ。

「あ、ああ....」

それを見て、アゴルが、まるで兄のような暖かい笑顔を浮かべる。

「いつも、あんまりバラゴが君達をからかうから言えなかったが、俺も実は少し心配していたんだ。君は−−−−もう少し自分に正直になったほうが良いと思ってたからね」

返されたグラスを両手で握り、アゴルは、開いた膝の上に両腕を置いて少し前屈みになった。グラスを揺らし、波打つ赤い葡萄酒をみつめる。

「...全身全霊をかけて愛せる相手というのは、そうそう見つかるもんじゃない。そんな相手を一度見つけたら、何があっても手放しちゃいけない。欲しいものは欲しい、と言わなきゃいけない。そうでないと−−−いつ、後悔することになるかもしれないからな」

「アゴル...」

呟いて、再び月を見上げたアゴルの横顔は、今はもういない誰かに想いを馳せていた。

その横顔をみつめながら、少し遠慮がちに、イザークが口を開く。

「−−−どんな女性(ひと)だったんだ?」

「え?」

意外なイザークの質問に、アゴルは隣に座る青年を振り返り、少しだけ目を開いた。

「−−−イザークがノリコ以外のことに興味を持つなんて、意外だな」

「えっ...そ、そうか?」

返されて、今度はイザークのほうが少し焦ったように目を見張った。明るい月夜の下で、その端正な顔がまたうっすらと赤くなる。

いつもは何事にも必要以上に冷静に対応するこの青年が、ことノリコのこととなると、面白いぐらい簡単にポーカーフェイスを崩す。彼の本質が浮上する。

(バラゴがオモチャにしたがるはずだ...)

少し気の毒に感じながら、アゴルは小さく笑ってイザークの背中をぽんぽんと叩いた。

「冗談だ。−−−君は、いつも人に気を遣ってばかりだから、きっと今まで俺にも気を遣って訊かないでいてくれたんだろう」

「話したくないことなら無理に訊く気はないが−−−」

「....月下草のような人だったよ」

遠慮がちに言いかけるイザークを遮るように、アゴルが、にこりと笑う。

彼が彼女を例えたのは、満月の夜に一晩だけ、大輪の紫がかった白い花を咲かせるという、高地にだけ生息する野草だった。

「−−−俺の一目惚れだったよ。少し病弱で華奢だったが、とても芯の強い人だった」

これ以上はないというほど、嬉しそうに、自慢げに、アゴルが微笑む。

「これでも俺は、若い頃は腰の落ち着かない男でね。職を転々としながら、色んな国を旅して回ってた。そんな中で彼女に出会い...ふわふわして落ち着かない俺を、彼女はしっかり捉まえて、地に着けてくれた」

ジーナハースに良く似た、ふわふわの波打つ明るい髪に、濃いすみれ色の瞳。
自分を見上げ、嬉しそうに微笑む姿。

  『あなた....』

もうずいぶんと以前のことなのに、今もなお、その髪の甘い香りをはっきりと思い出せる。抱きしめた、肩の細さまでも....。

「−−−−最高に、幸せだったよ」

にこやかに、満面の笑みを浮かべて。

「自分よりも大切なものができるということが、こんなに幸せなことだなんて、思いもしなかったよ」

「−−−−ああ、そうだな...」

イザークも、一瞬顔をあげ、中庭に向かって開いた窓の奥で、今は静かな寝息を立てているノリコのことを想った。

「もう、10年近くなるんだなぁ....」

満月を見上げ、アゴルが独り言のように呟く。

まだひとり歩きもできない小さいジーナとふたり残され、どうして良いのかわからず途方に暮れていたのは、つい昨日のことのようだというのに。時間の経つのは、なんと早いことか。

「アゴル....」

懐かしげに呟くアゴルの口調に、一瞬見え隠れする、「痛み」。

傍らでアゴルを見つめるイザークの目には、これまでにはなかった、深い敬意の念が現れていた。

「あんたは、強いな」

心からの、言葉。

ノリコを失った後の世界など、イザークには、想像もできない。
ノリコを失うことを考えるだけで、自分でも愕然とするほど動揺してしまう。手足が震えて動けなくなる。

彼女を失った後の世界で、自分だけで立って生きていくことなど、果たして自分にはできるだろうか?アゴルのように、笑顔を見せることができるだろうか?

