6/22/2015

迷い子 第2章

近くで、なんだか言い争うような声がする。

靄がかかったようにぼんやりとしていた頭が徐々にクリアーになってきて、ノリコはハッと我に返った。

見覚えのない景色。
どこかの見晴らしの良い丘の上のようだ。

こんな大自然に囲まれた公園、うちの近くにあっただろうか?

無意識に地面に手を着き、初めてノリコは、自分が見たこともない不思議な色の花が咲き誇る大きな木の根元に座っていることに気づいた。

(あ、あれ...???)

あたし、ここで何をしていたんだっけ?

最後に憶えているのは、ひろみや利恵ちゃん達と下校している途中に、転がってるボールを拾ってあげようと追いかけていて...電柱のそばで爆発みないなものが起こって、そのままなんだかわからないうちにSFちっくな夢を見て、それで−−−−。

その記憶自体、どこか遠いもののような気がする。

考えれば考えるほど訳が分からなくなって、ノリコは目を丸くした。

何が一体どうなって、あたしはここにいるのだろう??

『−−−−ここ、どこ?』

よく見ると、服装まで変わっている。
いつもの制服ではなく、見覚えのないどこか異国の衣装のようなものを着ている自分に、余計に混乱する。しかも、髪まで伸びている??

「−−−ノリコ?」

目をぱちくりさせていたノリコは、前方から自分の名を呼ぶ声を耳にして、ビクッと顔をあげた。

「.....」

少し離れた位置に立ち、こちらをじっとみつめているのは、艶やかな長い黒髪に異国の顔立ちをした、すらりと背の高い男性。もちろん見覚えなどない。

その彼が自分の名を呼んだことに違和感を覚え、ノリコは、彼の顔を凝視した。

「.....」

切れ長の漆黒の瞳に、涼やかで端正な面立ち。
独特のデザインの長丈のジャケットを羽織り、厚めの革のベルトが巻かれた腰には、剣が携えられている。

父が書くファンタジー小説ならば、間違いなく主人公になれるだろう。

立っているだけで絵になるその姿はあまりにも印象的で、一度見たら決して忘れられそうもないのに、見覚えがまったくない。

それなのに、彼は、確かに自分の名前を呼んだ。

『あの....』

ここはどこですか、ともう一度尋ねようとして、座ったまま身を乗り出したノリコは、青年の傍らに立つもうひとりの少年の姿に気づいて、口を開けたまま、はた、と凍りついた。

淡い金髪に紅い目をしたその少年の足は、地面についていない。
見間違えようもなく、彼の身体はふわりと宙に浮いているではないか。

『−−−−−?!?!』

頭はパニック状態。

言葉にならない思いに口をぱくぱくさせながら、ノリコは、少年を指差した腕を震わせた。

「あれえ?」

すうーっと宙を滑るような動きでノリコに近づき、及び腰になっているノリコの目と鼻の先に顔を寄せて、少年がどこか不思議そうな顔をした。

(ゆ、幽霊があたしに話しかけてる〜〜〜〜?!)

パニックのあまり硬直して動けなくなったノリコの顔をじーーっと確かめるようにしばらく覗き込んでから、少年がふうっと溜息をつく。

「あーあ。ノリコってば、君のことだけじゃなくて、君と出逢ってからの記憶全部をなくしちゃったみたいだね」

「何?!」

ノリコの呟いた異世界の言葉を耳にした瞬間に脳裏をよぎった不安が、確かなものとなる。イザークの顔が一瞬にして青ざめた。

「記憶を全部、だと...?」

ノリコと出逢ったのは、彼女が異世界から飛ばされてきた直後の『金の寝床』だった。
もしノリコが自分と出逢ってからすべての記憶を失ったのだとすれば、ここ数年のこの世界での生活経験や言葉も、そのすべてを失くしたことになる。