「ええっ?」

心から感嘆している様子のイザークの声に、アゴルは傍らの青年を振り返り、大きく目を見張った。

「君が、それを言うのか?『天上鬼』の君が?」

「俺は、あんた達が考えるほど強くない。いつもぐらついてばかりだった−−−ノリコを得るまでは」

どんな強大な力を持っていても、強い「心」は作れない。

今、こうして立っていられるのは、ノリコがいたから。
ノリコを守りたい一心で、戦ってきたから。

その、ノリコを失くしたら−−−−−−。

「俺には−−−−あんたのように、笑っていられる自信はない」

想像しただけでも、胸が苦しくなる。

知らず眉を歪めて目線を落としたイザークをみつめ、アゴルは、にこりといつもの優しげな笑みを浮かべた。兄のような、父のような、そんな穏やかな笑み。

イザークの肩をぽん、と軽く叩き、そのままその肩に手を休め、また月を見上げる。

「そりゃ俺だって、辛かったさ」

それを、今、こうして笑顔で言えることこそが彼の強さだということに気づかないまま、アゴルは続ける。

「俺を強いと言うのなら...それは、やはりジーナのおかげだろう」

日に日に愛しいあの人の面影に似てくる、愛娘。

自分の世界のすべてが崩れ落ち、悲しみと絶望だけに囚われそうになっていたあの日にも、失った彼の女(かのひと)と同じ瞳のジーナハースを抱きしめ、癒され、なんとか自分を失わずにいられた。

ジーナにとっての占石がそうであるように、アゴルにとっては、ジーナ自身が、何物にも代え難い、亡き妻の忘れ形見だ。今は、そのジーナの笑顔を守るためだけに、生きているようなものだ。

「アゴル...また、いつか、同じように愛せる人が出てくると思うか?」

素朴な、疑問。

傍らの青年の肩から手を外し、アゴルは、おどけたように小さく肩をすくめてみせた。

「さあなぁー。さっきも言っただろう?そこまで惚れられる女っていうのは、そうなかなか見つかるもんじゃないからな」

「ジーナにももう一度お母さんを...と考えたこともあるが、やっぱり、な....」

「アゴル...」

「それに、ジーナにとっては、今はもう君やノリコが家族の一部みたいなものだし。特にノリコを実の姉のように慕っているから、別に母親はいなくてもいいようだ」

ありがとう、と礼を言ったあと、アゴルは、ところで...とイザークに笑いかけた。

「−−−君のことだから、もちろんもう考えてはいるんだろうが...。そろそろ、君達も腰を落ち着けても良い頃じゃないか?」

話題を自分達のことにふられて、イザークが一瞬うっとなる。

「君達のおかげで『元凶』を滅してから、もうだいぶ経つ。この世界もだいぶ落ち着いてきたし、ノリコのためにも、どこか一カ所に腰を落ち着けるのもいいかもしれないと思わないか?」

「ああ...」

いつもなら、ここで赤くなって慌てそうなところだが、今夜のイザークは、不思議なくらい穏やかな気持ちで、アゴルの問いに軽く笑顔で応えた。

「考えては、いる...」

短く、答えて。

イザークはすくっと涼台から立ち上がった。

「−−−−そろそろ戻る。あんたは?」

「俺は、もう少し月見をしてから戻るよ。おやすみ」

手にしたグラスを持ち上げて、アゴルはにっこりと笑った。そんなアゴルに軽く会釈だけ返し、イザークは中庭を後にした。

今は安らかな寝息を立てているノリコの元へ戻り、その体温をその腕で確かめるために。

愛する人が、明日もそばにいてくれる。そんな保証はどこにもないのだということを実感しつつ、その肌のぬくもりをしっかりと抱きとめておきたくて。




イザークの去った後の中庭には、再び静寂が訪れていた。

「......」

昼間のように明るく、青白い月明かりの中で。静かに満月を見上げるアゴルの頬を、ふわりと微かな風が吹き抜けていく。

今は遠いあの人に想いを馳せ、アゴルは、静かに、目を閉じた。


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