今のノリコには、異世界から飛ばされてきたばかりの、17歳の頃の記憶しかない−−−−。

「なんて..ことを...」

震える声で呟いたイザークとは逆に、特に事の深刻さに気づいてもいないような様子で、ユッグは大袈裟に肩をすくめてノリコから身を離した。

「ちぇっ。つまんないのー。言葉も通じないんじゃ、一緒にいても面白くないや」

「....!!」

身勝手にもほどがある。

心底つまらなそうに呟きを漏らしたユッグにカッとなり、イザークが掴みかかろうとするが、もちろんその腕は、実体のない精霊の身体をすり抜けて宙を掴むのみだ。

「ノリコの記憶を戻せ!」

「えー。無理だよー。それは僕の専門じゃないもん」

「そういう問題じゃない!」

怒鳴りつけるイザークに、ユッグは、宙をふらりふらりと飛び回りながら、涼しい顔で口笛を吹いてみせた。それが余計にイザークの神経を逆撫でする。

「貴様!」

声を張り上げたイザークに、背後で、ノリコがビクッと身体を強ばらせた。

状況把握もできないまま、目の前で、見知らぬ青年と幽霊(?)が、聞き覚えのない言葉でいきなり喧嘩を始めたのだ。ノリコのパニックに拍車をかける。

(な、なにがどうしてどうなってるの−−−−?!)

わけもわからないまま、とにかく立ち上がろうと身を起こしたノリコだったが、ずいぶんと長い間座っていたせいか、足が痺れていて感覚がない。陸上の短距離走スタート時のような姿勢から思わずよろめきバランスを崩したと思ったら、ぐらり、と身体が横に傾き、そのまま、緩やかに傾斜していた丘の斜面を転がり落ちた。

『わああああああああ〜〜〜〜?!?!』

「−−−ノリコ!!」

慌てて跳躍したイザークが、斜面をゴロゴロと勢い良く転がっていくノリコを横から抱きかかえるようにして庇い、一緒に下まで転がり落ちた。ドッと斜面下の木の幹にイザークが背中をぶつけて、止まる。

『あたたたた....』

うう、と唸りながら目を開けたノリコは、イザークに正面から抱きかかえられたまま、ふたり揃って横倒しになっていることに気づくと、顔を真っ赤にして勢いよく跳ね起きた。

(うっしゃーーーーー!!)

『ご、ごめんなさいっ!−−−ッ!!』

転げ落ちた拍子に、どうやら足を挫いてしまったようだ。

大慌てで立ち上がろうとして、ノリコはカクンッとバランスを崩してその場に座り込んでしまった。

サッと起き上がったイザークが、心配そうに近づいてくる。

「大丈夫か?」

ノリコの肩を抱き、庇っている左の足首に触れようとして、イザークはハッと我に返ったように手を止めた。

今のノリコには、記憶がないのだ。
見ず知らずの男が、軽々しく触れるべきではない。

「...見せてみろ」

肩に伸ばしかけた腕を一旦引っ込め、まずはノリコと視線を合わせてから、そっと右手を伸ばして左足にだけ触れる。

折れてはいないようだ。軽く捻挫した程度だろう。

軽く安堵の息をつき、イザークは目を上げて、ノリコの顔を間近からみつめた。

「大事はなさそうだ。心配ない」

『あ、あの....』

イザークの顔がこんな近くに寄るのはまるで初めてのことのように、ノリコは、頬を赤らめ、おどおどと緊張に身を固くしている。

『ご、ごめんなさい。あたし、あの、平衡感覚はいいはずなんだけど、どうも、その、鈍臭くって...』

何を言っているのかはわからないものの、彼女がひどく申し訳なさそうにしていることはわかる。膝をついた姿勢のまま、イザークは、そんなよそよそしいノリコの挙動に、ひどく胸が痛んだ。

こんなにもそばにいるのに。

肩を抱き寄せることさえ、今は適わない。

「.....!」

キュッと唇を固く結び、顔を上げると、イザークは地面を軽く蹴ってひとっ飛びで丘の上まで戻った。事の張本人をこのままにはしておけない。

が、もちろん、ユッグの姿はすでにどこにも見えない。
見渡す限り、緑の木々が眼下に広がっているのみだ。

素早く周囲を見回したイザークは、途方に暮れる思いに包まれながら、斜面の下に座り込んでいるノリコに再び視線を戻し−−−肩を落とした。



「ノリコ....」

ゆっくりと、斜面を降り、ノリコに近づく。

座り込んだ姿勢のまま、イザークを見上げてくるノリコの瞳は、不安そうに翳っている。

それはそうだろう。

今の彼女にとっては、自分も−−−この世界のすべてが、見慣れない異質なものでしかないのだ。途方に暮れているのは、自分ではない。彼女のほうだ。

『あ、あの...あたし....』

言葉が通じないことは理解している。ただ、これからどうすればいいのか、どこに行けばいいのかもわからず、今は不安でしかたないはずだ。

それなのに彼女は、なんとか自分とコミュニケーションを取ろうと、ぎこちない笑顔を浮かべようとしている。

「.....」

実際には、彼女がこの世界に来てから、4年近くが過ぎている。
その間に共に体験してきた様々な出来事を−−−想いを、伝える術は自分にはない。

今、自分にできるのは。

「−−−イザーク、だ」

ノリコの前に片膝をつき、イザークは、言葉では伝えきれない想いのすべてをこめて、微笑んだ。

俺が、守る。
不安に思わせたり、しない。

「俺は、イザーク・キア・タージという。ノリコ」

暖かい、笑み。

そっと差し出されたイザークの右手を、ノリコは、頬を朱に染めながら、おずおずと取った。

『イザーク...』

やっとノリコが口にした懐かしい響きに、イザークは、なぜか泣きたいような思いに胸を締めつけられた。


***********

森を出たすぐそばにある、小さな町の宿屋。

背負ってきたノリコを戸口近くのベンチに座らせたイザークは、何事かと宿屋の主人に尋ねられ、森の中で迷子の声がして追いかけていたら、妻がこけて足を挫いた、とだけ手短に話した。

その話を聞いて、イザークに部屋の鍵を渡しながら、宿屋の主人が苦笑いを浮かべる。

「あー、あんたがたもやられたのかい」

「...よくあるのことなのか?」

掌中の鍵を軽く握りしめながら、イザークは、カウンターの向かいに立つ初老の主人を見返した。

「いやあ。春先になると、あんたらのような旅人がたまに、な。あの花を乾燥させてお茶にすると安眠効果があるから、昔は町からも花を摘みにいく者がたまにいたがな。今じゃ地元の人間は、あの精霊の悪戯には懲りとるから、あのあたりにはほとんど近寄らんよ」

主人が軽く笑う。

「まあ、悪戯といっても、半日ほど森の中を迷わされたり、落とし穴に落ちて足を挫いたりといった程度のかわいいもんだ。許してやってくれ」

「.....」

記憶を奪われた、というのは、やはりノリコが初めてなのかもしれない。

とにかく、あの精霊を再びみつけだし、なんとかノリコの記憶を取り戻す方法を見つけ出さなければ。

鍵を握った右腕をカウンターの上に乗せたまま、憂い顔でやや俯いたイザークと、ベンチに座り、口元に手を寄せて不安げにその横顔をみつめているノリコの姿を交互に見遣り、宿屋の主人は軽く首を傾げた。

「あんたら、夫婦なんだろう?本当に寝台ひとつの部屋でなくともいいのかね?」

特に不審がるというわけではなく、素朴な質問として主人が問う。
その顔をハッと見返して、イザークは、口元にかすかな苦笑を浮かべた。

「いや、いいんだ」


*****

『え?何?同じ部屋なの?!』

抱きかかえられて二階に上がり、奥の部屋に入った途端、部屋の両隅にあるふたつの寝台を交互に見て、ノリコがひっくり返った声を上げた。

言っている言葉がわからなくとも、彼女が何に驚いているのかは一目瞭然で、イザークは、彼女を戸口近くで降ろしながら、知らず口元に笑みを浮かべた。

自分の腕の中でいつも眠りについていた日々を憶えていないことへの寂しさもあったが、それよりも、出会ったばかりの頃のノリコを見ているようで、既視感にも似た懐かしさと、新鮮さが同居した、不思議な感覚に襲われていた。

(そういえば、初めて訪れたカルコの町でも、同じような反応をしていたな...)

あの時は、イザーク自身もノリコの存在を持て余していたし、例の症状が出る直前で身体がだるかったこともあり、言葉もかけずにすぐにそっぽを向いて横になってしまったような記憶がある。

「−−−−−−−−」

異世界に飛ばされてきたばかりで、何もわからず不安でしょうがなかっただろう少女に、あまり優しくできなかった自分が悔やまれる。

あの時は、まさかノリコがこれほどまでに自分にとって大切な存在になるとは思ってもいなかったから....。

「.....」

居心地悪そうにしているノリコの横顔を、イザークは、言葉にならない思いでみつめた。

それから、ふと思い立ったように部屋の隅にあった衝立を部屋の中央に動かして仕切りにし、右側の寝台を指差しながら、ノリコの背を軽く押す。

『あ、あたしはこっちを使えってことですね?』

少しホッとした様子で、ノリコがぎこちない笑顔を浮かべる。

(本人はまったく覚えていないようだが)愛用の肩掛けバッグを両手で胸の前に抱きしめたまま、ノリコは右側の寝台へとひょこひょこと歩み寄り、やや落ち着かない様子で寝台の端にちょこんと腰を下ろした。

「.....」

そのままそっとしておこうかと思ったものの、ノリコがあまりにも居心地悪そうにキョロキョロしているのが気になり、イザークは、わずかに躊躇ったあと、ノリコに歩み寄った。

『あ、あの....?』

身を軽く引きながら見上げてくるノリコの、やや警戒するような眼差しが胸を刺す。

無言のまま、イザークはノリコが膝の上に降ろした肩掛けバッグを指差し、中を見ろ、と仕草で促した。

『???』

素直に従い、バッグを開けたノリコは、わずかな身の回りの物と一緒に入っている書紙の束をみつけて目を見張った。

『これ....』

まだほとんど何も書かれていない書紙を広げ、最初のページに見慣れた自分の文字をみつける。自分が書いた日記だと気づいたノリコがハッと顔を上げると、イザークは軽く笑みを返して、そのまま衝立の向こうへ姿を消した。

気を遣ってくれていることは痛いほどわかるのに、お礼の気持ちを伝える言葉さえわからない自分がもどかしい。

『.....』

バッグから出した書紙を手に、ノリコは、靴を脱いで寝台の上に膝を抱えて座り込んだ。

初めて見るのに、自分のことを知っているらしい、イザークという名の青年。

見覚えのない異国の服に身を包んだ自分を鏡で見てみると、最後の記憶にある自分よりも髪が伸び、大人びた印象になっている。

記憶がないはずなのに、宿屋で出された食事時の作法や靴の脱ぎ方まで、身体が自然に動き、憶えているのは、やはり、自分がここで以前暮らしていた証拠なのだろう。

(記憶喪失、なのかな。やっぱり....)

映画や漫画の中だけでしか発生しない特殊なシチュエーションだとばかり思っていたのに、まさか自分がそんな事態に遭遇するとは。

ぽっかりと穴が空いているような自分の記憶の鍵が、この日記の中にあるような気がして、ノリコは、やや緊張気味に、改めて書紙を自分の膝を上でそっと開いた。

( .....)

見慣れた文字が書かれているのは、最初のページのみ。

そこには、タルメンソンという国で起きた『悲しいこと』のせいで、イザークが自分のために心を痛めているのを見るのが辛いこと、そしてふたりで約束したとおり、新たに旅に出るにあたって、日記を新調した、楽しみだ、ということが、短く書き記されていた。

聞いたことのない国の名前。

今は思い出せない、『悲しいこと』。

確かに自分の筆跡なのに、書いたことさえ憶えていないことにひどく寂しい気持ちになりながら、それでもノリコは、自分が今いるこの場所が、生まれ育った日本とはまったくことなる次元−−−異世界なのだ、ということを実感した。

そして−−−−−−。

自分が書いた文章と、それから、自分の左の薬指にはまっている蒼銀色の指輪を交互に見遣り、ノリコは、はた、とひとつの事実に気づいて目を丸くした。

『えええ〜〜〜〜っ?!』

思わず、すっとんきょうな声が出た。

と同時に、その声に驚いたイザークが、何事かと衝立の向こうから飛び出してくる。

「ノリコ?どうした?!」

『あ、あ、あの....』

言ってもどうせ理解してもらえないということ以前に、自分自身がその事実に衝撃を受けすぎて、言葉が出てこない。

自分の左手の指輪を右手で指差しながら、ノリコはイザークを見上げたままパクパクと声もなく口を動かした。

「ああ...」

事態を把握し、イザークが安堵したように軽く息をついた。
そしてノリコの寝台の端にやや距離を取って腰を下ろし、自分の左手を広げてノリコに見せる。

『あ−−−−』

骨張った長いイザークの薬指には、自分とお揃いの蒼銀色の指輪がはめられている。
その意味を理解し、ノリコの顔が見る間にぼんっと真っ赤になった。

『イ、イザークとあたしって、まさか....』

ふたりきりで旅をしているらしいのだから、知らない仲ではないと理解していたものの、まさか結婚しているとは、自分自身の日記を見るまで思いもよらなかった。

自分の記憶としては男の人と付き合ったことさえないのに、こんなカッコいい男性と、まさか自分が異世界で結婚しているだなんて、想像できるはずがないではないか。

『そ、そんなこと、イザーク全然言って....。いえね、もちろん言葉が通じないんだから、言ってたとしてもあたしが気づいてなかっただけかもしれないんだけど。でも、だって、あたしとしてはまだ高校生だとばかり思ってた自分が、異世界でイザークみたいな人と、け、結婚してるとか、まさかそんなことになってるとは夢にも思わず−−−−』

緊張するとペラペラと余計なお喋りが増えるのは、ノリコの昔からの癖。
顔を真っ赤にして動揺しまくっているらしいノリコの姿に、イザークも、事態の深刻さを一瞬忘れて、思わず吹き出しそうになった。

言葉が通じなくても。
ふたりで過ごした記憶がなくても。

ノリコは、やはりノリコのままだ。

正直、これからどうすればよいのか途方に暮れていたイザークだったが、この状況に心和む思いで、軽く息をつき、口元にやわらかい笑みを浮かべた。

「ノリコは、俺の妻だ。俺達は、結婚したんだ」

自分の薬指の指輪を指差し、それから、ノリコの左手を指差して。

「俺達は、夫婦(ロジー)、だ」

『ロジー...』

聞き慣れぬ言葉を不思議そうに繰り返し、ノリコが、しげしげとお互いの手をみつめた。そして−−−イザークの真意を探るかのように、その漆黒の瞳をじっとみつめてくる。

以前であれば、こうしてみつめ合うだけで、心と心が通じ合った。

言葉にしなくても、お互いに求め合う気持ちが伝わってきたのに。

「.....」

その手を引き寄せ、華奢な肩を思いきり抱きしめたい衝動に駆られ、イザークは、広げてみせていた左手をぐっと握りしめた。

もどかしい思いを押し隠し、そのまま、立ち上がる。

「−−−−今日はもう休め。今後のことは....明日考えよう」

ノリコの返答を待たず、イザークは衝立の向こうに消え、部屋の灯りを落とした。


******

どれぐらいの時間が経ったのだろう。
青白い月明かりが、窓から差し込んでいる。

しんと静まりかえった部屋の中央に立ち、イザークは、安らかな寝息を立てているノリコの寝顔を、しばらくの間静かにみつめていた。

その布団の中に滑り込み、腕を回して抱き寄せ、その首筋に口づけを降らせたい。
木洩れ陽の香りのする栗色の髪に寄り添って眠りたいのに、今は、それすらも適わない。

「.....」

一度は手に入れたものを我慢するのは、一度も触れずに我慢していた頃とは訳が違う。
一度味わった蜜の味を、知らなかったことにはできないのに。

苦い思いを胸に抱きながら、イザークは寝室をそっと後にした。



小さな町は、そのすべてが眠りに落ちているかのようにしんと静まりかえっている。
月明かりに青白く照らし出された路地から一気に宿屋の屋根へと跳躍し、イザークは、煙突の壁に片手をついた。

すうっと息を吸い、もう一方の手を、天に向かって掲げる。

その掌から、カッと眩い閃光が空に向けて走ったのは、ほんの一瞬。もし町の誰かがその光を目撃したとしても、おそらく稲妻と勘違いしただろう。

それからしばらく、イザークは、屋根の上に腰を下ろして静かに待った−−−彼が、応えてくれるのを。


半刻も経っただろうか。

不意に、やや目線より高い位置にぽわん、と蛍のようなやわらかな灯りがともり、イザークは静かに顔を上げた。

「−−−わざわざ呼び出してしまって、すまん」

イザークの視線の先には、宙に浮かんだ、銀の髪に菫色の瞳をした少年の姿。

「久しぶりだね、イザーク」

イザークと目が合って、イルクツーレはふっと優しく微笑んだ。

幼い少年の姿でありながら、長い長い時間を生きてきた、朝湯気の木の精霊。
その菫色の瞳には、深い英知と慈悲の光が宿っている。

「君が僕を呼び出すなんて、よっぽどのことだよね。僕に、なんの用かな?」

ふわり、とすぐそばまで降りてきたイルクに視線を合わせたまま、イザークはゆっくりと屋根の上に立ち上がった。

「−−−イルク。ノリコを失いたくない。力を、貸してくれ」


***************

<あとがき>

皆様、お久しぶりでございます。
いつも、できるだけ月一ではアップできるように心がけているのですが、本業のほうが非常に忙しい時期に突入しており、ここ数ヶ月、文章を書く精神的・時間的余裕がありませんでした。ご連絡くださった皆さん、ありがとうございます。

さて、この『迷い子』を書きはじめた際、何人かの方からメールをいただき、「あんまりイザークをいじめないで!」と言われてしまいました。

ス、スミマセン....。わざといじめてるわけじゃないんですけどねー。つい...。
ただ、今回のお話は、『氷の鏡』のように長編にする気も、イザークをいじめ抜く(?)つもりもありませんので、ご安心くださいませwww

ご感想いただければ幸いです。

4 件のコメント:

  1. …泣けました。まずは、第2章がアップされていて嬉しくて涙。待ってました~ありがとう!という感じで。
    あとは…イザークが切なくて。イザークのノリコに対するいたわりが、優しさが、哀しみが、もう切なすぎて涙、です。ノリコは記憶をなくしてしまったけれど、イザークから離れないでほしいなぁ…。何があってもイザークが守ってくれますもんね。
    この先ますます目がはなせませんね。
    楽しみに待たせていただきます。

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    1. リョウさん、

      コメントありがとうございます。待っていてくださってありがとうございます。
      言葉もわからない異世界にひとり、という状況にあるノリコの気持ちや、イザークの思いを上手く言葉にしていければな、と思っています。応援ありがとうございます。これからもよろしくお願いしますね。

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  2. 第2章、楽しみにしていました。
    第1巻を見ているようで懐かしく思いつつ、エンディング以降の二人の歩んだ道を思うと切なく感じました。
    これからも楽しみにしています!

    お体お大事になさってください。

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    1. こんにちは。コメントありがとうございます。
      今回のお話は、単にイザークを苦しめたい、ということではなくて、まあ、私的に色々考えてのお話なので、最後まで楽しんで?いただければ幸いです。これからも応援よろしくお願いいたします。

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